帰る時間

北嶌千惺

帰る時間

「どうして?」

 彼女は寂しげに尋ねる。

 目の前の彼はいつもの調子で彼女を抱き寄せる。

「もう、時間がないんだ。俺もずっとこの家に居たかった。でも、もう駄目なんだよ」

「駄目じゃない!」

 彼女は目にたくさんの涙を浮かべて反論する。

「だって。……だって!ずっと、ずっとここで暮らしていこうって!……言ったじゃない。おじいさんとおばあさんと約束したのに。二人とも先に逝っちゃった」

 すぐ傍にある紅葉の木が揺れる。ずっとこの家を見守ってきた紅葉の木が、彼女の寂しさを促す。

「兄上も、そう約束したじゃない」

 彼女は兄と呼んだ彼の着物をぎゅっと掴む。

 絶対に離したくない気持ちから、自然と力が強くなる。

「聞いただろう?ここは、もう取り壊されるんだ。新しく旅館が建つ」

「それは!勝手にあの人たちが決めたことじゃない!私たちには関係ないわ!」

 彼女は彼を離そうとはしなかったが、彼は彼女を引きはがした。もう、時間がない。

「……寂しくないの?」

「寂しいよ。寂しいけれど、これは定めだ。絶対に抗えない。もう、迎えがそこまで来ているのだから」

 空と森が騒めく。日付が変わるまで、残り十分。

「俺は森へ。君は空へ帰らなければならない」

「……分かってる。それは分かってるよぅ」

 彼は沈んでいた彼女の顔を上げた。涙を拭ってやる。

「笑って。俺は、君の笑った顔が大好きだ。だから、最後はどうか笑顔で」

「コンッ!」

 彼の背後で、狐の鳴き声が聞こえた。

「ああ、ほら、お迎えが来た。じゃあね、可愛いうさぎさん。どうか、元気で」

 去ろうとする彼の袖を掴んで引き留める。

「あのね。最後に、強く抱きしめて」

 彼女からの願いに、彼は素直に応えた。

「いいよ」

 熱い抱擁は、いつもと変わらない温かさだった。温かくて、涙が再び溢れる。

「楽しかった。この数百年の間、おじいさんとおばあさんと、君と。この思い出は絶対に忘れない。ずっと、君たちのことを想っているよ」

「私……。私も!ずっと、これからも、何があろうとも、兄上と、おじいさん、おばあさんのこと、絶対に忘れないから」

 彼女は心を決めた。ここで彼と別れても、想い出は残っているから。今だけは笑顔で見送って、後で大声で泣こう。そう決めた。

「じゃあね、本当にお別れだ」

「うん」

 彼は彼女の涙を拭って、最後に頭を撫でた。

「楽しかった。幸せだった。本当に、ありがとう」

 彼は迎えの狐の方へ向いて、服を脱ぎ捨て、小さくなった。

「コンッ!」

 彼は狐の姿に変わって、迎えの狐と共に、元居た森へと帰っていった。

 彼女はまた泣いた。紅葉の木に手を付けて、そのまま膝から崩れ落ちて、泣きわめいた。

 親代わりに育ててくれたおじいさんとおばあさんがいなくなって、早七十年。それから時は流れて六十年。育ての親が亡くなった時も泣き叫んだが、今はそれ以上に泣いている。

 背後で雑草を踏んだ音が聞こえた。多くて六匹。彼女にも迎えが来た。

「もう、時間なのね。私、ここに残りたい」

 彼女はそう訴えるが、彼らは良しとは言わなかった。

「そうよね。うん。でも、これだけ」

 彼女は羽織っていたカーディガンを脱ぎ、紅葉の木の近くの池へ放り込んだ。

 カーディガンは、水に溶けるようにして沈んでいく。

「これで、私の魂の一部はここに眠る。ずっと、この土地を守ってくれる」

 彼女は背後でずっと待っている兎の一匹を抱きかかえ、頬ずりをする。そうして次に、山の方を見上げる。

「兄上、拾ってくれてありがとうございます。おじいさん、あなたの仕事姿には見惚れるものがありました。育ててくれてありがとうございます。おばあさん、私にお料理を教えてくれてありがとうございます。私も、もう行きます。せめて、この土地で働く人たちにとって、この土地がよい物でありますように」

 彼女は小さくなって、自分の着ていた服と、彼の着ていた服を無理に抱えて兎たちの元へ戻る。

 兎たちが家の敷地内から出ていくなか、兎の姿に戻った彼女は、一度だけ塀の上で 家の方へ振り返った。彼女の目には、見慣れた日本家屋の背後にある山々が映った。 兄が帰ったはずの山。彼女は逃げるようにして家を後にした。



 彼女たちが帰ってから何十年もの月日が経った。

 彼女たちの家があったところに建った旅館には、言い伝えができていた。

『満月の日。池と紅葉の木の近くで兎の姿を見た者は、幸せを分けてもらえる』

 言い伝えの通り満月の日には、兎姿の彼女が、山の方を愛おしそうに見ている姿が確認されている。

 彼女は今でも願っているのだ。兄と慕っていた彼に会えることを。

 運営開始当時から旅館の玄関には、兎が月へ昇っていく姿が描かれている大きな屏風が飾られている。

 それを時々、野生の狐が見に来ているらしい。




――終

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帰る時間 北嶌千惺 @chisato_k

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