第3話
俺は息を大きく吸い込んだ。
「長い!」
叫んだ俺を振り返って、死神が眠たそうな目を向ける。
彼女は焼き場で出会った自称死神だ。
光に包まれて、気が付いたら俺の目の前に立っていた。この子、本当に死神だったんだなって、その時思ったね。
服装もいつの間にか死んだ時に来てたパーカー姿じゃなく、焼き場の肉体が着てた死に装束に変わってたし、本当にあの世に来たんだなぁ。なんて、感傷的だったのに。
「どう考えても、長すぎるだろ!」
俺は両手を広げた。
ここは、いわゆる冥土だそうだ。
辺り一面、岩だらけの荒涼とした大地だけが続く世界。空は曇天を通り越して黒に近い灰色。真っ暗だと言っても良い。
そこを六日歩いて、七日目に最初の裁判官がいる裁判所にたどり着くらしい。
今日がその、七日目だ。
だが、その裁判所とやらは一向に見えてこない。
死んでるから疲れはしないけど、同じような風景ばかりじゃ気が滅入る。
しかも、なんだかさっきから暑い気がしてならない。死んでるから暑さなんて感じないはずなのに、むわっとした熱気が漂ってるような気がする。
「なあ、なんだかちょっと、暑くないか?」
俺が尋ねると、死神は当然の如く言った。
「そりゃそう。裁判所は全部で十ヶ所あるけど、中心に行くほど温度が高いから。中心は灼熱地獄」
「ゲッ、マジかよ」
顔を歪ませた俺に向かって、死神は気だるそうにあくびをした。
「まあ、裁判所が近づいている証拠だよ。さっさと歩いて。うちだって歩きたくなんかないんだからさ」
「なあ、お前オーバーワークかなんかなの? ずっと眠そうだけど。大体小学生がそんなに働いて良いのかよ」
「……は?」
死神は不思議そうに眉を顰めた。
「うちはあんたよりずっと年上だし。ここ冥界の住人には体は存在しない。だから、疲れたとかはない。あんたも今体ないけど、あんたとうちは別物」
「え? どういうこと?」
「この世界の住人、冥界人には元々肉体も霊体も存在しない。あるのは魂だけ。それが普通。でも、人間は肉体、霊体、魂、この三つを持ってる。で、人間が死ぬと肉体だけを捨ててこっちにくる」
「それで裁判を受けるわけ?」
「そう。罪人は地獄へ落ちて罪を償うし、それが終了した人間や御咎めなしな人間は、人間界へ再び転生する」
「えっ、天国は?」
「天界に行ける者なんて、稀」
そっけなく言って、死神は顎を少しだけ天へ向ける。
「天界に行く者は善行を極めた者。悟りを開いた者。そういう人間は、輪廻転生から脱して、死ぬことも生まれ変わることもなくなるから、ここへは来ない。直接お迎え係りが天界へ案内する決まり」
「へえ」
「冥界では霊体にだけ五感が作用するようになってるから、だからあんたは暑いと思うわけ。うちはまったくだけどね」
「マジかよ。良いなぁ、それ」
「ちなみに中心に行くほど暑いのは、地獄が近いからだよ」
地獄の方が近いのかよ。
「なあ、人間界って俺がいた世界だけなの? いわゆる異世界とかってのはあんの?」
ちょっと期待して聞いたら、意外な答えが返ってきた。
「この星、地球には四州存在してる。人間達の言うパラレルワールドってやつ。他の惑星にも存在してるよ」
「は?」
パラレルワールドは分かるけど、別の惑星って――。
「って、じゃあ宇宙人ってことか?」
「そうなるね。でも人間界であることに変わりはないから、そんなに容姿とかは変わらないと思うけど」
「思うって、見たことないの?」
「管轄が違うから。人間界や天界、地獄界。三世界が存在している一つの惑星は全部で五百存在してるらしいけど、その惑星にそれぞれの冥界が存在してるんだってさ。だから地球の冥界はうちらの担当だけど、別の惑星の冥界の担当は別の誰か、別の機関ってことになるんだって。だから、干渉する必要もない」
「へえ」
「干渉したくもないし」
面倒臭そうに呟いた死神は、更に面倒臭そうに、「行く」と呟いて歩き出した。
「へいへい」
俺は、軽く返事を返しながら死神の後について行った。
*
最初の裁判所へは、しばらく歩くとたどり着いた。裁判所へ近づくに連れて、暑さがどんどん増した。
汗を掻けないのが、むしろ不愉快だ。
体内に熱がこもってる感じがする。こんなんじゃ、熱中症になっちまう。って、体はないから熱中症にはならないのか。
裁判所は、突然、荒涼とした大地の中現れた。ぽつんと建っていて、初めは意外に小さくて、寂しいところだなと思ったけど、近づくにつれてその大きさに息を呑んだ。
太い柱で支えられた、神社のような巨大な建物が、門を中心に左右に百メートルは続いている。
