白陵

その時俺はまだ十二歳で、全く分別などという言葉を知らない歳だった。友達がいるのと同じに嫌いな同級生がいた。そいつのしつこくて傲慢な部分が常に我慢ならなかったが、実害がなかったので放っておいた。俺に何かされても別に構わないと思っていた。ある日友達がそいつに筆箱を隠されて、返してもらうようにと勇気を出して直談判しに行ったら、うるさい、近寄るなと叩かれた。それをそばで見ていた俺はいよいよ我慢ならずに然るべきタイミングで必ず復讐してやろうと決めた。機会はちょうど一週間後の運動会当日に訪れた。クラスリレーで偶然、そいつが俺にバトンを渡すことになっていた。本番、そいつは予定通りにバトンを渡し、予想外にも俺にバトンで鼻の頭を殴られて鼻血を出した。今思えば、大勢の前でそんなことをされるのは一生の記憶に残るような驚嘆と恥を伴うものになるに違いなく、それゆえにとても残酷なことだ。俺は走り去ったが、もちろん昼休憩の時に担任の先生に呼び出された。そいつの告げ口によるものだった。俺は流石にやりすぎたと思って頭を下げて謝った。なんでそんなことをしたのか聞かれて、友達の筆箱を隠していたのを覚えていたからだと答えると、その件に関しては先生もそいつをやんわり嗜めて友達に謝らせた。結局そいつとはその後は大した会話も交わさなかった。帰ると母親に、バトンパスの時なにかあったのかと聞かれて、二回も説明するのは面倒だと思いながら説明すると、驚きはしたようだがひとまず丸く収まったと聞いてホッとしているようだった。父は話を一通り聞き終えた後、それはけしからんことだと大声で言い放って立ち上がった。今まで俺に全く何も言わず、干渉もしなかった父がやけに腹を立てているのを見て嫌な予感がした。父はそんな悪事を働く奴は許さんと言った。しかし、それは既に解決している上に父は完全に部外者だ。本能的にこれ以上は事を無駄に荒立てるだけだと察して、いいよ、もう解決したんだから、と言うといやいや、こういう輩にははっきり分からせる必要があるのだと言って聞かなかった。俺がますます募らせた嫌な予感は的中して、ついに父は学校に連絡を取り、及び腰の校長先生に対して俺が殴ったそいつを呼び出すように再三言い募った。結局その件は延期に延期を続けて有耶無耶になったが、後でそいつがまた謝りに来た時には謝ることなどない、もう一回蒸し返す俺の親父が悪いんだと説得するのが大変だった。俺はその時から自分の父親のことを親父と呼び始めたらしい。

高校を卒業した後、俺は大学に行きたかったが、俺の努力不足で諦めて就職先を探すことになった。俺はそこから21まで実家で暮らしたが、どんどん耄碌してゆく親父の様子に耐え切れなくなった。朝食を食べていると親父が俺のマグカップを落として割った。それだけならありうることだったが、冗談めかして終わらせようとするその態度に腹が立った。俺の怒りを察知した母はおろおろしていた。親父がへらへらと笑っている。俺は始めて親父に怒鳴った。親父は顔を引き攣らせながらも、まだ虚勢を保つべく笑おうとしていた。俺はそこから言葉が突っ掛かってただ親父を睨んだ。親父の態度が今に始まったことではなかったためにより一層問題だった。俺はその日以降父に何を話しかけられても口を開かなくなった。親父は最初は俺が諦めると思って普段通りに会話しようとしたが、それが叶わないとなると泣き落とすために哀れっぽい声で頼むからこっちを向いて話をしてくれと嘆願し始めた。見え透いた虚構だった。俺はかつて、何度も親父に話をしてくれと言ったが一度も話を聞いてくれはしなかった。いや、正確に言えばただ聞いただけだ。決まりきった答えがあるかのように俺の質問や話題を断定して、二度と疑うことがなかった。親父はそのツケが回ってきたことに気づいていないらしかった。すると今度は怒鳴り始めた。俺の何がそんなに気に食わない、言いたいことがあるなら言えと顔を赤くして詰め寄るののだが、俺にはもう親父に聞いてほしい話などなかった。俺は一人で晩飯を食う場合が増えはじめていた。親父は怒り疲れると、俺を諭そうと穏やかに語りかけてきた。だが、俺たちの間には喧々囂々たる濁流がのたうち回っているのだ。小声で届くことなどあるはずがなかった。ところがこれは泣き落としや怒りよりも遥かに持続した。俺が子どもの時はどんな子だったか、昔はどうだった、今でも大事なことが何かは分かっているはずだ…こんな話が延々続いた。真っ黒な俺の性格が限界に咽び泣くのが克明になりつつあったが、親父と会話することはなかった。結局俺は母と相談の上家を出ることになった。親父は出立前に玄関に立った時にも寂しくなるだとか連絡くらいはくれよとか言っていたが、俺はそこから一切連絡を送ることもなく、住所も教えなかった。とにかくその時は、母に苦労をかけるという申し訳なさでいっぱいだった。

