終止線上のコーダ

井中まち

第一楽章 アレグロ

1 再会

 二〇二二年三月十二日は、はやし真記介まきすけにとってあまりよくない日だった。


 まず友人の結婚式があった。高校卒業以来、十六年ぶりに連絡を取ったかつての部活仲間で、もう友人と呼べるかどうかすらあやしい。それでも同じフルート奏者として吹奏楽に青春をかけた仲間の花嫁姿には感じるものがあったし、当時を思い出す顔ぶれが披露宴の円卓に並んだのも嬉しく、アクリル板ごしの会話もそれなりに弾んだ。


 その会話のなかで、真記介は高宮たかみや万里ばんりの死を知った。


 正確には行方不明だという。命日は十一年前の昨日ということになるようだ。その日、彼は気仙沼にいたらしい。


 フルートパートの同期メンバーで彼だけが列席していない理由を、真記介は「もちろん知っていた」という顔で聞いた。眼鏡と窓を通して見える東京湾が、黄味がかった青空とあいまってやけにまぶしかった。


 ほかの四人のメンバーは、パールのアクセサリーを軽く揺らして、遠い昔をなつかしむように言った。


「けっきょく、創部五十周年記念コンサートが最後になっちゃったよね」

「あのときの万里すごかったわー。さすがプロっていうか」

「でもまだまだこれからだったのに」

「ほんとにね。生きてたらいまごろすっごい有名人になってた気がする」

「わかるわかる。テレビとか出てそう。あのあれ、土曜の朝のやつとか」

「イケメンだったしねー」

「ね、マキちゃん」

「それ俺に振る?」


 真記介はあいまいに笑った。「大学生のときすでに出てたよ」とは言えなかった。


 母校の吹奏楽部が五十周年を迎えたのも、たしか十一年前だ。記念に開かれたコンサートは卒業生にも出演の誘いが来たが、真記介は行かなかった。裏方としても客としても行かなかった。幕張の大型イベントホールでおこなわれたというから、かなりの規模だったはずだ。万里はそこで、「プロの世界で活躍する卒業生」のひとりとして客演ソリストをつとめたらしい。


「そういえば、六十周年のやつはやっぱりコロナでダメになっちゃったって」

「あー、やっぱそうなんだ」

「延期って言ってたけどね」

「やればいいのに。ロックフェスとかはやるんでしょ、今年」

「いや厳しいでしょさすがに。運営もプロじゃないんだし」

「ねえマキちゃん、なんとかなんないの」

「なんで俺?」

「元部長権限とかでこう」

「ねえわ、そんなもん」


 真記介は赤ワインで苦笑を飲み下した。そんな企画があったこと自体、知らなかった。


 細く息を吐き出しながらグラスを置いたときには、もうつぎの話題に切り替わっていた。家庭、子ども、マイホーム、仕事。そんな言葉を聞いているうちに、真記介はご祝儀が惜しくなった。なけなしの貯金と、失業手当からひねり出した三万円が。


「それで、マキちゃんは?」

「え」

「どうなの、最近」

「どうって、まあ……なんもない。ふつう」


 答えた途端、喉の奥が締めつけられるような感覚がした。乾いた咳が出る。続けて出そうになる二回め、三回めを我慢して、水を飲んだ。喉の違和感は増すばかりで、四回めからは激しい咳が止まらなくなった。


「ちょっと、大丈夫?」


 旧友たちが少し呆れたように笑いながら真記介を見る。単に咽せただけだと思われたのだろう。真記介もできればそう思いたかった。


 だが残念なことに、これが喘息の症状であることはほぼ疑いようがなかった。


 自覚してしまうとますます苦しくなった。次第に濁っていく咳を押し込めるようにマスクをつける。周囲の視線が集まりはじめた。涙のにじむ視界でも、それは痛いほどにはっきりと感じられた。