門の前には、まさに鬼としか呼びようのない赤い肌の生物が二人、金棒を持って立っていた。ビビる俺に目もくれずに、死神はその門番らしき鬼に話しかけた。
「亡者を案内して来た。お迎え係のミハネ。亡者、松尾之騎。二十五歳。男。死因、殺人」
死神は説明しながら俺をチラリと振り返った。
あの死神、ミハネって言うんだ。案外名前は可愛いじゃん。
「分かった。おい、お前通れ」
鬼の一人が頷いて、俺に門の中に入るように促し、もう一人の鬼が巨大な門の扉を押し開けた。
「すっげー。どんな力してんだよ」
思わず感心した。階段を上って、ミハネの横に並んだ。門の扉の中をちらりと窺う。暗くて真っ直ぐな廊下が果てがないように続いている。
均等に並べられた松明の火が、なんだか不気味だ。
「松尾之騎、あなたはこれから第一の裁判を受けることになるから。これが済んだら、案内の者にしたがって、ここで過ごして」
「え~!? ここにいなきゃダメなのかよ?」
こんな蒸し暑いところ、冗談じゃねぇよ。
「四十九日間現世で留まった人間は、裁判期間、現世に戻れない決まりになってる。すぐに冥土にきた人間には、裁判期間中、休憩するのに現世に戻っても良い決まりになってるけど」
「そんなの聞いてないぞ!」
「契約書にちゃんと書いてある」
「……マジで?」
全然読んでねぇや。マニュアルとか読むの嫌いなんだよなぁ……。
「マジだよ」
ミハネはきっぱりと言って踵を返した。数歩歩いて、「ああ!」と声を上げた。ちょっと間の抜けた口調だったけど、ミハネの大きな声を聞いたのはこれが初めてだ。彼女は振り返って、
「次の日、三途の川を渡ることになるけど、団体行動になるから。他の亡者と行動すれば自然に第二、第三と全部で十の裁判所へ渡っていける。先導員に従って、集団からはぐれないようにして。一応言っておくけど、逃げ出そうなんて思ったら痛い目見るから」
俺は軽く相槌を打った。
もちろん。そんな無謀はしませんとも。
「じゃあね」
軽く言って、ミハネは再び歩き出した。その背に、手を振る。
「ありがとなー。ミハネ」
ミハネは小さく後ろ手で手を振り返した。
*
暗く、真っ直ぐな廊下をずっと歩いていると、なんだか不思議な感覚に陥る。
風景の変わらない視界に不安になる感覚と、規則的に並んだ松明の火に酔う感覚。その酔いが、なんとなく心地良い。
すると突然、目の前に白い光が現れた。俺は眩さから目を閉じる。チカチカとした光に慣れてから目を開けると、目の前に部屋が広がっていた。
十数段ある階段の上に王様が座るような椅子があって、そこに大柄な男が座っていた。男の前には豪華で頑丈そうな机が置いてある。
男の後ろの壁(多分五メートルくらいは離れてる)には、壁一面に巨大な炎が描かれていて、まるで、男が巨大な炎を纏ってるみたいに見える。
階段の下には、細身の男が昔の時代の人間が着るような黒い着物を着て立っていた。確か、平安とか、その辺の時代の服装だと思う。現代でも、神主が似たような服を着てたっけ。
俺がまじまじと見てると、男はぺこりと会釈した。
「私は補佐官のアダチ。そして、こちらにいらっしゃる御方は、秦広王です」
アダチは、首だけで振り返りながら手のひらで椅子に座っていた大柄な男、秦広王を指した。
秦広王は威厳のある顔つきで俺を見る。
彼が視線を動かすだけで、圧倒された。俺は思わず後退った。
「これから、審査、審問いたす。正確に、誠実に答えよ」
秦広王の声は良く通り、渋くて、威圧感がある。俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「まあ、そう緊張なさらないで。ここは書類審査が主ですから」
軽い声音が響いて、俺は声の主であるアダチを見た。けど、彼はまったくの無表情で、ハハハと軽く笑っている。
「いや、お前が一番怖いわ」
引きながら極小声で呟いた俺に、アダチは瞬時に視線を向けた。
「何か言いましたか?」
「いえ! 何も!」
俺は慌てて首を振った。アダチの顔は、無表情なのに、どことなくきょとんとした様子だった。あの小声で聞こえるなんて、とんでもない地獄耳だな。
「内容まで聞き取られてなきゃ良いけど……」
俺はさっきよりも小声で呟いた。
どうやらこれは聞こえなかったみたいで、
「では、審査に入ります」
アダチはそう宣言すると、俺が生まれてから死ぬまでをすらすらと読み進めて行った。
途中、アダチが俺が気づかずに詐欺に加担したことを告げたとき、心臓が小さく跳ね上がった。
アダチも秦広王も特に顔色は変えなかったが、心に疚しいところがあるからか、不安に駆られた。
もしかして、俺地獄行きになったりしねぇよな?
