木蘭の涙

本当に忘れらない恋。

本当に忘れらない人。


時はそれらを薄れさせる。

だから人は前を向けるのだ。




僕は大学時代、2年間休学をしていた。

フラフラしながらお金がなくなったらその地でバイトをしてまた次の場所へ。


彼女と出会ったのは新潟で住み込みのサマーリゾートバイトをしていた時だ。

彼女は僕より3つ上で、仕事をやめたけど家にいると親の目が冷たいから

バイトを始めたと言っていた。


僕は自分で言うのもなんだが、器用な方だ。

スペシャリストにはなれないが、ゼネラリストにはなれる。

究極の器用貧乏、とは母の言葉だ。


閑話休題。


僕は仕事をすぐに覚え、最初は昼シフトだったのが、

夜シフトが手薄だったこともあり配置換えをされた。

給料が良かったと言うこともある。


夜シフトは基本的にスタッフ固定で、メンバーは変わらない。

そこに彼女はいた。


会った時から彼女は壁のない人だった。


僕は大学の煩わしい人付き合いが嫌で休学をしていたこともあり、

人との関わりを避けていた。


でも彼女は僕の前の壁を水鏡に写った月にさざなみをたてるように

簡単に壊していった。


僕は、そんな彼女が嫌ではなかった。

その時僕はまだ21歳で、たった21年しか生きていなかったけど、

そんな人に出会ったことはなかった。


ズケズケと人のことを聞いてくる、

どこで生まれた?今まで女性と付き合ったことは?なんでフラフラしてんの?


出会ってすぐに、彼女が僕に尋ねてきたことだ。

正直、意味がわからない。

なぜひと夏しか付き合わない人にそこまで話さないといけないのか。


ただもう一度言う、僕は彼女に、そうされることが嫌ではなかった。


他のスタッフが言うには、その日まで彼女は物静かだったそうだ。

だからみんなも驚いていた、彼女が僕に声をかけたのを。


繁忙期前だったこともあり仕事は夜中の2時ごろには終わり、

あとは7時の朝スタッフに引き継げばやることがないという5時間の暇つぶし。

他のスタッフは寝たり本を読んだり。


彼女と僕だけが話し続けた。

それは湖畔で囁く小鳥たちが止めどなくさえずるように、

それは湖畔で囁く小鳥たちが止めどなく羽ばたくように。


好きな食べ物、好きな本、好きな映画、これまでのこと、

まるでお見合いのように他愛のないことから、

深く「これまで」に踏み込んだことまで飽きることなく、

一度も席を立つことなく話し続けた。


人を好きになるのに時間は関係ないよ。


彼女は7時を向かえた後にそう言った。

彼女は僕に恋をしていた。

僕は彼女に恋をしていた。


徹夜明けのまま、2人で食事に行き、そして唇を重ねた。

「これはバタートーストの味」

彼女がキスを交わした後に言った言葉だ。

「メープルシロップかな」

僕がキスを交わした後に言った言葉だ。


夜勤明けのまま僕の部屋に行き、

同僚が昼シフトで出ているのをいいことに体を重ねた。


彼女は処女だった。

彼氏がいた、はずなんだけど。


「タイミングが合わなかっただけ」

そう言ってちょっとハニカミながらシーツをかぶり

背中を向ける彼女がひどく愛おしかったのを覚えている。


そうして甘いと呼んでも差し支えのない、

周りから見えれば何やってんだバカップルと思われる日々がひと月ほど過ぎた。


ある日僕はホテルの責任者に呼ばれた。

大学を辞めて社員にならないか。


僕は悩んでいた。


大学を辞めること、それは裏切りになる。

高卒で出世の芽を絶たれた父、息子にそんな思いをさせたくないと、

一生懸命働いて大学に入れてくれた。


就職をすること、それは心のままに。

たった21年しか生きていない、

けれど多分それは陳腐な言葉だが前世か或いは神様が選んだ魂のつがいか、

彼女とただ生きることを望む心。


彼女が僕にいったのはとても簡単だった。

卒業してから来ればいい、私はそれぐらい待つ、もう君以外には愛せない。


僕は卒業してから改めて社員の話を受けさせてほしいと告げ、

来年も再来年もバイトに来ることを条件にイエスをもらった。



そして更にひと月が経った。

その時には、僕は彼女の実家でご飯を食べ、風呂に入り、泊まり、

一緒に出勤する仲になっていた。


僕には子供がいないからわからないが、

お父さんはどう言う距離感を持って付き合えば良いのかわからないと言う顔で、お母さんはただ息子ができたと言って喜んでいた。



そしてまたひと月が経った。

バイト期間は終わりを向かえた。


僕は復学の手続きのため、一度地元に戻ることになっていた。


すぐに戻ってくる。

待ってる。


駅で別れる時に見た彼女の笑顔。

それが彼女の最後の笑顔だった。



地元に帰り、手続きやなんだかんだと忙しくしていたある日のこと。

電話が鳴った。

彼女からの着信。

その時、僕はもう「知っていた」のだ。



彼女は綺麗な顔をしていた。

透き通るように白かった肌は濁って澱み、

血色の良かった唇は不自然に赤く塗られ、

年上ぶって僕を呼び捨てにしていた声、もうを聞くことはもうできない。


僕は僕自身を失った。

21年しか生きてないガキがたかだか3ヶ月しか付き合っていない女性に心を囚われ、それをバカバカしいと言うやつがいたら、僕は自身の尊厳と引き換えにそいつを殺すだろう。



僕は彼女の両親と一緒に彼女を見送った。

彼女のいなくなった冷たい部屋にも入らせてもらった。

色気のない服に少年漫画が並ぶ本棚、少女趣味のかけらもない部屋の中、

ベッドサイドに僕と一緒に撮った写真を飾る少女趣味の彼女。


あの子は幸せだった。

彼女のお父さんが絞り出すように、最後に言ってくれた言葉が僕の心を救った。

あの子のことを忘れて幸せになってほしい。

彼女のお母さんが絞り出すように、最後に言ってくれた言葉が僕の心を壊した。



僕は彼女との幸せを抱え、でもそれを忘れて幸せにならないといけない。

僕には2つの幸せを持つことは許されない。

もう小鳥はさえずらないし羽ばたきもしない。


とても残酷だ。



あれから20年以上が経ち、彼女の顔ももうぼんやりとしか思い出せない。

多くの恋をして結婚もした。

日常で彼女のことを思い出すことは、ない。


彼女はどう思っているだろう。

多分、それでいい、と笑ってくれているだろう。

そう言う彼女だから好きになったし、思い出した時に蘇る記憶は鮮明だ。


ともか。

彼女と同じ名前を聞くと、まだえぐられるような痛みは残っている。

けれど一瞬のことだ。すぐに僕は嘘の笑い顔を貼り付けることができる。



僕は彼女を忘れない。

でも確実に、僕の中から消えていく。


僕は幸せを捨てて、幸せを得ようとする、透明な存在だ。

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