 新型コロナウイルスによるパンデミックの続く世界は、どこまでも真記介に厳しかった。


「ごめん、ちょっと」


 ほとんど言葉にならない断りを入れて、席を立つ。旧友たちもさすがに眉を曇らせた。いたたまれなかった。転がるように披露宴会場を出た。


 廊下の絨毯に足が沈む。真記介は後ろ手で重い扉を閉めながら、周囲に目を走らせた。どうやらこのフロアは貸し切り状態のようで、自身のほかにはホテル従業員の姿がいくつか見えるだけだ。だからこそ、無様な咳が目立って聞こえるのがいやだった。


 顔を伏せてトイレに駆け込んだ。咳き込みすぎて吐きそうだった。そのまま個室に入り、便器の前でうずくる。マスクをむしり取ると、便座の蓋が自動で上がりきるのを待たずに顔面を突っ込んだ。


 みじめな臭いがした。


 みぞおちのあたりを無理やり押し上げるようにして、吐く。濁った赤ワインが出てきた。断続的に何度か吐いた。


 たとえばこれが血液だったなら、少しは格好がついたのかもしれない。そんな不謹慎かつしようもないことをぼんやりと考えているうちに、咳と吐き気はある程度落ち着いた。


 ゆっくりと顔を上げた。息をつく。


 真記介はトイレットペーパーで口元をぬぐい、嘔吐物を水で流した。便座に腰掛けつつ、追加のトイレットペーパーを引き出してはなをかむ。眼鏡はぐしゃぐしゃに濡れていた。いったん外して傷だらけのレンズを拭き、目元を手の甲で雑にぬぐってから掛け直した。


 かすかに喘鳴がしていた。「やっぱり病院代だけはケチるんじゃなかったな」と後悔したが、スーツの内ポケットから取り出したスマートフォンで通帳の残高を確認すると、それもすぐにどこかへと飛んでいった。


 もう帰りたい。けれど、帰る勇気もない。ついでにいうと帰る場所もないに等しい。


 スマートフォンを握ったまま、腕をだらりと投げ捨てた。鼻水が垂れてきた。塩辛かった。軽くすすって、天井を見上げた。


「つーか、なに死んでんの」


 つぶやく声はかすれていた。


「いや、いいけどさべつに」「でもさすがにそれはなくない?」「だいたいおまえはいっつもアレだ」「あのー、アレだよアレ」


 言いたいことは山ほどあった。どれも口から出てはこなかった。出してもしかたがなかったし、けっきょくのところ、知りたいことはひとつだけだった。


「おまえ、ほんとに死んだの」


 高宮万里に聞きたいことは、それだけだった。


 ふと、静かなオーケストラの調べが耳に入った。たぶん館内BGMとしてずっと流されていたのだろう。聴き覚えのある曲だった。オペラ『リナルド』のなかのアリア、『私を泣かせてください』だ。歌は入っておらず、器楽用にアレンジされたものらしい。


 ああ、これ、吹いたな。


 思い出して、目を閉じた。突然、個室のドアが鈍く鳴った。


 真記介はビクッと肩を震わせた。おそるおそるドアのほうへと目を向ける。息を殺していると、今度は立て続けに二回、先ほどよりも激しめにドンドンと叩かれた。


 どうしよう。返事をするべきだろうか。


 トイレの利用者はほかにいなかったから、空いている個室はいくつもあるはずだ。早く出ろという催促ではないだろう。ホテル従業員に怪しまれたのかもしれない。あるいはひどい酔っ払いだと思われたのかも。いや、むしろ酔っ払いに絡まれている?