いや。知らなかったんだし、反省してるし、大丈夫だろ。
俺は心の中で言い訳をしながら、巻物を読み終えたばかりのアダチを見据えた。
アダチは秦広王となにやら話をしていた。
それが終わると、秦広王が威厳のある瞳で俺を見た。身体に緊張感が走る。
「松尾之騎。審査終了とす。前に進みなさい」
「え? これで終わり?」
拍子抜けして尋ねると、秦広王の代わりにアダチが答えた。
「終わりです。第二裁判は三途の川で行いますから、待合室で待ちなさい」
「マジか……。まあ、いっか」
俺は緊張から開放されて、ほっと息をついた。階段の横にあった扉が開いて、俺は促されるままその先へ進んだ。
*
待合室はすぐに着いた。
真っ直ぐな廊下をだいたい二分ほど歩いていくと、途中で待合室と書かれた看板があって、俺は室内を覗いた。
そこには五人の男女がいた。
U字型のソファに、左側に男、右側に女に分かれて座っていた。
一人は中年の太めの男。もう一人は爺さんで、黒く焼けた肌には深いしわが刻まれている。
残りは女で、一人は若い子。二十代前半で、長い黒髪に清楚な顔立ち。少しも日焼けの後がなく、青白い顔をしているけど可愛い。
その隣に座ってるのは、中年のおばちゃんで、体系は太めで、きつめのパーマがかかった。いわゆる昔のおばちゃんといったいでたちだ。
ソファの奥に座っていたのは婆ちゃんで、優しげな顔立ちで隣にいるおばちゃんの話をうんうんと頷いて聞いていた。
なんとなく眺めていたら、おばちゃんが俺に気づいて声を上げた。
「あら、まあ。若い子だわ! 新入りさんね」
「あっ、どうも」
ぺこりと会釈すると、おばちゃんは立ち上がって前へ進んだ。手前にいた可愛い子が、すっと足を避けておばちゃんを通す。
おばちゃんは、あら。ありがとうねと、女性に一言告げながら俺の腕を捕った。
「さあさあ、座んなさい」
「え、あ、はあ」
明るいおばちゃんパワーに従って、引っ張られるままにソファに腰掛けた。可愛い子ちゃんとおばちゃんに挟まれて、少しだけ気まずい。
ちらりと視線を可愛い子ちゃんへ向けると、彼女は無表情のままソファの前のテーブルをじっと見ていた。
(近くで見ると、もっと可愛いな)
彼女に見惚れてた俺の腕を、おばちゃんが強めに引く。
「あたし、郷原っていうのよ。こっちは、しなえさん」
おばちゃんは、婆さんを指差した。
婆さんは深々と頭を下げたから、「どうも」と会釈して返した。
「俺は栗林ってんだ。よろしくな」
「三梅(みばい)だ」
中年の太ったおっさんが栗林と名乗り、それに次いで爺さんがぶっきら棒に名乗った。
「あっ、俺、松尾之騎です。どうぞよろしく」
軽く名乗ると、視線は残った可愛い子ちゃんへ注がれた。
彼女は、はっとしたように顔を上げ、
「柚木(ゆずき)春南(はるな)です」
と小さく名乗って、また俯いてしまった。春南ちゃんはせっかくの可愛い顔を曇らせている。
なんか、気になるなぁ。
可愛いからってこともあるけど、なんか、必要以上に落ち込んでないか?
「ところで、之騎くんはどうして死んでしまったの?」
おばちゃんの屈託のない声音がして、俺はおばちゃんを見る。
「あたしはね。事故だったのよ」
「俺は病死だ」
明るく言ったおばちゃんに続いて、おっさんも明るい声音で言って腹を叩いた。
「このメタボが原因だよ。もうちょい気ィつけてりゃあ良かったなぁ。へへへっ」
「お前さんは心臓麻痺じゃろ。苦しみが少なかっただけ良いさ。ワシはガンでな。死ぬ時はそりゃ痛かったもんだよ」
爺さんは皮肉を言いながら小さく首を振ったが、口調とは反比例して過ぎたことだと大して気に留めてないみたいに見えた。
「わたしは、ありがたいことにぽっくり逝かせていただきましたよ。畳の上で往生出来ただなんて、ありがたや。ありがたや」
婆ちゃんは拝みながら言って、穏やかに笑った。
それを見届けて、俺もごく軽い口調で死因を口にした。
「俺は、殺されたんすよ」
「え!?」
声を上げたのはおばちゃんだけだったけど、皆驚いた表情で俺に視線を集めた。落ち込んだ様子だった春南ちゃんまでもが、目を丸くして俺を見上げる。
(……可愛い)
「そんなに驚くことっすかね?」
あっけらかんと言ったけど、悲しみや怒りを隠して……。とか、そんな展開はない。本音だ。
「そりゃあ、驚くだろう」
おっさんは苦笑して、気まずそうに口を真一文字に結んだ。
「誰にとかって聞いちゃっても良いのかしら?」
「おい。よせよ」
おばちゃんが訊き辛そうにしながら言うと、おっさんがそれをたしなめた。
「別に良いっすよ。スリに遭っちゃって、泥棒を追いかけてたら路地裏に入ったんですよ。そしたらなんか音が聞こえて、覗いたら女の子が倒れてたんすよ。顔は全然見えなかったんすけど、駆け寄ろうとしたら刺されてって感じで」
「じゃあ、犯人が隠れてたのね! 怖いわねぇ!」
おばちゃんが驚いて声を上げた。俺は大げさに頷いてみせる。
「ですよねぇ。背中も刺されたんすけど、その後すぐ心臓一発だったんで痛みとかはあんまなかったっすね。そこはラッキーした。ニュースで見た犯人は、なんか普通の男でしたけどね。俺は全然知らないやつでした」
「まあ……。可哀想に……」
おばちゃんが哀れんで俺を見て、他のみんなも同情の眼差しを俺に向けた。春南ちゃんなんか、びっくりして絶句した表情を浮かべてる。
(マジか……)
俺は途端に気まずくなった。
俺って可哀想なの? まあ、確かに無慈悲に未来を奪われたわけだから、可哀想なんだわな……。俺も一緒に殺された女の子は可哀想だと思うわけだし。怖かったのは事実だし、背中が痛かったのも本当だし。
