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さて、時間は少々さかのぼる───。
スタッカローは歓楽街であるから、治安が万全とはお世辞にも言えない。
賭場や遊郭で身ぐるみはがれた者が、翌日には強盗に早変わりなんてのもよくある話で、顔と名の通った商家の人間は、当然に自衛の手段を講じていた。護衛を雇うのはもちろんだが、自身でも護身のため、武器の扱いをたしなんでいるのが普通である。
ところがジャック・カウフマンときたら、からきしダメだった。剣術道場に通って剣技を習っており、師範には、筋がいい素振りのかたちがいい、と誉められはするのだが、立ち合いになるとまるで勝てなかった。
商人の父から、幼い頃から、控えて、慎重に、と教わってきた。自らの欲は満たさず、隠せ。他人の欲を満たせ。それが商売の秘訣なのだと。その低姿勢に徹して、父は成り上がったのだと。
その教えはジャックの心にしっかりと根を張ってしまい、彼の慎重さは度を超して臆病の域に達していた。後から父は、「時と場合によることもある。時流に乗るのも大事」と軌道修正を加えようとしたが、とき既に遅し。最近は父の仕事を手伝うようになったが、やりくちが手堅すぎてつまらんと、古くからのなじみ客にまで文句を言われる始末だ。父親が謝る姿を何度見たことか。
それが剣術にも出てしまうのだ。何しろ自分からは打ちに行かない。行っても躊躇が見えるので避けるのはたやすい。これでは勝てるわけがない。
当人も、これではまずいと思い始めたが、何しろ教えが根を張っているから、なかなか切り替えができずにいた。
転機は、一年ほど前のことになる。
アストリッドに出会い、一目で恋に落ちたのだ。
ウッドワンド公の一人娘アストリッドといえば、器量のよさはもちろんのこと、まだ一五という歳に似合わず、聡明で分別をわきまえていると評判だ。
公の、目に入れても痛くない溺愛ぶりはつとに有名で、彼の豪放な遊び癖が昨今めっきり影を潜めたのは、老いのせいではなく、娘にたしなめられているというのが実情らしい。
奥方は体が弱く、もう子供は望めないといわれており、さて公が誰を婿に選ぶかが、このところスタッカロー市民の一大関心事であった。
有力商人として成り上がってきた父親を気に入り、ウッドワンド公はカウフマン一家をプライベートなパーティーに招いた。ジャックがアストリッドを見初めたのはそのときだ。
天にも昇る心地とはこのことだった。こんなすてきな人が、すてきな感情がこの世にあるものかと、幸福感が充ち満ちて、目の前の何もかもが見違えて見えた。
それから何度となく、機会を作ってアストリッドに会いに行った。花やお菓子を贈ったり、あるいは、箱入りなアストリッドのために、街であったおもしろい話を披露して、彼女の歓心を引こうと躍起になった。
躊躇はあった。自分がとても恥ずかしいことをしているんじゃないかと、自分の中だけでひどく気まずくなって身悶えることもあった。それでも、会いたいという気持ちは、彼の臆病さを少しだけ上回って、彼は歩みを止められなかった。
一方で、そんな好意をはっきり彼女に「好きだ」と伝えられるほど、ジャックには勇気がなかった。
アストリッドの反応は、けして悪くない───と思う。告白すれば、OKしてもらえるんじゃないか、という手応えは、ある。でも、ダメだったら?
