3 そんなわけあるか

「そんなわけあるかあー!」


 という叫びは吐瀉物となってトイレに吸い込まれた。


 ガンガン痛む頭と便器を力なく抱える。「人生最良の日」から一夜明けると、真記介を待っていたのは人生初にして最悪の二日酔いだった。


「マキちゃーん、大丈夫?」


 控えめなノックの音がして、彩乃の声が続いた。


「ごめんね、私もう出なきゃいけないんだけど……一応、おかゆ作ってあるから」


 日曜である今日も仕事だという忙しい「妻」は、それでも不甲斐ない「夫」を気遣ってくれる。「あー」とか「うう」とかいう濁った母音で応えるしかない真記介は、文字通り平身低頭した。


 なんだかんだでつつがなく終えた、昨日。披露宴は盛大で立派なものだった。彩乃も立派だったし、余興で見事なフルート演奏を披露したサクも立派だった。駄目だったのは、困惑と緊張と少しの優越感に酔い潰れた真記介だけだ。


 それなのに彩乃は「昨日、ごめんね」と真記介に言う。


「私、自分のことしか考えてなくて。マキちゃんあんなに調子悪かったのに」


 でもちゃんと披露宴出てくれて嬉しかった、ありがとう。そう続く声に返す言葉が見つからない。


「とにかく今日は無理しないでゆっくり休んで。じゃあ」


 ドアの向こうの気配が動く。真記介は慌てて声を絞り出した。


「あ、あのっ」


 いっそ清々しいほどに裏返った。


「い、いってら、っしゃい」


 沈黙が一、二、三拍。四拍めにやわらかな吐息が重なって、


「うん。いってきます」


 と花のほころぶような声が答えた。


 真記介は遠ざかる足音を聞きながら、ほうと息をついた。玄関ドアが鳴るのに合わせて胸がじわりと熱くなる。それをごまかすように、絡まり気味の髪を左手で掻き上げた。目の端にきらりと輝くものが見えた。


 左手を視界の真ん中まで持ってくる。シンプルなプラチナリングが、薬指の付け根で存在を主張している。


 涼やかなその輝きを眺めているうちに、真記介の胸はすっかり冷えていった。


「そんなわけあるか」


 自嘲に歪んだ口からため息がこぼれた。と同時に、再びトイレのドアが鳴る。


 サクだ。


「真記介」

「あー……放っといてくれていいよ。大丈夫だから」

「違う。早く出て。トイレ入りたい」


 真記介はキュッと唇を噛んだ。


 もう一度ため息をついて、立ち上がる。センサーが反応して自動で水が流れる。広いトイレのなかには専用の手洗い場があり、その前面に配置された鏡には真記介の疲れた顔が映った。


 手を洗い、口をゆすぎ、ずり落ちた眼鏡と寝癖を申し訳程度に整えてからドアを開けた。


「遅い」


 ルームウェア姿のサクが真記介を見上げていた。


「漏れたらどうすんの」

「おまえなあ、もうちょっとつつしみ持てよ」

「なんで真記介にそんなこと言われなきゃいけないわけ」

「まあ、それはそう」


 答える間にサクはトイレのなかへと消える。その背中を流れる黒髪が、ほのかな桜の香りを散らした。


 真記介はつま先を引きずるようにして歩き出した。


 ゆったりとした廊下には、少し水っぽいような春らしい空気が満ちている。いくつかの部屋の前を通り過ぎて突き当たりのドアを開けると、圧倒されるほど広いリビングダイニングが現れた。正面の壁がガラス張りになっていて、おそろしく明るい。ガラスの向こうには、やはりガラス張りの開放的すぎるバルコニーが見える。


 真記介は迷子になったような心地でバルコニーのほうへと進んだ。


 二十階建てマンションの最上階にあるこの部屋からは、いかにも千葉県北西部らしいベッドタウンが見下ろせる。背の低い集合住宅やひしめき合う一軒家、再開発中の駅前と古い大型商業施設、三十分程度で東京に至る線路、点在する緑に運動公園。ぽつんと建つ真新しいタワーマンションだけが、なんだか背伸びしすぎて浮いている。


 駅に隣接する立派な市営文化ホールは、もうすぐ四十五年の歴史に幕を下ろすらしい。高校時代、定期演奏会のほかいろいろなイベントでよく演奏した場所だ。そこから二駅下れば、母校の最寄駅がある。真記介はさらに十二駅下ったところから、あのころは毎日始発に近い電車で朝練に向かっていた。


