2 ビューティフル&ハッピー・デイ!
目を覚ますとすぐそこに高宮万里の顔があった。
真記介はそれをしばらくぼうっと眺めてから、「なんだやっぱり生きてんじゃん」と思って目を閉じた。なんだか妙にだるい。まあいつものことだけど、と寝返りを打とうとしたところでふと違和感を覚える。
あれ、左腕が動かない。なんか冷たい。
ていうかなんで寝てるんだっけ。寝てていいんだっけ。ここどこだっけ。
ぼんやりと思考をめぐらせて、とりあえずいつものネットカフェではなさそうだという結論に至った真記介は、再びゆっくりと目を開けた。
ぼやけた白い天井が見えた。次いで白い壁、それからクリーム色の間仕切りカーテン。左の枕元には点滴スタンドが置いてあって、そこに吊るされた輸液バッグから延びたチューブは真記介の左腕に刺さっている。
あー、はいはい、なるほどね。
完全にやらかしたわ。
真記介は内心、ため息をついた。どこをどう見ても病院の処置室だ。ホテルのフロアマップ上に「クリニック」の文字を見た覚えがあるから、たぶん、そこだろう。間仕切りカーテンを透かす陽光はもうずいぶんと赤く、披露宴がとっくに終わったことを告げていた。
旧友の晴れ舞台に水を差してしまった。ついでにどれだけの人に迷惑をかけたか知れない。
とりあえず確かなことは、と、真記介は顔だけを横に向ける。
高宮万里が椅子に座っていた。正しくは、高宮万里にそっくりな彼の娘が。
「おはよう」
万里の娘は平坦な声で言って、真記介の眼鏡を差し出した。
「……あ」
どうも、と続けようとして喉が詰まる。軽く咳をすると、今度は水の入ったペットボトルが差し出された。
ベッドサイドに沈黙が落ちた。
どうしよう。ひどく気まずい。
「いらないの」
万里の娘が言う。
真記介は「あ、えっと」と反射的に口を開いたものの、その先の言葉を見つけられずに硬直した。「来たれ、コミュニケーション強者」と願っても、ほかに人の気配はない。仲介を期待することはできそうにもない。
苦しまぎれに下手くそな愛想笑いを返す。
再び沈黙が落ちた。真記介はなすすべもなくそれを見つめた。
「林真記介」
それを破ったのは、やはり万里の娘の声だった。
「責任は取る」
「……ん?」
「あなたをキズモノにした責任は取るから」
「えっ、うそヤダなにされたの俺」
思わず飛び起きた。
途端に体じゅうが軋んで、その痛みに眉を寄せる。万里の娘が弾かれたように腰を浮かせた。
優しい子だなと思った。そこは彩乃の娘という感じがする。
「いやあの、大丈夫、です。ていうかもしかしてアレかな、あのー、階段から落ちたこと言ってるなら、あー、えー、と?」
「サク」
「サク、ちゃん。のせいじゃ」
「ちゃん付けは好きじゃない。サクでいい」
「ええ、いきなり呼び捨てはちょっと。じゃあサク、さん?」
「酢酸みたいでイヤ」
「ああ、そう……」
真記介は咳払いをしつつ、足だけを床に下ろしてサクに正面から向き直った。やけに喉の調子が悪い。吸入薬の副作用だとは思うが、もしも例の感染症だったらいっそ笑える、ような気もする。
「あれ、そういえばなんで俺の名前」
と言いかけて少し咳き込んだとき、真記介は互いにマスクをしていないことに気づいた。
咄嗟に片手で口を塞いだ。サクから距離を取ろうと思いきり尻を後方に引く。狭い診察ベッドから飛び出た半身が大きく傾いだ。
激しい閃光が走った。
「ねえ」
サクの声がした。耳元で。うしろから。
「落ちるのが趣味なの?」
知らず閉じていたまぶたを上げる。
真記介は何度かまばたきをして網膜に灼きついた光を払い、目を凝らした。自身の体はベッドの上に収まったままで、正面にあるはずのサクの姿がない。
振り返ると、果たしてサクはそこにいた。背後から真記介を抱きかかえるようにして支えていた。
「オァッ!?」
「まあ人の趣味をとやかく言うつもりはないけど」
「えっ、なん、は、えっ」
「でも危ないからあんまりおすすめはしない」
「いやなんでそこにいんのっていうか趣味なわけあるか!」
先ほどとは逆の方向へと逃げる。
まったくもってわけがわからなかった。わからないのだが、しかしなんというかこれは、サクが瞬間移動してきたとしか考えられない。わけがわからない。
「わけわかんない」
「言っとくけど、瞬間移動じゃないから」