でも、本当に可哀想ってのは俺じゃねぇよ。
「そっすかねぇ。まあ、確かに可哀想かも知れないっすね。でも、可哀想と言えば、うちの母ちゃんも可哀想で見てらんなかったなぁ。息子を突然――」
そこまで口走った時、俺は何となく空気が変わったことを感じた。
それまで明るい雰囲気だった待合室は、暗くて重い雰囲気に包まれたような気がする。
「そうね……息子や孫達は、どうしてるかしら?」
「俺は独り身だったけどよ。母さんも父さんもまだ生きてるんだよな」
「ワシらは未練などないよ。もうとっくに子供も孫も手を離れたからな。なあ、しなえさん?」
「そうですね」
爺さんの質問に同意した婆ちゃんだったけど、途端に顔を曇らせた。
「でも、いくつになっても子供は心配ですよ」
「そうですね」
おばちゃんは婆ちゃんに同意して、しわくちゃの手を握った。気まずい雰囲気が流れて、俺はやっと自分が口を滑らせたせいだと気づいた。
やっぱり皆、残してきた家族のことは心配なんだな。
責任を取って空気を変えようとしたとき、
「やめませんか。そんな話」
どことなく棘のある声が重い空気を裂いた。
「そんな話しても、もうどうしようもないじゃないですか。過ぎた時間は……やってしまったことは、もう戻らないんです。だから、やめましょうよ」
拒絶するような声音は、春南ちゃんから発せられていた。厳しい声音とは対照的に眉が寄り、泣き出しそうな表情だった。
「なんかあったの?」
俺は思わず訊いていた。
皆が息を呑む気配がする。
訊いちゃいけないことを訊いたなって雰囲気だ。でも、気になるだろ。こんなに可愛い子がなんで暗い顔してるかさ。
「な、なにかって……」
春南ちゃんは口ごもって俯いた。
「良いじゃん。もう死んじゃってんだからさ。皆でぱーっと話しちゃえば。そうすれば、すっきりして生まれ変わる気にもなるってもんじゃね?」
「……」
春南ちゃんは途端に申し訳なさそうな表情をした。
「どうしたの?」
首をかしげたとき、遠くの方で騒ぐ声が聞こえてきた。
その声は瞬く間に大きくなり、ただの喧騒だと思っていた音が、大勢の人が奇声を上げたり、高笑いしている声だと判った。
それらは確実に物凄いスピードで近づいて来ている。
(なんだ?)
俺は皆と目を合わせた。
皆も一様に不安そうな表情を浮かべている。
おっさんが顔を強張らせたまま立ち上がり、待合室のドアを覗いた。
その瞬間、おっさんの首が吹っ飛んだ。頭は空中で一回転して、ゴンと重い音をたてて落ち、リバウンドしてゴロゴロと床を転がった。
首から切り離された体が数歩下がって、重い衝撃音を響かせて床に打ち付けられた。蓄えられた脂肪が、振動でたゆむ。
「キャアアア!」
すぐ隣から悲鳴が響いた。びくっと心臓が跳ねて、それで俺は我に帰った。大音量に鼓膜と心臓が震える。おそらく、悲鳴はおばちゃんだろう。
俺はおっさんの体に目を釘付けにしたまま、無意識に逃げようと春南ちゃんの腕を捕って立たせていた。
彼女をちらっと見ると、春南ちゃんは中腰のままおっさんを凝視して固まっている。
「うおおおお!」
「ギャハハハハ!」
猛る咆哮、狂ったような笑い声が廊下から響き渡り、次の瞬間何かが通りぬけて行った。一瞬のことでなんの生物だか良く判らなかったけど、ギラリと光る銀色の刃(おそらく、鎌)を持った赤い肌の二足歩行生物と、青い肌の四足歩行生物だったことは確かだ。
「鬼?」
春南ちゃんが意外にも冷静な声音で呟いた。
鬼? そうか。あれは確かに鬼だ。
赤い小型の鬼――といっても、俺とそう変わらない身長。と、デカイ青鬼が四つんばいで駆け抜けて行ったんだ。青い方は、三メートルは余裕であったはずだ。
呆然とした空気が流れそうになったときだった。
大群が駆けるけたたましい足音と奇声、狂ったような笑い声が一気に近づいてきた。
(そうだ。まだいるんだ)
俺は、はっとして咄嗟に春南ちゃんを背中に隠した。鬼の大群が騒々しい音を響かせながら廊下を駆け抜けて行く。
見開いた目に、人間の姿が映った。
青鬼の背に、優しげな男とミハネみたいに派手なかっこうをした女がいた。
女は俺と目が合うと、妖艶に笑んだ。
赤い唇が形の良い三日月を作り出し、紫色の瞳が誘うように俺を見る。その瞳を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。あの女を抱きたい衝動に駆られる。が、あの女が視界から消えた途端、その衝動は最初から湧き上がらなかったみたいに掻き消えた。
「なんだったんだ……」
嫌な感じがする。
あの女の眼が頭から消えない。
確かに魅力的だったけど、なんだか無性に気色が悪い。
まったく好みじゃない、デブでブスのおばちゃんのヌードを無理矢理見せられたみたいに不愉快な感じだ。それでも多少、ほんの少し、反応しちゃうみたいな。
「ちょっと! 逃げましょうよ!」
「ああ。そうじゃな。そうしよう」
ヒステリックな声に我に帰って振り返ると、おばちゃんと爺さんがパニックった様子で頷き合っていた。
そのまま駆け出すと、おっさんの体を恐る恐る飛び越えて廊下に出た。
「ちょっと待ってください。行っちゃダメだと思います」
春南ちゃんが俺の影から躍り出る。口調は至って冷静だ。
「なに言ってるの! 逃げないと栗林さんみたいになるわよ!」
「でも――」
「しなえさんも、ほれ!」
おばちゃんはヒステリックに叫んで、爺さんは春南ちゃんを遮って婆ちゃんを手招いた。
(爺さん、この野郎。春南ちゃんがなんか言いかけたでしょーが!)