 淡い乳青色の空がやけにまぶしい。


「なんてとこに住んでんだよ、おまえ」


 真記介は胸のうちでつぶやいて、少し笑った。


 伏せがちに流した目の先には、いくつものトロフィーや盾、賞状、それから綺麗に飾られた写真の数々が並ぶ。重い足でゆっくりと近づき、写真立てのひとつに左手を伸ばした。


 指先が軽く触れる。シンプルな木製の縁をそっとなでると、薬指が朝陽をはじいて散らした。すくい上げるようにして写真立てを持った。


 万里が笑っている。


 いまよりも若い彩乃と、おそらくまだ生まれたばかりのころのサクと並んで、真記介の知らない顔で笑っている。


「いい写真でしょ」


 サクが言った。いつのまにかリビングの入り口に立っていた。


 真記介は自嘲ぎみに「そーね」と答えて写真立てを置いた。


「で、なんなんだよこの状況。おまえマジでなんなの」

「あなたの娘だけど」

「違うが?」

「違わない。ほら、家族写真もあるし」


 と、歩み寄ってきたサクが壁のコルクボードを指差す。そこには確かにここ数年のものと思われる「家族写真」が並んでいて、万里の抜けた穴を埋めるように真記介の姿がおさまっていた。


「……そういうことじゃなくて」

「じゃ、なに」

「いや、なにって。おかしいだろ、こんなん」

「おかしくない。私が過去を変えたから」

「だからそれが」

「言ったでしょ、私は間違った過去を修正できる。だからなにもおかしくない。これが正しい」

「正しい、って」


 真記介は拳を握り、押し黙った。また吐き気がぶり返してきたような気がする。


 立ち尽くす真記介を置いて、サクはダイニングテーブルについた。あらかじめ用意されていたトーストを手に取り、ホイップバターと薄紅色のジャムをたっぷりとのせていく。それから横髪を耳にかけつつ小さく口を開けると、目だけを上げて真記介を見た。


「ねえ」

「……なに」

「食べないの」


 そう言ってトーストをかじったサクの向かいの席には、粥の入った碗が置かれている。ついでに昨日処方された薬までしっかり用意されているのを見たら、席につかないわけにはいかなかった。


 真記介は何度めかわからないため息をついて、ダイニングテーブルへと向かった。


 リビングの一角にある防音室を横目に見ながら椅子を引く。大きなガラス扉の向こうでグランドピアノが黒く光る。真記介の体重を受け止めた椅子が、小さく軋んだ。


 サクは黙々とトーストを食べていた。


 桜のジャムが香っている。真記介はサクの手が添えられた左耳のほくろから目を逸らしながら、粥をひとさじすくった。はじめて口にする彩乃の手料理は、どこまでもやさしい味がした。


「なあ」

「なに」

「今日、部活は? 吹奏楽部なんだろ」

「……休み。テスト期間中だから」

「あー」


 学年末テストってこんな時期にやるんだっけ、と遠くも近くもない記憶を追う。


 部活動がすべての学校だった。日本一でなければ意味がない、そういう心意気でほとんどの生徒が所属する部のなかでも、吹奏楽部は野球部と並ぶ二大巨頭だった。とにかく忙しくて、一年中なにかしらの大会に出て、その合間に呼ばれた先で興行のようなことをして、全国各地を飛びまわる。強制的に活動が制限されるテスト期間中を除けば、完全なオフは年に二日ほどしかなかった。仮にも部長がサボるわけにはいかなかったし。


