プース・カフェ
成屋6介
ある体験
10月に入ったばかりだが今夜は風が随分冷たい。そろそろ上着が必要だななんて考えながら俺は帰路を急いでいた。既に夜の10時を回っていて、明日の出勤の事も考えると家でもゲームをする時間もない。だからせめて、途中のコンビニで買った弁当が冷めないうちに帰りたい。
大通りから外れた住宅街、この時間になるともう人通りは無い。白々しい外灯と一軒家の窓から漏れる暖色のおかげで決して暗い道ではなかったが、俺はそれに気づくのが遅れてしまった。右手前方数メートル先の電柱の下、明滅する白い光に照らされて女が立っていた。黒っぽい服を着た、背の低い女。伏せた顔に長い髪の毛がばさりとかかっていて表情は見えない。胸のあたりに何かを抱えているがそこも髪の毛で隠れていてはっきりと見えない。直前まで気付かなかったせいで心臓が痛くなるほど驚いたが、反対側の歩道に移って目を合わせないように通り過ぎようとした。なんてことはない、ただの人間だ。幽霊のような格好をしているが、今更こんなテンプレ通りの格好で現れる幽霊なんて笑い話にもならない。そんなことを考えて自分を落ち着かせる一方、横目で女を追ってしまっていた。よく見ると女の頭と肩が小刻みに上下している。狭い道路とはいえ道幅は6メートル程度ある。女が何をしているか分からないまま距離が縮まっていく。1時の方向にいる女が2時の方向になり、真横に並ぶ。さすがに首を向けないと見えない角度に入った瞬間、
「 ジャク 」
自分の左耳のすぐそばから音が聞こえた。紙か何かを握りつぶすような音だった。首の裏に痺れるような感覚があり、すぐに足が震えだす。反射的に飛び退いた。体の反応に数舜遅れてから脳が恐怖を実感した。歩道の反対側、右側にいたはずの女が自分の左側にいた。気味の悪い女と10センチもない距離をすれ違ってしまった。もつれそうになる足で道路の右端に後ずさり、気のせいなんかではなく、女が実際に左側の歩道にいるのを確認してしまったから弁当が偏るのも気にせず走って逃げた。
悪い夢でも見てるみたいに足が思うように動かなくて、それでも必死に走ってアパートについた。後ろを振り返る勇気はない。無意味に足踏みをしながら乱暴に鍵を開けてつんのめりながら部屋に入ってすぐ鍵を閉めた。投げ出したコンビニ弁当が逆さまにひっくり返って米やデミグラスソースをまき散らしながら廊下を滑った。ドアを睨みながらじっと時間が過ぎる。扉を叩く音や、気味の悪い声が聞こえる……ことはなかった。ただただ俺の荒い息が聞こえるだけだ。体感時間で5分ほど。膝から脱力した俺は座り込んで廊下を振り返った。ビニール袋から飛び出て、歪んだプラスチックの蓋の隙間からこぼれたあれこれで廊下が汚れている。蛍光灯に照らされたそれらがさっきまでの恐怖を現実的な面倒くささで塗り潰した。ため息をついて立ち上がり時計を確認する。掃除して風呂に入って、夕飯はこぼれなかった分を食べるしかない。疲労感を感じながら習慣的に廊下の電気を点けようとして、手が止まった。俺はまだ電気を点けていない。明るい廊下に散らばる弁当を見ているうちにぞわぞわと不安が背骨を這いあがってくる。家から飛び出るのが正解か、家の奥に駆け込むのが正解か。ドアの外にあの女がいるのか、部屋の中に誰かいるのか。振り返りドアノブに手をかけようとした俺の耳元で
「 ジャク ジャク 」
あの音が聞こえた。
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