夏、灼ける独白

僕は僕の部屋が暑すぎることに慣れてしまったのかもしれない。今ならどんな変なものでも見えてしまうくらいに意識は撹乱されていた。眠ることができないでいる。酸素ボンベを背負ったまま泥中でもがくかのような苦しい熱が体表を這う。水分を奪う。思考を蝕む。本当に嫌な夏休みだ。宿題が多いとかそういう理由とは違う種類の理由で、僕は夏が早く過ぎ去ってしまえと思い続けていた。親は眠っているらしく、寝室からはなんの音もしない。僕は立ち上がって部屋を出た。廊下はエアコンや扇風機の力を借りていないにもかかわらず、僕の部屋よりも遥かに涼しかった。布団がない床ではあったが、自分の部屋よりも快適に睡眠を取ることができそうだった。階下に降りた。一階のキッチンに佇む冷蔵庫を開くと、かっと光る内側の眩しさに目が眩んだ。大気に解けようとする冷気のせいで、僕は自分が汗をかいていることに気づいた。室温と夏を憎く思いながら、冷えた麦茶をコップに注いでひと息に飲み干した。虫を食ったような苦味が口の中に残って、かはっ、と咳のような息を吐き出して顔を顰めた。腐っていた。どうすれば冷蔵庫の中でものを腐らせることができるんだと思っていたが、今日の昼、かんかん照りの庭先に置いてあったのを思い出した。父が自分の趣味である野菜の栽培をする際に飲みたくなって庭に置いたのだ。一日しか外においていないとはいえなかなかの長時間だったので腐っていても不思議ではなかった。そう納得して、というよりも自分を言いくるめてからため息をついた。やっぱりどうしても喉が渇いて、冷たいものを飲みたいという欲求に抗えない。だから僕は近くのコンビニまでお茶を買いに行かなくてはならなかった。飢えは人の目を潰してしまう。僕は着替えて財布を手に取り、靴下を履かず、スニーカーに裸足を突っ込んだ。右足の小指が擦れたが知らないふりをした。空腹であることにも気がついて苛立ったが、空腹だからこそ苛立ったのかもしれなかった。財布にはまだお金が残っていた。飲み物とちょっとした食べ物を買うとたちまち空になるくらいの所持金だ。それでも構わないくらい飢えていた。一週間すれば後悔しているような選択肢を易々と選んでしまうから、飢えは人の目を潰してしまうと言える。外は暗さや時間帯も相俟って、想像していたよりも暑くなかった。なおさら部屋から逃げ出してきてよかったと思った。家の前で右側に伸びる緩やかな下り坂を下って突き当たりを右折すれば国道に出る。流石にこの時間帯なので、通る車はごく僅かだった。正面に伸びる横断歩道の対岸に目的地はあった。それでも暗さゆえに横断歩道を渡るには注意が必要だった。速度は出なかったがなるべく急いで渡り、コンビニに入った。立っていなければとうに眠っていたであろう太った男性の店員が覇気のない声でいらっしゃいませと言った。僕は少し迷った挙句、お茶とエナジードリンクを棚から取り出してレジに向かった。途中で弁当があったのでそれも手に取った。レジのすぐ手前に置いてある饅頭がやたら気になったが、なんとか無視して二本の飲み物を買い、財布がだいぶ軽くなったのを少し後悔しながらコンビニを出た。国道を再び横断して元の道を辿ろうとした時、対岸に人影が見えた。それが土をまさぐっているらしいのが特に不気味だった。死体でも埋めてるのかもしれないと冗談みたいなことを考えついて、本当にそうだったらという脳内からの声に人知れず震えた。