家から出た12年は家にいる3年とほとんど同じような長さに思えた。余りにも色々なことが多過ぎたために時間感覚はすっかりダメになっていた。履歴書のいらない日雇いのバイトをウロウロしたり、人生で初めて彼女ができたり、長く勤めたバイト先が潰れたり、友人の葬儀に参列したり、訳の分からない資格をいくつか取得したりした。24でやっとちゃんとした職に就いた。それからは、毎日同じように過ごしていた。俺は俺が余りにも軽薄で妥協じみたものに対しての妥協を惜しまないことに薄々勘づいてはいたが、生活のためには見て見ぬふりをせざるを得なかった。

そうして、そのままこんな年齢になってようやく俺は帰ることにした。きっかけは二年前に彼女の両親と話したことだった。彼女は俺に随分気を遣いながら自分の家のことを話した。俺が俺の家族のことを彼女に話していたせいだった。俺と彼女が籍を入れるために、彼女の両親に会う必要があった。その時が初対面だった。俺は自分の住まいから車で二時間かけて彼女の実家に向かった。中古の白い黒ずんだ軽自動車で、よくもまあこんなに働くものだと感心するほどの走行距離を誇っていた。途中で渋滞に巻き込まれた時に連絡が来て、彼女は助手席で会話を交わしていた。俺といる時とはまた別種の安心感に包まれているようだった。彼女は微笑みながら、全然気なんて遣わなくてもいいのに、と言った。俺には勿体無いくらいだった。やっとたどり着いた彼女の両親の家は簡素で小ぢんまりしていたが、それ故に品格があった。玄関を跨いで、帰りましたという彼女の声と俺のお邪魔しますという挨拶が重なった。彼女の両親は奥から慌てて出てきた。渋滞してたって言うからもっと遅いのかと思った、と母が言うと、あんまり長い渋滞じゃなかったよと彼女が答えた。俺は気まずくなりながらもおずおずと頭を下げた。彼女の父が、おお、君がそうなんだなと俺に声をかけた。はい、はじめましてと答えるといやいや娘を大事にしてくれてるようでありがたいよとにこやかに言った。居間に迎え入れられてからも話はとんとん拍子に進み、彼女の両親は俺たちの入籍を快諾した。ところで、君の両親はどう思っているのだねと父が言った。俺の父親とはあんまり折り合いが良くないので反応が分かりませんが、母からは既にお祝いの手紙が届いてます、と恐る恐る真実を告げると、彼女の両親はおやという表情になった。そうですか、大変ですねと母が言った。流石にここまで進んだことを止めることができるとは思っていないが、来週俺の両親からも挨拶があると思うと気が重くなった。来てくれるなと願っていた来週はすぐに今日になり、俺の両親と俺は10年ぶりに再開した。親父も母も相応に歳をとっていた。俺はなるべく親父との会話を避け、母とだけ会話するように努めていたが、それがよくなかったのかもしれない。親父は彼女の両親に頭を下げたが、彼女に対していきなり胸が大きいと言い放って、それがさも面白いことであるかのようにけたけたと笑った。彼女と彼女の両親は硬直してしまった。俺の母に思い切り怒られても、冗談じゃないかと笑っていた。それからは必死で母と俺が話を進め、なんとか入籍が決まった。親父は途中から自分だけ除け者になっている空気を敏感に察知して不機嫌になりつつあった。帰り際、彼女の両親に対して俺をなぜ会話に入れないんだ、気遣いが足りないとぶつぶつ言っていた。母親は腰が折れたまま戻らなくなるのではないかという勢いで謝り続けていて、本当に親父を呼ぶべきではなかったと後悔した。俺の両親が去った後、彼女と彼女の両親に頭を下げて謝ると、あれじゃ確かに君とは合わないな、と彼女の父は苦笑いした。彼女はかなり気を遣って俺に大丈夫だと言った。俺がバトンで殴ったあいつが謝る気持ちが痛いほど分かった。この時ようやく、俺はあの親父に対して言わなくてはいけないことが蓄積していたことに気がついた。

