1章『クズと酒と女』
S県O市。日本の首都のすぐ隣に位置し、電車1本で遊びに行くには困らないこの街が俺は好きだ。高知のド田舎から上京した直後は何もわからなかった。物も人も把握するのには多すぎて、全てがドラマの背景のように視界を流れて行った。アルバイトをしながら数年が過ぎて、ようやくその雑多な景色の中から必要なものを見ることができるようになった。今俺の視界に広がっているのは磨き上げられた、白く光沢のある、便器だ。洋式の便器に尻よりも深く顔を突っ込んでえずく。吐けそうで吐けない。こういう時はより深く、水面ぎりぎりまで顔を近づけてここに沈んだ数々の汚物を想像しながら深呼吸をする。すると、ほら、きた。背中が波打って食道を押し広げながら液体と半固体が飛び出て顔に水飛沫が跳ねる。苦しさは長く続かない。昔観たエイリアンの映画を思い出しているうちに頭がすっきりしてきた。これでもう少し飲める。俺は酒が強いことにしている。トイレから出てカウンターに戻った。薄暗い店内でトールグラスに半分ほど飲み物を残して戸田由紀がスマホを見ていた。
「何見てんの」
声を掛けながら隣に座る。ロックグラスに残ったキャプテンモルガンを少量、ほんとに少しだけ口に含んで飲み込んだ。まだ、いける。由紀はスマホをしまい
「親に連絡です」
と言って笑った。時刻は午前1時を過ぎたところだ。
「友達のところに泊まるって?」
「違います。帰るの遅くなるって言っとかないと」
往生際の悪い女だ、と言いそうになるがこれは言わない方が良いと判断できた。
戸田由紀、彼女はバイト先の居酒屋の後輩だ。今年度いっぱいで大学を卒業して社会人になる。背が低く、化粧も薄く、服装もなんとなく芋っぽい。だが愛嬌があり素直で何よりその肉感的な体が気になっていた。大学2年生の頃にうちの居酒屋に来て俺が教育した。真面目だがテンパりやすい性格のせいで迷惑をかけられたが、その分俺が問題を解決する場面が多くなり、結果的に慕われるような関係になった。正直悪い気はしなかったし、ある日彼女のオーダーミスで発生したクレームに対応した後冗談半分でサシ飲みに誘ったらあっさりついてきた。ガードの緩さに内心感謝しつつ酒を飲ませてさてこれから、というところで「親が心配するので」と言って帰っていった。男性経験の少なさからくる歪な無警戒と警戒心に翻弄され、それ以来俺と彼女は月に2、3度飲みに行く仲だ。
「泊まっていけばいいのに。映画観れるよ」
冗談3割、本気7割。使い古されて失笑物の誘い文句だからこそ冗談で済む。
「ダメですよ。芦葉さん彼女さんいるじゃないですか」
だったらサシ飲みに来るな、と言うのも飲み込んだ。こういうのは根気が大事だと知っている。
由紀の言うとおり俺には5年前から付き合っている彼女がいる。ただし、彼女は九州にいる。大学時代に出会って俺から告白した。そのまま付き合い続けて彼女は就職し、俺は大学を中退した。ここで別れるかと思ったが別れ話になることはなく極めて円満に交際が続いた。彼女が就職で福岡に行くと言った時、なぜか俺は東京に住むと告げた。いや、なぜかではない。遊びが欲しかったのだ。俺は中高とモテなかった。それが大学に入って初めて彼女ができて、恋人同士がすることは思いつく限り全てやった。ただその一方で、俺は生涯で一人の女しか知らないまま終わるのではないかという気持ちもあった。それはもったいないが、今の彼女に不満があるわけではない。むしろ大学を中退した俺を責めることもせず一緒にいてくれて、親からの仕送りを止められた俺にご飯を作ってくれたことには感謝してもしきれない。だから、つまるところ俺は彼女を傷つけないように、自分の欲求を満たすため、東京に浮気しに来た、ということになる。
「泊まるくらい良いのにねえ」
今夜も上手くいきそうにないが、急いては事を仕損じる。俺はグラスを飲み干し次を頼んだ。顔馴染みの若いバーテンダーが笑っている。営業スマイルだが、それが苦笑いであることも知っている。
結局3時前まで飲んでから交差点まで見送って分かれた。帰宅してスマホを開くとLINEの通知が来ていた。谷口翠つまり俺の彼女からだ。LINEが来ていたのは4時間ほど前だ。「今日も一日お疲れさま。大好きだよ、おやすみ」と短いメッセージの末尾にハートの絵文字がついている。続いて枕を抱えたクマのスタンプ。「ありがとう。俺も好きだよ。おやすみ」と短文を返してベッドの上に仰向けで倒れる。目を閉じたら5秒で眠れそうだ。枕元のリモコンで電気を消して、歯磨きもシャワーも全てを明日の自分にまかせてそのまま目を閉じた。
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