「こんばんは」

その声は女性の、というより女の子の声だった。背格好は中学生くらいの、長くてぼさぼさの真っ黒い髪の少女がそこにいた。恐る恐るこんばんはと返事をして過ぎ去ろうとしたが、やはり何をしているのか気になってしまい、何してるの、と声をかけた。少女は笑った。あまりにも生命力を感じない笑みにぞっとしたが、ぱっと見た程度ではあどけない笑顔にしか見えない。少女はこれで毒を作るのだと言った。手にはキノコを持っているのを見て、やっぱり幼いんだと思ってなんとか自分を鎮めることにした。人を殺すための材料を集めてるんだよと言われて胃がどくんと嫌な音を震わせてひっくり返りそうになった。冗談だと自分に言い聞かせるには余りにも冷静さを欠いていた。

「なんで?」

僕の口から辛うじて出た言葉はそれだけだった。掠れていて、少しでも聞き逃せば内容を理解できないような三文字だったが少女には聞こえたらしく、にいっと薄ら笑いを浮かべている。その表情が纏う殺気は他のどの場所よりも濃く、闇夜に溶けて逃げようとしてもすぐに見つけてしまいそうだった。

「いいじゃん、別に。殺したい人くらい誰にでもいるでしょ?」

そう言ってけたけたと笑った。空疎な声だった。僕はまだその表情から目を離せないでいた。他者への残忍さよりも自己への不信感が顔を覗かせたように思えたのだ。

「じゃあね!」

少女はぼうっとする僕の左をすり抜けるように歩き去り、本当に夜に溶けてしまった。起きた出来事を整理できずに立ち竦んでいると、車のヘッドライトが背後で真っ白に散らかって僕の影を道路に刻んだ。僕は慌てて細い道路に飛び乗り、知らないうちにぶつぶつと文句を言って怯え始めていた心臓の音を抑えようと胸に手を当てて深呼吸をした。空気は生ぬるく、嫌でも不快感を忘れることがないようにと身体中にこびりついているらしかった。僕は僕の空腹に耳を傾けながら帰り道を急いだ。


昼過ぎには、雲ひとつない空の向こうから雨がやってくるらしい。私はそんな天気予報がきっと嘘だろうと信じていたかった。外出の予定がある。私のこれからの全てを犠牲にするようなある計画が、私の勉強机の下に隠れていた。それはもう押し殺しようのないもので、脳と心の中で誰に知られるでもなくふつふつと煮えていた。財布はほとんど空だったが、その原因は炭酸飲料だとか風変わりな装飾品だとか、無駄ばかりが積み重なったことだと考えて間違いない。あと一週間も生きていけないような蝉が自らへの哀悼の念を込めて屋外で泣き叫ぶのが聞こえてきた。私が死ぬときには、あれよりも大声が出せるだろうか。自信はない。私には色々と欠落したところがあり、それを自覚していた。しかも、考えても治そうと努力しても、状態は何もよくならない。私の願う明日がどれだけ長持ちするかはさておき、自分の身を諦めるべきかどうかは明日の自分に託すしかない。トリカブト、彼岸花の球根、地味な色の茸などが、机のすぐ横の引き出しの中でかさかさになって、土塗れで眠っている。とりあえず近場で手に入れられるものだ。私はあるクラスメートを殺そうとしている。正当性は微塵もないが、理由なら山ほどある。これから起こる出来事への淡白な慟哭が喉に絡まって、乾いた荒々しい咳が口元で飛び跳ねた。しばらく咳き込んだ後、大きく息をついた。家族は皆で旅行に行っているのでしばらく帰らないはずだ。鼻腔がつんと痛む。開けっ放しにしていた窓を閉ざす。夏はいろんなものを年寄りに変えてしまう。開けっ放しにしておくと、この部屋もまもなく暑さに枯れてしまうだろう。私には実感がない。これから私の毒で人が死んで、私は家で寝転がって漫画を読む。帰り道でなけなしの財産を投じて好きな作家の新作を買おうと決めていた。緊張するからこんなことは考えないと思っていたのに、と我ながら自身の感傷が揺れ動かないのを不思議に思う。純真無垢な嘘つきというやつだ。きっと私は私に何かを隠そうとしているのだろうが、それがなんであるかはどうでもいいことだった。財布を持っているのを確認して階下に降りた。混ぜた粉末は水に溶いて、その溶液を理科の授業でもらったリトマス試験紙にすこしだけ垂らして放っておいたのだ。幸か不幸か、色が変わっている。これなら効果を発揮するはずだった。私は出来上がった毒の粉末をビニール袋に流し込んで約束の時間よりも随分早く家を出た。外の風景は平たくて淡白で、もっと幼い頃先生に描けと言われた風景画みたいだった。奥行きを感じない道の奥にずんずん進んでいくと、気怠げな高校生の集団とすれ違った。俺は夏なんて嫌いだというある一人の意見に全員が賛同していた。私は不機嫌に心を躍らせながら歩く速度を早めた。目的の家にはすぐに着いた。手汗は拭っても拭っても止まらなかった。インターホンを押すと、高くて柔らかい声が聞こえた。彼女の声だった。今行きます、と気抜けした声がプツッという音に変わり、すぐにドアが開いた。さらさらした髪が長くのびて肩甲骨の位置を覆っている。私の髪は長ければ長いほどボサボサになるので、それが心底羨ましかった。私は彼女に勉強を教えてもらうという名目で訪問の機会を得ていたので、勉強のための道具を手提げカバンにしまって持ってきていた。それが重いことでさえ気に食わなかった。