振り返ると、婆ちゃんは腰を抜かしていたらしい。地べたに座り込んでいた。そして緊張した面持ちで床から立ち上がると、二人のところへ向う。
「あんた達も早く!」
おばちゃんが急かしたけど、春南ちゃんは首を振った。
おばちゃんは諦めた顔つきをしてから俺を見る。あんたは来るよな? って顔だ。
でも残念だな。俺は行かない。
かぶりを振ると、おばちゃんはため息をついて、鬼の大群が行った方向と逆方向に走り出した。
春南ちゃんはもう一度止めようと腕を伸ばしかけて止めた。無言で出入り口を見てから、不思議そうに俺を見上げる。
「なんで行かなかったんですか?」
(いやあ、可愛いなぁ)
俺は頭を掻いた。
「春南ちゃんだけ置いていけないだろ」
「……そうですか」
春南ちゃんは複雑そうに前を見据えた。
俺のかっこつけは通じませんでしたぁ~。
「でも、なんで止めたの?」
訊くと、春南ちゃんはちらりと俺を見て、「聞こえませんか?」と、訊いた。
「ん?」
言われて、耳を澄ましてみると確かに何かが聞こえる。
それはそれはどんどんと、物凄いスピードで近寄ってくる。これは……。
「さっきと同じ?」
頬が引き攣る。彼女は真剣な顔で、うんと頷いた。
「第二弾が来るみたいです」
「……おばちゃん達止めねえと! 鉢合わせするじゃねえか!」
駆け出そうとしたところに、冷静で、少し強めの声音が飛んできた。
「もう無理ですよ」
「でも――!」
振り返えろうとしたとき、視界の隅で魑魅魍魎を捕らえた。
「ギャハハハ!」
「ヒャッホーイ!」
「ウオオオ!」
高笑いや雄叫びがけたたましい音の塊になって、過ぎ去っていった。その中には、やっぱり人間の形をした者がいた。
俺達と同じ、死に装束を着たやつらが多分、三十人じゃきかないくらい。
そいつらは青鬼に乗ったり、でっかいムカデに乗っていたり、走ってたり、様々だった。
「おばちゃん達、死んじまったのか?」
(死んだっていうのは、変か。死んでるんだから)
呆然とした頭の中で冷静なツッコミが入った。なんだ、俺ってまだ余裕あるじゃん。
「大丈夫です。死神が言ってました。痛みはあるけど、傷ついても再生するって」
へえ……そうなんだ。肉体がないとは聞いてたけど、再生もするのか。
「とにかく、ここ出ようぜ」
「でも、待合室で待つようにって……」
「それは通常だろ。これが通常に見えるか? どう見ても異常事態だろ」
「そうでしょうか? 案外これが冥界の日常なのかも知れませんよ」
「……それ、マジで言ってんの?」
「半分は」
春南ちゃんは若干気まずそうに頷いた。
春南ちゃんって、案外変わってる。
「でも、あの鬼達の目的は多分私達じゃないですよ。だって、目もくれずに過ぎ去っていったじゃないですか。少なくともここでじっとしていれば、危険な目に遭うことはないと思うんです」
そりゃ、もっともだ。
「でも、痛いんだよな?」
「え?」
「再生するからって痛みはあるんだろ。鬼って、人間拷問するやつらだし、俺らが隠れてたって、他のやつらがもっと酷いことされるかも知れんねーじゃん」
「それは……」
「せめて異常事態が起こってるって他のやつらに知らせるべきじゃねえかな? 多分、他にも幽霊仲間いるだろ」
「……分かりました。それじゃあ、鬼達が行った方向に行きましょう」
「なんで?」
「鬼達は多分、三途の川の方から来たんだと思うんです。鬼達が向った方角は秦広王の審査の間の方です。私達が来た方角。それの反対から鬼が来たってことは、多分そうなんじゃないかな」
春南ちゃんは自分に言うように言って、俺を見据えた。
「鬼が来た方角に行っても、もう私達みたいに鬼が来たって知ってる人達ばかりだと思うんです。鬼が来たって知らない人に知らせるなら、行った方角にいくべきです」
「でも、秦広王のとこから真っ直ぐな道じゃなかったか?」
「はい。でも、鬼が秦広王の間で止まるとは限らないでしょう?」
「まあ、確かに……」
でも、鬼はすっげー速かったよな。ってことは、人間の脚の速度の俺達が行っても、後の祭りってことなんじゃ?