「ヤダァー、心読まれてるー」
「べつに読んでないし。ただ前にも同じようなやり取りしただけ」
「え、してないけど」
「まあ、あなたは覚えてないだろうけど」
意味がわからない。真記介はサクの顔をまじまじと見つめた。
少し色素の薄い目がまっすぐに真記介を映している。そこにまつ毛の影が落ちる。ほんのわずかに目尻がふっとやわらいで、完璧な美しさでまばたきをする。
それはまるで高宮万里の、演奏中に真記介へと送られるアイコンタクトそのものだった。
横隔膜が動いた。いまここにあるはずもない
血の気が引いた。
くらむ目の端に、綺麗な曲線を描く左耳とピアスみたいなほくろが映る。そのすぐ横が真記介の定位置だった。三年生の九月のはじめ、吹奏楽コンクール全国大会への出場が決まったその日までの話だ。
退部届を受け取ったのは真記介だった。
笑って送り出したのも、真記介だった。
「真記介」
声が聞こえた。
目の前でサクが呼んでいるのだと気づくのに、数秒かかった。
「見て」
サクはそう言うと、どこからか真記介の眼鏡をつまみ上げた。それを頭上高く掲げる。レンズが夕陽を弾く。そのきらめきが真記介の目を捉えたとき、サクはパッと手を開いた。
眼鏡が床に落ちた。サクの足が踏みつけた。
バキッと無惨な音がした。
「うおおい!」
真記介は前のめり気味に叫んだ。
「なにしてくれてんの、なにしてくれてんの!?」
「あなたの眼鏡を破壊した」
「そうだね、その通りだね! なんで!」
「あなたに私のことを知ってほしかったから」
サクの声は真剣だった。真記介はいくらか毒気を抜かれて息を詰まらせた。
「……はあ?」
「私はいまの出来事をなかったことにできる。それだけじゃなくて、間違った過去を修正できるの。私なら、全部」
「いやなに」
「私はタイムトラベラーだから」
今度は完全に毒気を抜かれた。
「は?」
「たとえばさっき、あなたは一度そこから落ちたけど、私が戻って回避した。瞬間移動したように見えたのは、あなたがそれを認識できなかっただけ」
「いや、ちょっと」
「ちなみにマスクはもう必要ない。パンデミックなら、あなたが寝てるあいだに私が終わらせた。完全にね」
「いやいやいや、冗談」
「だと思うなら調べてみれば。スマホ、そこにあるけど」
とサクが指差す枕元には、確かに真記介のスマートフォンがあるようだ。真記介は不明瞭な視界を細めてそれを見つめた。
サクがなにかに気づいたように「ああ」と声をあげる。「真記介、こっち」と肩を叩かれるままに振り返れば、バキバキに壊れた眼鏡がサクの手のなかから真記介を見上げていた。
「見てて」
サクが言った直後、閃光が走った。
まぶしさに目を閉じる。またかよ、と内心悪態をつきながらまぶたを持ち上げた真記介は、そこで言葉を失った。
眼鏡が完璧に修復されていた。
安っぽいフレーム、傷だらけのレンズ。間違いなく、もう何年も使っている真記介の眼鏡だ。サクに踏み潰される前の。
真記介は開いた口を持て余した。
静かに伸びてきたサクの指先が、真記介の顎を軽くつまんだ。そのままクイと持ち上げられる。顔が近づく。
眼鏡のつるが横髪を撫でた。サクの手で眼鏡を装着されて、真記介ははじめて明瞭な視界でサクを見た。
妙なせつなさが胸をよぎった。
「マキちゃん!」
と呼ぶ声が飛び込んできたのは、そのときだった。
真記介はサクの手を振り払うようにして首を回した。間違いない。彩乃の声だ。
「いやあの違うんですこれは」
よくわからない言い訳が心臓から跳ねて飛び出す。だがそれも目が舌に追いついた時点で途絶えた。
ウエディングドレスが立っていた。
細身でシンプルかつ優美なシルエットがなめらかな光沢を放つ。それが衣擦れの音を立てて近づく。上品なまとめ髪も、控えめな真珠のアクセサリーも、彩乃によく似合っていて綺麗だと思う。思うのだけれども。
「あ、彩乃センパイ?」
真記介は花嫁姿の彩乃を呆然と見上げた。
彩乃は大きな目を少し細め、マスクのない口元をきゅっと引き結んでから、勢いよく真記介に抱きついた。
「マキちゃーん、もおー!」
「うおおお先輩!? ソーシャル・ディスタンス、ソーシャル・ディスタンス!」
「やだなにそれなつかしい。ああでもよかった、そんな冗談言えるほど元気で」
「え」
「え?」