「早かったね!嬉しいけど、びっくりしちゃったよ」

「うん。お昼ご飯をすぐ食べ終わったから早く来たよ」

「そうなんだ。まあ、入ってよ」

お邪魔しまーす、と力の入っていない声を張って靴を脱いで揃える。ここにきて私は緊張し始めた。自分を勇気づけるように心の中で何度も目的を確認していると、彼女はお茶を淹れるために先にリビングに向かった。私は彼女に言われて二階の彼女の部屋に向かう。彼女の部屋は小綺麗で、よく見ると年頃の女の子に相応しいものがそこかしこに見受けられた。何もかもが過ごしやすそうだった。私は部屋の真ん中の足の短い机の前にちょこんと座って彼女を待っていた。彼女はすぐに部屋に入り、机の上にお茶を置いた。しかし筆記用具を下の階に忘れてきたと言ってまた階段を降りていった。私の黒い怨念は爆ぜようとしていた。私は毒薬を取り出して彼女側のお茶に混ぜた。液体の中でくるくる回った粒達は底で溜まっていたお茶っ葉に混ざって見えなくなった。私は自分のお茶を手繰り寄せたものの、飲む気がしなくなって押し戻した。やがて彼女がごめんね、と言って筆記用具を片手に戻ってきた。笑顔が綺麗なのが私の劣等感を幾百倍にも膨れ上がらせたが、私は微笑み返した。私たちは勉強を始めて、すぐに時間が経った。ある一瞬で、彼女がお茶を飲んだ。私ははっとしてその効果を待ったが、彼女は平然としていた。彼女はさりげなく私の手の届く場所に彼女の飲んでいない方のお茶を置いていた。私はそれに口をつけたが、余りにも苦くて咳き込んだ。私が押し戻したお茶は、押し戻したために位置関係を変えて毒入りのお茶よりも彼女に近い位置に入れ替わっていた。

「大丈夫?」

「平気」

ここで難癖をつけさえすれば、優しい彼女は狼狽えて頭を下げ、彼女自身負い目を感じただろうが、なぜか私にはそれができなかった。咳き込みながら思いつき、毒の次に効果がありそうだと見込んだ作戦だったが、できないものはできなかった。勉強会は終わり、帰る時刻になった。いつもなら緊張のために生じる腹痛がなかった代わりに頭ががんがんと唸って揺れた。彼女がありがとうと言うのにも笑って当たり障りない答えを返していたが、本当に自分の想定した通りに答えていたかは分からない。私は電柱が見つかるたびにそこにもたれかかってぜいぜい言いながら立ち止まった。まだ夕暮れは気配を見せずに縮こまっているらしかった。私の目に青い晴れた空は優しくなかった。脳の中が煮沸しているみたいだった。私はもう一度大きく咳をして歩き始めた。

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