366日

彼女は風俗嬢だった。

出会って、好きになった時には、もう風俗嬢だったのだ。

それを純愛と呼ぶことはない。

ただ、出会って好きになった女の子が、風俗嬢だったということだけの話だ。



僕が彼女に出会ったのは、まだ社会に出たばかりの頃だった。

映像の制作会社にいて、毎日にひどく追われ、

家に帰っても短い睡眠を取るだけの生活。


彼女は家の近くのパン屋で働いていた。

朝早く、僕が出勤前に朝ごはんを買うために立ち寄ると、

彼女はいつもとびっきりの笑顔で迎えてくれた。


好意、を持っていたのではないと思う。

でもその笑顔に癒されていた、

というのはあまりにもありきたりな言葉だろうか。


ある日のことだった。

近所のコンビニで彼女と出会った。

ああどうも、会釈程度のやり取り。それでも少し嬉しかったのを覚えている。


そんなことが何度かあり、ある日声に出して挨拶をしてみた。


次の日、パン屋であった彼女は僕に世間話をした。

家は近くなんですか。

次の日、パン屋であった彼女は僕に世間話をした。

どんなお仕事をされているんですか。

次の日、パン屋であった彼女は僕に世間話をした。

お忙しそうですね、お体お大事に。


覚えている。

気づけば僕は自分の連絡先を渡していた。

まあ連絡なんて来ないよな、

でも来ないなら来ないでもうパン屋に行きづらいしなぁ、

なんてことを思いながら、

でもなんで渡したんだろうと撮影の準備をしながらぼんやりしていた。


その日の昼。

メールが入っていた。見慣れないアドレス。

彼女だった。


「びっくりしました。でも、よろしくお願いします」


次の日、パン屋であった彼女は僕に言った。

「バイトして1年ぐらい経ちますけど、初めてでした、

 お客さんから連絡先もらったの」


そう言った彼女のはにかんだ笑顔に、ああ僕は恋をしているのだと知った。


それから、休みが合うと僕たちはデートを重ねた。

好きだともなんだとも言っていない、

ただ想いを告げるタイミングを図りながら会っていた。

けれど彼女は何かを察するかのように、タイミングを避け続けた。


そうしてその日はやってきた。


「私、昼から夜は風俗で働いてるの」

彼女は言いづらそうに、

それは本当に申し訳ないという思いと私のことを嫌いになってほしい、

そんな思いのこもった言葉だった。


これ以上僕を踏み込ませない、彼女なりの優しさだった。


「お金を貯めてドイツに行きたい、中途半端に終わった音楽の勉強をしたい」

朝はパン屋、昼から夕方は風俗で、自分の目標のためにお金を貯めている。


僕は考えた。


これは僕の想いを断るための嘘なんじゃないか。

でも彼女はそんな嘘をつく人ではない、出会って短いし数えるほどしかデートをしていないけど。


僕は考えた。


風俗嬢というのが本当だとして、お金を貯めるために働いている、

風俗嬢の常套文句じゃないのか。

でも彼女はそんな嘘をつく人ではない、出会って短いし数えるほどしかデートをしていないけど。


僕は彼女を信じた。

「それでもいい それでもいいと思える恋だった」

どこかの歌詞みたいに、何かに酔っていたのかもしれない。


彼女はしばらく考えていた。

やがて「わかった、私もあなたのことは好き」と、

とても困ったような顔をして言ったのを、今でも覚えている。


それから僕たちは、彼女が風俗で働いていくにあたり、

いくつか約束事を決めた。そして僕は言った。


君の夢が叶うことを僕は願う。


僕は嘘をついた。

とても大きな嘘を。


僕以外の誰かとキスをすることを誰が許せる、

僕以外の誰かに体を重ねることを誰が許せる、

僕以外の誰かにその笑顔を見せることを誰が許せる?


僕は自分の中にある、彼女への執着に蓋をした。

それは僕のこれからの人生を変えてしまうぐらいの、

僕自身への大きな嘘だった。


彼女はどう思っていたのだろう、そんな執着を微塵も見せない僕を。


彼女と体を重ね、彼女の息遣いを感じながら、

僕以外の誰かに触れられていることを僕が何も思わなかったと思うだろうか?

彼女と唇を重ね、彼女の吐息を感じながら、

僕以外の誰かと交わしていることを僕が何も思わなかったと思うだろうか?


僕と彼女の間には、薄いベールだけれど、それは絶対に剥がすこともできなくて、それは絶対に破ることもできないものがあった。

それは澱み、と言ってもいい。


「誰があんたの食べたご飯の写真見て喜ぶのよ」

「なんであんたと店外料もなしに出かけないといけないのよ」

そう、客からのメールに悪態をつきながら美味しそうにコンビニのプリンを食べる彼女を、とても愛おしく思っていたのに、僕たちの間には何かがあった。


やがて年月は、そんなベール越しの愛おしさに終わりをもたらす。


終わりはどこにでもある、ありきたりなものだった。

彼女は同僚に連れて行かれたホストにハマった。

それまで貯めた貯金を使い果たし、売掛にしてまで通うようになった。


僕は自分を責めた。


終わりの時、彼女は驚くほど冷たかった。

初めて外であったコンビニの駐車場で、

ただひと言、別れの言葉を告げて去っていった。


それは僕との時間がなかったかのように。

薄いベールの先に最初から何もなかったかのように。



ここから先は僕の身勝手な思いだ。

僕が彼女と付き合った時間は一体なんだったのだろう。

ただ彼女が幸せになることを望んでいた僕はなんだったのだろう。

ああ、僕の心はどこへ向かえばいいのだろう



そして僕は、執着することを捨てた。

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