彩乃が真記介から少し離れて首を傾げる。真記介はサクに視線を送った。サクはいくらか得意げに薄く口角を上げた。
「……あの、先輩。つかぬことをおうかがいしますが、コロナっていつ終息したんでしたっけ」
「ええ、ちょっと大丈夫? 頭は打ってないって聞いたんだけど」
「あ、打ってない、打ってないですまじで。いやなんか、あれー、どうだったっけー、なんて」
真記介は半ば祈るように笑った。彩乃は眉尻を下げつつ椅子に座ると、ため息とともに言った。
「去年のクリスマスのころでしょ」
「うおあああああ」
真記介は天を仰いだ。
「え、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫でーす。ぜんぜんなんにも問題ない。なんにも。まったく。まじでなんにも問題ないんで俺お先に失礼しますね。おつかれっした」
「いやいやいや、ちょっと。は?」
「おおおお金ならちゃんと払いますんで! 一応いざというときの診察代くらいは……あ、待って。もしかしてCTスキャンとかやった? じゃあ足りないかも」
やにわに彩乃が笑い出す。
「待って、やばいマキちゃん冗談きついわ」
「いやその反応のほうがきついわ。すみませんね冗談じゃなくて」
「ねえほんと待ってやばい。え、まさか五千万ぜんぶ使っちゃったわけじゃないよね」
「は? 五千万?」
「当てたでしょ。競馬で」
真記介はスマートフォンに飛びついた。顔認証が通るのを待つのももどかしく、狂ったようにロック画面をタップする。けっきょく余計に時間を取られながらもなんとか通帳アプリを開いた真記介は、声にならない悲鳴をあげた。
夢だ。
そうだ、これは夢だ。あのしようもない夢の続きだ。でなければ、そこに八桁の数字が並ぶことなどあろうはずもない。
「いっそつらいわ」
「あー、まあね。税金かなり取られるしね」
「えっ、そうなんすか世知辛い。じゃなくて」
真記介は振り返り、すがるようにサクを見た。サクは興味なさげに毛先とスマートフォンをいじっていた。
「せめてこっち見てろよ!」
「えっ、やだなに突然」
「あっ、いやすみません、いまのは先輩に言ったんじゃなくて。もうやだ泣きそう。帰りたい」
「ちょっとマキちゃん、いまのは聞き捨てならないんですけど。披露宴どうするつもり」
「どうもこうも、もう終わってるでしょ」
「はあ? これからですけど?」
「……ちょっと待ってなんの話?」
「なにって、私たちの披露宴の話」
それ以外になにがあるのか、という顔をしている彩乃を、真記介は改めて見つめた。
純白のウエディングドレス、真珠よりも輝く頬や瞳。記憶のなかのどの彼女よりも美しいその姿は、確かにその晴れ舞台に立つためのものに違いない。
でも、だとしたら。
「あの、先輩。つかぬことをおうかがいしますが……お、お相手は」
途端、彩乃が音もなく立ち上がる。うつむいて肩を震わせること数秒、それがピタッとやんだと思ったら突然、爆発したように叫んだ。
「マキちゃんに決まってるでしょ!」
そのまま駆けていってしまうのを、真記介は呆然と見送った。
次第に空気の肌触りが凪いでいく。どこからか秒針の音が聞こえる。夕日はいよいよ濃く深く照り、金色に舞う埃をゆっくりと影のなかに沈めた。
からになった点滴の管を、血液が逆流していった。
「いまのもやり直しとく?」
こともなげな声が静けさの底を打った。
振り向けば、サクはやはり真記介のことなど見ようともせずにペットボトルで手遊びをしている。
「ていうかこのままだと私が困るから、ちょっと戻ってくるけど。まあ、悪いようにはしないから」
そう言ってペットボトルの水を飲み、ようやく真記介のほうを向いたサクの顔は、逆光でよく見えない。ただわずかにいたずらな響きをにじませて、サクはポニーテールをさらりと払った。
「いい子で待っててね、おとうさん」
まばゆい閃光が走った。
その直前にサクの手を離れたペットボトルが、水をこぼしながら落下する。それを眺めつつ目を閉じた真記介は、つぎに目を開けたらきっと水はこぼれる前の状態に戻っているのだと、もはや確信していた。
二〇二二年三月十二日は、林真記介にとって、どうやら「人生最良の日」と呼ばれるたぐいのものになったらしかった。
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