 とにかくこの場はやり過ごすことに決めて、真記介は沈黙を貫いた。相手も押し黙る。『私を泣かせてください』だけが、ゆったりと三拍子のフレーズを繰り返していた。


 指先が冷えていった。


 もうそろそろ曲も終わるかというころ、ドアの前の気配が動いた。控えめな足音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなるまで、真記介はじっと待ち続けた。


 館内BGMが軽やかなピアノ協奏曲に切り替わった。


 真記介はほっと息をついた。


 なんだったんだ一体、と思いながらはなをすする。このまま披露宴に戻る気にはなれなかった。なんとはなしにスマートフォンをいじって、SNSアプリを立ち上げた。


 プログラムがうかれた演出で真記介の誕生日を祝う。それとは無関係に、顔も名前も知らないひとたちの、誰に向けたものでもないつぶやきがタイムラインを流れていく。いつもどおりのその様子は真記介に安堵感を与えてくれるが、最近はこの空間も少し息苦しい。


 先月から続くロシアによるウクライナ侵攻、三年めを迎えても収束の兆しが見えないパンデミック、いつまた発令されるかわからない緊急事態宣言、必然的に制限される行動、冷え込む景気。その日を生きるだけで精一杯の生活に、相次ぐ増税や支援打ち切りのニュースが追い打ちをかける。


 そんな世間に渦巻く不安や不満が可視化され、ときに対立や同調を求められるようになったタイムラインは、それでもなお真記介にとって、よすがだった。まるでそれが義務であるかのようにくまなく目を通すと、深いため息とともに背中をまるめた。


 あと一分、いや、二分したら戻ろう。


 そう自分に言い聞かせて、手汗のにじんだ拳を握る。大丈夫だ、戻れる。大丈夫。


 また、咳が出た。


 直後、個室のドアに雷が落ちた。というのはたぶん嘘で、ただそうとしか思えないような閃光と轟音が走った。一瞬遅れてやってきた衝撃が、心臓から足裏までをビリビリと駆け抜ける。


「えっ、なに」


 思いのほかスムーズに声が出た。本当に驚いたときは声も出ないんじゃなかったのか、とどこか冷静に思いつつ、ドアの上部に目を向ける。


 誰かと目が合った。


 今度こそ声も出なかった。


 上部が空いたドアと天井の間に、人の顔がある。こちらを覗き込んでいる。その顔に乱れた黒髪が落ちて、濃い影を作っている。両目だけが奇妙に明るい。


「見つけた」


 顔が呻いた。


 真記介は叫んだ。


 その勢いのまま個室を飛び出す。短い悲鳴が聞こえたような気もしたが、かまってなどいられなかった。全速力で逃げた。


 なに。


 なにあれ。


 不審者? 変質者? それともまさか。


 不吉な考えを振り切るように廊下を駆ける。足がもつれて転びそうになった。どうしてこう、いいホテルの廊下というのはふかふかして走りづらいのか。貧乏人バカにしてんのか。


「お客さま」「いかがなさいました?」


 親切そうな声がした。途端に申し訳ない気持ちになったが無視して駆ける。どうせ説明しようもないし、そんな余裕もない。


 背後からなにかの気配が迫っていた。


 振り返らずに走る。廊下を抜けると視界がひらけた。八層にわたる吹き抜けの大空間が、上下左右に広がっている。その吹き抜けを階段が突っ切って、真記介のいる三階から一階のロビーへと延びていた。