「……なんか、無駄な気がしてきた」
嫌気がさしてきた俺を、ふふっと笑ってから、春南ちゃんはおっさんの体を跨いだ。
「それでも、秦広王に報せる価値はあると思います。もしこれが冥界の日常だったとしても、確認を取ることで少しは安心出来るし、これが日常ではなく異常ならなおのこと報せるべきです」
「まあ、そうだな。じゃあ、そうしよう」
俺はおっさんを跨ごうと、視線をおっさんの体に向けた。
おっさんの体はさっきより回復してきてるみたいだ。首の付け根までなくなってたのに、今は顎のラインまで再生している。
ふと首が跳んでった方に目を向けると、首が跡形もなく消え去っていた。
「行きましょう」
「ああ」
俺は春南ちゃんに促されて、おっさんの身体を跨いだ。
*
俺達が秦広王の間へ向うと、どういうわけか中には誰もおらず、がらんとしていた。
「アダチとか、どこ行ったんだ?」
俺は首を捻ったけど、たいして深くは考えなかった。
なんでいないんだろう? 程度。でも春南ちゃんは逆に、何かを熟考してるみたいだった。真剣な表情で、秦広王がいた椅子を階段下から眺めている。
「なに考えてんの?」
気楽に訊くと、春南ちゃんは気まずそうに振り返った。
「いえ……」
そう答えると押し黙る。
「言えないこと?」
軽い調子で訊いてみると、「いいえ」とかぶりを振った。
「自分の考えを人に言うって、ちょっと慣れなくて……」
彼女はぼそっと呟いて俯いた。
「でも、さっきは楽しそうだったじゃん? それにおばちゃん達にも言ってたし」
「え、ああ……」
春南ちゃんは苦笑を浮かべて、頬を掻いた。
「そういえば、そうですね」
春南ちゃんって、良くわかんない子だなぁ。
自信があるのか、ないのか。真面目なのか、不思議ちゃんなのか。
「で、春南ちゃんはなに考えてたんだ?」
「えっと、なんパターンか考えられるなって思って」
「パターン?」
「なんでいないのかです。一つは、鬼達を退治しに追って行った。もう一つは、休憩時間になったから。三つ目は、鬼達に倒されてしまったから。四つ目は一斉に食中毒にあったから。五つ目は鬼達に加わったから。六つ目は、これの派生で、さっきのはお祭りでみんなそれに出かけたから――」
何個か変なのあったな。
「七つ目は――」
「そんなにいっぱい考えてたの?」
春南ちゃんが続ける前に、俺は慌てて遮った。
「はい。まだありますけど」
当然ですけどみたいにきょとんとしてるけど、ありえねぇからな。
「春南ちゃんって変わってるって言われねぇ?」
「えっと……だから、言ったことないので」
春南ちゃんは眉を八の字にして、少しだけ口を尖らせた。
拗ねた春南ちゃんも、可愛い。
「ああ。でも、そっか。そういうこと」
俺が納得して呟いたのと同時に、
「秦広王様!」
慌てた声が広間に響いた。
びっくりして振り返ると、門の前にミハネが立っていた。ミハネは顔面を蒼白にして、階段の上を凝視していた。
「遅かった……?」
自問するように呟いて、ミハネは小さく項垂れた。
「ミハネじゃん。どうしたの?」
ミハネはすっと顔を上げた。微妙に驚いた顔をしている。
「松尾之騎」
「うん。なに?」
「ずっと、ここにいた?」
「いや。ずっとはいないけど」
俺が答えると、ミハネはあからさまにため息をついた後、はっとしたように俺を見据えた。
「鬼とか亡者の大群見た?」
「ああ、見た」
「二手に分かれた?」
「さあ?」
なんでそんなこと訊くんだ?