俺は33になった。仕事の休みを利用して少しの間だけ帰ることにした。妻はやや不安らしかったが、反対はせずに分かりました、家でゆっくりしておきますと言った。何度も妻のそういう振る舞いに救われたことが思い起こされて、頭の上がらない思いだった。実家の電話番号は変わっておらず、電話にはまず母が出る習慣も変わっていなかった。短く言葉を交わして、俺の方から家に出向くので迎えは要らないと最後に告げて電話を切った。翌朝、最寄りのバス停から市鉄までバスに乗り、市鉄の駅に着いたら電車に乗って終点に辿り着く。いつまでに家に着くかなどの情報を伝えていないせいか、気後れと膠着した足取りが俺と俺の過去を永久に押しとどめようとした。だが俺は結局駅弁を買って新幹線に乗った。どれだけ水を飲んでも喉は乾いたままだった。何に飢えているのかは見当もつかなかった、というよりも見当もつかないふりをしていた。一度腹痛に襲われた以外は快適な旅になった。ようやく目的地に着いた。大きな窓から見える山並みはまだ緑のままで、かつて秋が来る度に浅く枯れた赤や黄色になっていたのが本当だったのか疑わしいほどだった。改札の向こうを見ると、そこに親父がいた。俺の胃がいきなり重くなるのを感じて、のろのろと改札を通過する。親父は笑っているのか悔やんでいるのか分からないような顔をしておかえりと言った。うん、と返事をした。俺と最後に会ってからますます歳をとったのが容姿に現れていた。俺の荷物をちらりと見たが、代わりに持つつもりはなさそうだった。体調は大丈夫か、と聞かれたので、またうん、と返事をした。まだ嫌いなままだった。親父と俺はしばらく黙って駅の入り口まで歩いていった。自動ドアが開くと同時に、すまなかったな、と親父が呟くように言った。俺のせいだったんだろ、家を出たのは。喉が麻縄で締め付けられているような苦しさに突如として襲われ、返事ができなくなった。親父は俺に何も言うなと告げて、分かってる、分かってるんだと一人、口の中で確認していた。俺の話をしているんだとすれば、やっぱり親父は分かってなどいなかった。そして傲慢にも、俺はその状態を拒もうとしていた。現実と齟齬が生じているからと言って告発する気にもならず、実際には何も言葉になどならなかった。俺と親父の間にある無理解の崖はこの12年でより深くなり、それぞれの足元は互いの対岸から遠くなっていた。それに気づいているのは俺だけだった。親父はそれでいいらしかった。気づこうともしないままで、色々な過去を精算したことにしようとしていた。俺は親父に厳しすぎるのかもしれないが、それ以外の親父に対する感情を携えることが苦しかった。許してくれるか、と親父は言った。俺が聞こえなかったふりをして聞き返すと、もう一度許してくれるかと言った。俺は返答に窮した。親父は俺の前を歩き、俺の方を見なかった。俺はいいよ、とだけ言った。親父は俺の方を驚いた表情で見た後、柔らかく顔中の皺をくしゃくしゃにしていった。そうしながら、ありがとうと何回か言った。俺は親父を見ながら、やっぱり許さないと言うべきだったかもしれないと思ったが、その答えを自分の中に用意したところで告げることもできないのは、さっき自分で証明してしまった。親父は俺を大事にしようとしていたが、本当に心の底から許すことなどできるはずがなかった。俺たちはまた歩き始めたが、想いは大きく異なっていた。舌の付け根が苦かった。

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