 真記介はまっすぐにそこを目指した。ガラス張りの天井から陽光が降り注ぐ。呼吸が少し楽になった。階段の下り口まで行って、手すりを掴んだ。


 階下に目を向けた。


 利用客で賑わうカフェラウンジが見えた。


 どの顔も楽しそうに笑っている。穏やかな時間を、当然のように誰かと分かち合っている。


 真記介はそこから一歩も動けなくなった。


 体の奥が急激に冷えていく。けれど、顔は熱い。羞恥で手足がしびれる。誰もこっちなんか見ていないのに。そう思うと余計に恥ずかしくて、ごまかすように咳をした。


 喉が鈍く鳴った。


「林真記介」


 唐突に、名を呼ばれた。


 すぐうしろだ。思わず振り向く。


 真記介は息を呑み、目を見張った。


 高宮万里がそこにいた。


 涼やかで端正な輪郭。切れ長の目から落ちるまつ毛の影。左の耳たぶには、ちょうどピアスみたいなほくろがひとつ、ある。


「たかみや」


 真記介は弾かれたように片足を引いた。踵が宙を蹴った。


 あっ、と声を上げたのは万里のほうだった。その声がまるで少女のようで、真記介はそこではじめて、万里が母校の女子用制服を着ていることに気づいた。


 気づきながら階段を転げ落ちていった。


 踊り場まで一気に落ちた。仰向けに倒れた。それだけはかろうじて理解できたが実感がわかない。まるで現実味がない。とりあえず、痛い。


 なんだか笑いだしたくなるような気分だった。ぽかんと開いた口から咳が出る。ぼんやりと向けた視線の先には、同じように口を開けて突っ立っている少女がいた。そういえば彼女はマスクをしていない。改めて見ると彼女は確かに万里とは違う「彼女」で、ポニーテールの女子高生にしか見えなかった。


 咳が止まらない。


 息苦しさに身をよじった。今度は階下から駆け寄ってくる人影が見えた。あ、俺もマスクしてないじゃん。そう思ったときにはすでに誰かのパンプスの爪先がすぐそこにある。


「やっぱり、マキちゃん?」


 知っている声がした。


 披露宴に出席している同期の声ではない。もっとずっと、痛みにも似た憧れとなつかしさを感じる声だ。


彩乃あやの先輩」


 顔を見るまでもなく、真記介はその名を呼ぶことができた。いまは「高宮」というはずのその姓も。


 だがそれは激しさを増す咳と喘鳴に阻まれた。「なんで」とか「いや、こんなことある?」とか、そういう言葉も全部喉元でかき消された。


「マキちゃん」


 彩乃のきれいに巻かれた髪が頬をかすめる。スーツを着こなす左腕が伸びてきて肩に触れる。その直前に一瞬だけ、つややかなネイルと薬指がきらめくのを、真記介は見た。


「お母さん」


 と、万里に似た少女が彩乃のことを呼ぶのが聞こえた。


 そのあとの会話は聞き取れなかった。咳に痰が絡みはじめて、もうほとんど息ができない。それでも真記介は震える両手で自身の口を塞いだ。彩乃以外の気配がまばらに近づきつつあった。それよりもはっきりと、遠巻きに送られてくる多くの視線を感じた。


 なんかもう異世界転生とかできないかな。


 薄れゆく意識の片隅でそんなことを願ったとき、「マキちゃん!」と呼びかける声が真記介の耳朶を打った。


「ごめん、しんどいと思うけど落ちないで。ちょっと体起こすよ。そのほうが楽になるはずだから」


 パステルカラーのマスクをした彩乃の顔が、波打つ水面のような視界にもくっきりと映る。誰かの腕に引っ張り起こされた。その間にも彩乃は「これ喘息発作だよね。吸入器は?」と話しかけてくる。真記介は両手を床に落とし、首を横に振った。


「ないの? なんで? あー、いや、大丈夫。そうじゃなくて」


 彩乃が言う。


「もう一回確認するね。喘息でいいんだよね」


 真記介はうなずく。


「わかった。じゃあこれ、一、二、三で吸って。いくよ」


 言われるがままに差し出されたものを咥えた。彩乃のかけ声を逃すまいと必死に聞いて、それから、カシュッという音と同時に大きく息を吸い込んだ。


「ちょっとそのまま息止めて……ゆっくり吐いて。そう、上手。もう一回」


 やわらかくて、でも凛とした声。変わらない。フルートパートの頼れるリーダーだったあのころと。引退式の帰り道で真記介にひみつのキスをした、あのときとも。


 二度目の吸入を終えると、真記介は急速に力が抜けていくのを感じた。疲労感と安堵で全身が沈む。まぶたがどんどん重くなる。


 体の欲求に逆らう気力はもうなかった。いくつかの音をどこか遠くに聞きながら、真記介はゆっくりと意識を手放した。


 それで、どうやら夢を見たらしい。


 夢のなかの真記介は、ヤケになってやったこともない競馬に貯金を全部注ぎ込み、なんと五千万円を超える大勝ちをした。


 しょうもない夢だなと、思った。

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