「わかった。じゃあ、うちについて来て」
「は?」
訊きかえした俺を無視して、ミハネは歩き出した。
ミハネは秦広王の間の階段を上がると、秦広王が座っていた椅子を通り過ぎて壁へ一直線に歩いていった。
炎が描かれている壁の中心、ちょうど秦広王の椅子と一直線に重なる場所には炎の絵は描かれていなかった。そこを、ミハネは押す。すると、壁の一部が途端に黒くなり、二メートルほどの丸い穴を開けた。
内部は真っ暗で床板も見えない。
「なんだこれ?」
怪訝に呟くと、前にいたミハネが俺を振り返った。
「隠し通路。審判の門への」
「審判の門?」
訊いたのは春南ちゃんだ。
「通称、転生の門。生まれ変わるための門のこと。松尾之騎には言ったけど――」
ミハネは俺に一瞥くれる。
「この世界には、人間界と天国と地獄がある。審判を終え、判決が出た人間が、門を潜ってそれらの世界へ行く」
「他の裁判所にもあるんですか?」
「ない。ここへの通路があるのは、最後の裁判所とここだけ。最後の裁判所は守りが厳しいけど、ここのは隠し通路。知ってる者は限られてる」
「じゃあ、もしかして、さっきのって……クーデター?」
「は?」
独り言のように呟いた春南ちゃんに視線を送った。彼女は熟考するように顎に手を当てて一点を見つめている。それを見て、ミハネは満足そうにうんと頷いた。
「いやいや。なんなんだよ。どういうこと? クーデターって何事だよ。説明求むわ」
「……めんどくさい」
ミハネは心底面倒臭そうにため息をついた。
「解決したら後でアダチ様辺りが説明してくれるよ」
気だるそうに言って、ミハネは向き直ると穴の中へ入っていった。
(アダチに丸投げかよ)
俺は呆れつつ、ミハネに続いた。
*
穴の中は真っ暗で何も見えない。とても道が続いているようには思えなかった。それでも、一歩進もうとすると、ぐにゃりと視界が歪んだ。
「なんだ?」
めまいがして、手で顔を覆う。その途端めまいは止んだ。
顔を上げると、そこはいつの間にか薄暗い洞窟だった。七つの鳥居が半円状に建ち並び、六つは赤い鳥居で、一番左端の鳥居だけが白い。
全ての鳥居の先は三メートルほど空間があいて岩壁になっている。
地面には魔法陣みたいな模様が描かれていて、赤い光が立ち上がっている。
その中心には、あの女がいた。青鬼に乗っていた、目が合っただけで変な気分にさせた女だ。
女は、なにやらブツブツと唱えている。
「やっぱり」
ミハネは無表情なわりには口惜しげに呟いて、振り返った。
「開門を中止させる。あんたらは男を捜して」
「男?」
「そう。人間の男。この洞窟内に潜んでるはず」
「どんな男だよ?」
「死に装束着てるから分かるよ。早く行って」
随分と不遜な態度だな。
それが人に物を頼む態度かね。断固拒否しても良いんだぞ! って言おうとしたら、春南ちゃんが横で頷いた。
「分かりました」
事情が飲み込めてる風の表情だ。
ミハネは春南ちゃんを信用するように頷いた。
「任せる」
「はい」
「いやいや。俺は?」
「期待しないでおく。でも頑張って」
「お前、俺には冷たくねえ?」
「男を捕まえて人質にさえすれば、諦めるはずだから」
ミハネは俺を見事に無視して真顔で円の中心の女を見据えた。
「人質ったぁ、物騒だねえ」
唄うように呟いたけど、ミハネの耳にも春南ちゃんの耳にも届かなかったみたいだ。
まあ、元々聞こえるようには言わなかったけど。
「じゃあ、二手に分かれて探しましょう。私は右から。松尾さんは左からお願いします」
「分かった」
春南ちゃんは俺の返事を聞くと走り出した。俺はその背を見送ると、ぐるりと全体を見回してみた。
この洞窟はどういうわけか出入り口がない。どこをどう見回しても完全な密室だ。
それに、空間自体もさほど広くない。
せいぜい半径三十メートル前後ってとこだろう。辺りを見回してみても、岩壁と鳥居しか見当たらない。
(このどこに、男が隠れてるってんだ?)
疑問に思いながらも、俺は走り出した。春南ちゃんはもう半周している。
「ハコ! すぐに中止して!」
ミハネの大声が聞こえて、走りながら振りかえると、ミハネは真剣な表情をしていた。なんだか意外だ。ミハネは何事にも無頓着に見えたから。
女はぶつぶつと呪文らしきものを唱えたまま目を瞑っている。
「ハコはあの男に騙されてる! あいつの罪状を忘れた!?」
必死な呼びかけに、女はやっと眼を開いてちらりとミハネを見た。でも変わらず呪文は止まない。
「あんなことしてねえで、あの女捕まえれば良いのに」
ぽつりと呟いた瞬間、閃いた。
「だよな。そうすりゃ良いんじゃん。俺って天才!」
自画自賛して、俺はそのまま赤い光に飛び込んだ。その途端、突風に弾き飛ばされたみたいに、俺の体は吹っ飛んだ。
「うわああ!」
岩のゴツゴツした天井が目に映って、すぐに背中が硬い物で激しく擦れた。
「熱い! 痛ッてぇ!」
俺は数メートル吹き飛ばされて、固い岩盤に背中を擦り付けていた。
背中をさすって四つんばいになると、目の前に足が見えた。顔を上げると驚いた表情の男が立っていた。
「いやぁ……見つかっちゃったな」
男は苦笑を漏らす。この優しげな笑顔、どこかで見たような気がする。
「……あっ」
あの時、ハコとかいうあの女が青鬼に乗ってた時に隣にいた男だ。
男は思ってたよりも長身で、細身だった。
(どこに隠れてたんだこいつ?)
俺は後ろを振り返った。真正面、離れた位置にミハネがいる。ということは、こいつが見えないはずがないのに。その時、
「大丈夫ですか!?」
春南ちゃんがいきなり顔を出した。
「突然消えちゃったから――」
言いかけて、春南ちゃんは男に気づいて言葉を詰まらせた。
二人はにらみ合いだか見つめ合いだかしてるみたいだが、俺はそんなことどうでも良い。
何故なら、春南ちゃんは首だけだったからだ。首だけで空中に浮いている。
いったいどうなってんだ? つーか、止めて。怖いから。美女の首だけとか、グロイ通り越して怖いから!