 それを考えたら、まだまだぜんぜんやれるはずだったのに。


「なんか、ビール飲みたい」

「は? バカなの?」

「いやひどくない?」

「そんなに早死にしたいわけ。昨日もだけど、お酒飲むとかありえない。あんな発作起こしておいて」

「アルコールってダメなんだっけ」

「ダメに決まってんでしょバカ」

「辛辣」


 真記介は苦笑した。そんな物言いも万里に似ている。


「すみませんね、まだ喘息初心者なもんで」

「だったら勉強くらいすれば」

「あっ、はいすみません。ていうかおまえ、なんか詳しくない?」

「私もむかしはひどかったから」

「あ、あー、じゃあ、もしかしてあの吸入器っておまえの?」


 サクがわずかに目を伏せる。


「ちょっと前に、ちょっとだけ調子悪くなって。それ以来お母さんが持ち歩いてる」

「いや自分で持ち歩きなさいよ」

「うるさい。必要ない。ていうか真記介に言われたくない」

「それはそう」


 昨日、彩乃が医師から「薬の貸し借りは絶対にやめてください」と注意されていたことを思い出す。「家族とはいえ」という枕詞がうそ寒かった。


「私はべつに、もうたまに風邪ひいたときくらいしか症状出ないし」

「そっか。よかったな」

「なんかむかつく」

「なんでだよ。まあその、なんだ。昨日のことは、いろいろ悪かったとは思ってる。ごめん」

「うわ、気持ち悪い」

「なんで?」

「おじさんの上目遣いとか最悪」

「悪かったなおじさんで。これでも同級生のなかでは若いんだよ」

「何歳」

「三十四……になりました、昨日」

「ハッ」

「おまえいま鼻で笑っただろ」

「ちなみに私は十六になったけど。昨日」


 真記介は顔を正面に向けた。


「えっ」

「なにその顔」

「え、じゃあ、えっ、ごめん、まじで」

「は?」

「いやだって、おまえ誕生日、祝ってもらえてないんだろ、昨日」

「べつに……」


 とサクがわずかに目を逸らす。軽くひらいた唇が、「ほんと、そういうとこ」とつぶやいたような気がした。


 再び目が合う。


「じゃあ、ちょうだい。真記介」

「なにを」

「だから、真記介を。誕生日プレゼントに」


 真記介はちょっと咽せた。


「言っとくけど、私は真記介の体だけが目当てだから」

「なに言ってんのこの子は! どうしてそういうこと言うの!」

「変な誤解を生まないように」

「変な誤解しか生まないが!?」


 自身の声が頭に響く。真記介は眉間を押さえてため息をついた。


「まあ、いいんだけどさ、べつに。俺には関係ないし」

「関係ある」


 サクが真記介の言葉尻を食うように言った。


 その声には、明らかにいままでとは違う響きがあった。知らず捉われた両目を、サクの両目が静かに射抜く。


「だって真記介は、私のコーダだから」

「……コーダ?」


 真記介は眉根を寄せた。


 コーダは、一般的に楽曲の終結部を示す音楽用語だ。譜面上では円に十字を重ねたようなマークで表される反復記号の一種だが、繰り返しを終わらせて新たな結末へとジャンプさせるという役割を持つ。コーダマークからコーダマークへと、奏者はその記号を目印にして飛び、終止線上にあるフィナーレを迎えにいくのだ。


「えーっと、つまり?」

「真記介がいなきゃ、私は過去を修正した先の未来に飛べないってこと」

「マジか」

「マジ」

「いや、なんで?」

「さあ。誕生日が一緒だからじゃない?」

「そっかー」


 そんなわけあるか。


 真記介は胸のうちでつぶやいて、また眉間を押さえた。


「それって、俺じゃなきゃダメなの」

「ダメだった。何回も試した」

「なんで」

「さあ。なんか神さま的なひとがそう決めたんじゃないの」

「そっか」


 苦笑がこぼれる。


「だから真記介、ここにいて。私がつくる未来をちゃんと見ててよ」


 サクの切実な声が言う。


 馬鹿げた話だとは思う。だが実際にこの目で見てしまった以上、サクの力を信じないわけにもいかない。そのサクが言うのだから、真記介が必要とされているというのも、もしかしたら事実なのかもしれない。


「……なあ。父親のことって、おまえ覚えてる?」

「あんまり。まだ小さかったから」

「あー、震災のとき五歳、いやギリギリまだ四歳か。若いなあ」


 考えてみれば哀れな子どもだ。父親がいなくて寂しい思いをすることもあっただろう。この万里そっくりな性格では友達も多くはなさそうだし。


「俺、無職だけど。いいの」


 まあ、いまだけなら。どうせすぐに「もういいよ」と言われるだろうから。


「大丈夫」


 サクがわずかに目を細める。


「真記介はいま、売れっ子作家だから」

「え」

「あ、ほら映画化記念特集やってる」

「えっ」

「駅前の本屋でサイン会やるって。明日」


 サクがスマートフォンを操作して、その画面を真記介に見せる。そこには確かに「作家・林真記介トーク&サイン会」の文字があった。


「……えっ?」


 真記介は絶句した。そして停止直前の頭の奥で叫んだ。


 いや、だから。


 そんなわけあるか!

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