由紀の体験

 戸田由紀はアルバイトを終えていつものように帰宅している途中だった。居酒屋「鳥家族」は彼女の家から自転車で15分ほどの距離にある。営業時間は17時から24時で、締めの作業まで行うと店から出るのは深夜1時に近くなる。アルバイト終わりにその場にいたメンバーと飲みに行くこともあるがその日由紀は寄り道をせず直帰することにした。

 由紀の家からアルバイト先までの最短ルートには踏切がある。近所の住民から「開かずの踏切」と揶揄されるそこは引っかからずに通り抜けることが困難だ。そして人身事故がやたらと多い。幸いにも由紀自身が事故現場を見たことは無いが、踏切のすぐそばにはいつも花束が置かれている。真新しい花束がしばらく置かれて、だんだんと朽ちていき、最後には取り去られるがふと気づくとまた新しく置かれている。花束が取り換えられるたびに誰かの死を見せつけられているような気持ち悪さがあり由紀はその踏切が嫌いだった。だったら見なければいいと誰かに言われたが、前述のとおり滅多に開かない踏切である。遮断機に足を止められて電車が過ぎるのを待つ間、手持無沙汰でふと視線を落とすと目に入ってしまうのだ。ひっそりと置かれているにもかかわらず周囲の風景と一切調和しない花束が視界に入ってくる。

 件の踏切が見えてきた。時刻は深夜の1時過ぎ。この時間に通る電車は無いため速度を緩めることもなく鼻歌交じりに漕ぎ進める。明かりの点いている家も疎らで、暗がりの中に踏切だけがぼうっと浮いて見える。自転車を漕ぎながら由紀は違和感を覚えた。それが何か分からないが踏切が近づくに連れて違和感は強くなっていく。目を凝らして気付いた。線路の向こう側、遮断機の下の方に何かの影が落ちている。いや、影ではない。それが黒っぽい服を着た女性だと踏切の数メートル手前で気付いた。黒衣の女性が遮断機のすぐ下にしゃがみこんで何かをしている。ぎょっとしたがすぐにそれが花束を供える遺族だと思い至った。その辺りに花束が置かれていたのを出勤時に見たと思い出した。わざわざこんな夜中に換えなくても、と思ったがじろじろ見るのも悪いと思いまっすぐ道の先を見て女性の横を通り過ぎようとした。線路を渡り切り、ちょうど女性の隣に差し掛かった時、視界の端ですっと女性が動いた。女性が立ち上がったようだ。まるで由紀が来るのを待っていたかのようなタイミングに驚きハンドルを切る。少しふらついたが立て直して数回漕いだ後に振り返った。驚かされたことに対する抗議と、こんな夜中に花束を供える人物に対する興味からだったが、後悔した。振り返ったその場には誰もいなかった。風雨にさらされて茶色く変色した花束だけが白々しく照らされていた。

 肌寒い季節だというのに玄関を開けるときに汗で鍵が指から滑り落ちた。腋にも背中にもぐっしょりと汗をかいていたのは必死に自転車を漕いだせいだけではないだろう。生れて初めて幽霊を見たという興奮が恐怖とないまぜになって高速で心臓を打っている。玄関を開けると母親が立っていた。母は由紀が深夜に帰ってくることを良く思っていない。だから虫の居所の悪い日はこうして玄関先で待ち構えて小言を言うのだ。何か言われるよりも先にさっき見たものを伝えようと由紀は口を開こうとして母の視線を辿り口をつぐんだ。母は帰宅した由紀を厳しい目で見たが、すぐに由紀の背後を見て何かを言おうとした。そしてもう一度由紀を見て口を開いたので

「待って、言わないで!」

思わず遮ってしまった。母が自分の背後に何を見たのか、それを聞いてしまえばこれはちょっとした目撃談から体験談になってしまう。汗がすっかり冷えてしまい震え始める体を由紀は自分の両手で抱きしめた。

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