「やっぱりあっちみたいに万物を跳ね除ける結界にしてもらえば良かったよ。見えなくする結界だけじゃ不十分だったね」
男は残念そうに笑んだ。
なるほど。結界ね。それで見えなくしてたわけか。で、春南ちゃんは今その結界内に首だけが入り込んでる状況なわけね。
だったらもう怖くねえぜ! 俺は意気込んで男の足にしがみついた。
「流暢に話してる暇があったら逃げるんだったな! お兄さん!」
「いや」
男は呟いて、俺を見下ろした。
「その必要はないよ。もう済んだからね」
「は?」
間の抜けた声が喉から発せられた瞬間、雷が落ちたみたいに激しい光が辺りを包んだ。
「うわっ!」
思わず掴んでいた手を離す。すると突風が駆け抜けて、次の瞬間身体が何かに引き寄せられた。
まるでゴム紐を括りつけられて反動で戻されるみたいに、強力な吸引力で俺は宙を舞った。
「うわああ!」
悲鳴を上げた俺の横を、男が悠々自適な笑みを浮かべて通り過ぎていく。
「おい! テメエ!」
「きゃああ!」
女の悲鳴が上がった。
俺の後ろを春南ちゃんが悲鳴を上げながら飛ばされていた。下ではハコとミハネがやっぱり何かに引っ張られるように地面擦れ擦れを飛ばされている。
ハコはこんなのは予想の範疇って感じのすまし顔だ。
一方ミハネは一瞬悲鳴を上げて、先頭を行く男を睨み付けた。その横を何かが通り抜けた。
瞬きをする間もなく、俺の頬を鋭い風が吹きぬけて行く。
「うわっ!」
低い悲鳴が上がって振り返った。男が鞭のような物で拘束されている。それはほぼ透明な物で、塵が飛んでいなけばその存在に気づかないほどだ。
男は猛スピードで俺の横を通り過ぎ、地面に引き摺り落とされた。そのすぐそばで、ハコの悲鳴が上がり、誰かに押さえつけられるようにして地面に伏せていた。薄っすらと太い鎖のような物が見える。おそらく男と同じ拘束具に繋がれているんだろう。
俺は飛ばされながら反射的にその拘束具の先を追った。
洞窟の端に、見た顔がいた。アダチだ。アダチの後ろには数人の鬼や派手な和服姿の人がいた。もしかしたらミハネと同じ死神かも知れない。
アダチがハコを縛る拘束具をひっぱていて、後ろの男が同じような動作をしていた。多分男を押さえてるんだろう。
「ミハネ!」
アダチが声高に叫んで、鬼が何かを投げる素振りをした。ミハネはどう見ても空を掴むしぐさをしたけど、ぴたっと浮くのが止んだ。どうやら拘束具を掴むことに成功したらしい。
「おわっ!」
突然身体が、がくんとなって、右腕が縛られたときのように圧迫された。俺はぴたっと宙に浮く。多分アダチか誰かが俺も掴んでくれたんだ。ほっとした瞬間、今度は急速に落下しだした。胃がふわっと浮く、あの嫌な感覚と同時に春南ちゃんとすれ違った。
反射的に左腕を伸ばす。だが、俺の指は春南ちゃんをかすめただけで、彼女は瞬く間に遠ざかっていく。一瞬、春南ちゃんと目が合った。
恐怖を映した瞳。
なんでなのか分からない。でも、その瞳を見た瞬間、俺は右腕の拘束を振り切り、春南ちゃんを追いかけていた。
「春南ちゃん!」
叫んだのも束の間、春南ちゃんは白い鳥居に引き摺り込まれて行った。はるか後方で、誰かの舌打ちが聞こえ気がした。
白い鳥居はもう目の前だった。
* *
鳥居を潜った瞬間、辺りは暗闇に包まれた。
でも何も見えないわけじゃない。その中に渦巻き模様があって、それがぐるぐると回っていた。壁になのか、空間になのかは判らないが、見てると目が酔って来る。
数メートル先を行く春南ちゃんに視線を集中させると酔いはちょっとはマシになった。俺はふとに後ろを振り返った。
「は? なんであいついんの?」
少し離れたところに、何故かミハネがいる。
ミハネは何やら叫んでるようだったけど、何も聞こえない。口をパクパクさせてるだけだ。
「あれ? 何も?」
俺は耳を済ませた。
音が何も聞こえない。静か過ぎて、逆に耳鳴りがしてくる。
ここまででおそらく一分も経ってないはずなのに、恐ろしく長いようにも感じる。不安がふつふつと湧いてきた。
(俺、どこ行くんだろう?)
その時、不安を切り裂くように前方で強烈な光が落ちた。慌てて振り向くと、稲妻が嵐のように降り注いでいた。
「うげっ。マジかよ!」
先を行く春南ちゃんが稲妻の嵐の中に突入したのが見えた。
「おい。大丈夫かよ……」
さあと血の気が引く。
稲妻の嵐はもう目前だった。
「うわああ! 冗談じゃねえ!」
悲鳴を上げて、必死にもがいた。だが、無情にも吸引力によって引っ張られていく。足が嵐に突入しようとしたときだった。
突然、ふと嵐は止んだ。
「……え?」
きょろきょろと辺りを見回すが、静まり返った黒い渦が広がっているばかりだ。ほっとして、息を漏らす。その途端、今度は真っ白な光が前方に広がった。
「うわ!」
眩しい!
俺は反射的に腕で顔を隠した。
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