アストリッドはいつも笑ってくれる。その笑みを見るだけでジャックは幸福な気分になれる。それで十分じゃないか。そんな風にも思う。
少しだけ聞き出せた、彼女の本心がある。
───何しろ領主の娘たるアストリッドは、丁重に断るのも飽きるほどに、すでに何度も求婚を受けていた。でもそれは、花咲いた美貌にアテられた直情的なものだったり、公の絶大な権力と財産を狙う打算的なものだったりしたから、聡明な彼女には、恋愛とか結婚とかいうものは面倒ごとにしか見えていなかった。
だから、ジャックのような人は初めてなのだ、と。ジャックが寄せる好意は、率直に嬉しい、ありがとう、と。
しかし、そうした遅々とした恋模様に、だんだんウッドワンド公の顔がこわばってきた。飽きるほど言い寄ってくる男どもに辟易していたのは、当人以上に、娘を溺愛してやまない父親の方だったのだ。
初めのうちは、ジャックを快く屋敷に迎えていたが、渋々になり、嫌々になり、しまいには挨拶もしなくなった。自分の後継者たる度量がかけらも見当たらない、なよなよしてはっきりしない意気地なしが、娘にちょっかいをかけに来るのが我慢ならなかった。
そしてある日、ウッドワンド公の堪忍袋の緒が切れた。
その日ジャックは、公の屋敷の庭の、花壇に囲まれたあずまやのベンチに、アストリッドとふたり腰掛けて語らっていた。
砂漠地帯のスタッカローでは、花壇はまれだ。そこでジャックは以前、熱と乾燥に強い品種の苗をいくつかアストリッドに贈り、アストリッドは庭師に命じて、もとは芝生と灌木で囲まれていただけのあずまやの周りに植えさせたのだ。
その苗が、ようやく花をつけたというので、ジャックはアストリッドを訪ねた。初めはふたりして、よかったねと喜びながら花を愛でていたが、花の香りが甘く鼻腔をくすぐるうち、ふたりの間にも甘い雰囲気ができあがっていって、そしてジャックは、出会って一年目にしてやっとのことで、アストリッドの手をぎゅっと握りしめた。
そのまま、少しずつ顔を寄せ合って───。
そこを、ウッドワンド公に見つかった。
───え、えっと、僕は、その、本気で、お嬢さんのことが……
───馬鹿いうな! 貴様みたいな表六玉に、大事な娘をやれるか!
引き離された後、いくら訴えても、ウッドワンド公には聞き入れてもらえなかった。
今後一切の出入り禁止を宣告されて、ジャックは、とぼとぼと家に戻るしかなかったのである。
十日ほど後。
ウッドワンド公からのとんでもないお触れがスタッカロー市中に出回り、公ご乱心、と騒がれる事態となった。
具体的に誰が、という話は伝わらなかったものの、不作法な求婚者が公の逆鱗に触れたのだという。で、立腹した公が何をやらかしたかというと、───彼はアストリッドを屋敷の離れの塔に閉じ込めた。そして、娘と結婚したくば、塔から奪ってみせよ、と宣言したのである。
ウッドワンド公の屋敷は湖の中の小島に建っている。数十年前、水源の奪い合いに明け暮れた戦乱時代の城砦を、改築したものだ。
島といっても、ほぼ地続きだ。岸と島は、湖面がちょうど堀に見えるほどの距離しか離れておらず、二本の石橋がつないでいる。ともに、径間が長く取られた石積みの二連アーチ橋で、欄干やそれを支える
ひとつは市街地から屋敷の表門に通じている。人馬の出入りが多く、幅も広い。屋敷に不審人物が入らぬよう、門前で、あるいは監視櫓の上から、複数名の私兵が、二四時間警備している。
もうひとつは、街から少し外れた裏道から分岐して裏門へと通じている。荷馬車が一台通れるほどの幅しかなく、たまに農民が屋敷に食料を運び込むために出入りするくらいで、人通りはほとんどない。昼間はひとりふたり警備兵が立っていてあくびをしているけれど、深夜になれば、鍵を閉めるだけで無人になる。
ウッドワンド公がアストリッドを幽閉した塔は、この裏門の真上にそびえている。島の外部から侵入するならば、細い橋を渡り裏門を突破するしか方法がない。
裏門へ通じる橋は細く、大軍で寄せるのは無理だ。ごく少数で行くにしても、昼間は警備がいるし、実は、表門の橋の監視櫓から、裏門の橋も見通せるのだ。騒ぎが起これば、すぐに表門側から増援が駆けつけてしまう。
となると、兵のいない深夜に、闇に乗じて忍び込むしかないのだが───お触れと合わせて、広まった話がある。深夜にもたったひとりだけ、ウッドワンド公が新たに雇ったとおぼしき警備兵が裏門に陣取るようになった、というのだ。
お触れを聞いて、これまでアストリッドに断られた求婚者が何人か、手勢を引き連れて塔への侵入を試みた。しかし、その新たな警備兵が馬鹿みたいに強く、赤子の手をひねるごとく返り討ちに遭ったそうな……。
塔の最上層の窓には、心配気に見下ろすアストリッドの姿があるのを、多くの者が目撃している。間違いなく、彼女はそこで救出を待っているのだ。
しかるに、誰も達成者のないまま、しばらく日々が過ぎていった。
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