卒業

春。まだ肌寒い風が横柄に吹き荒れる三月十二日に、僕の高校の卒業式があった。本当に駄目な学校だった。部活動にほとんどだれも参加していない、飲酒喫煙は当たり前の奴らの溜まり場のような高校だった。第二希望の学校を間違えて入ってきた僕は、最初こそ服を破られたり椅子を壊されたり、教科書を焼かれたりしていたものの、それにもすぐに飽きたクラスのみんなとは全く関わることなく青春の三年を棒に振った。授業をまともに聞いているのは僕くらいで、しかもテストもいつも高得点だったので成績表にはいつもいい数字が並んでいた。推薦で大学に合格した後も一応勉強は続けていた。ここには何の思い入れもなかった。その日は例に漏れず一番乗りで教室に入った。正確には、生徒の中では一番乗りだった。黒板に何か文字を書いている担任の先生がいたからだ。小柄な女性の先生で、まだ教師になって一年目の時に僕らのクラスの担任となり、以降ずっと僕のいるクラスを受け持っていた。国語の先生で、ちゃんと聞いてさえいればいい授業をしてくれた。先生が笑顔で一礼した。僕もつられて一礼したが、自分の前髪が長くてくしゃくしゃなので先生の表情をまともに見ることができなかった。先生はびっしりと何か歌詞を書いているらしかったが、音楽や流行に疎い僕にはなじみがなかった。「そんなに書いても読めませんよ」「そうかもね」先生は笑いながら答えてくれた。表情と声で、明らかに涙をこらえているのがわかった。先生の作ったプリントがくしゃくしゃにされて教室のごみ箱に捨てられていたのを思い出した。話を聞いてもらえずにおろおろする先生の姿、それでもきれいな黒板の文字も思い返された。僕の席だけはほかの席よりも整った状態ではあったが、僕の前の持ち主が荒っぽく扱っていた痕跡が残っているのでやはり汚いことに変わりはなかった。そのまま、黒板に文字がどんどん綴られるのをぼうっと眺めていた。空いていた窓から風が入り込み、強い光が一気に差し込んだ。「すいません」僕は深く頭を下げた。先生はこちらを振り向いて驚いていた。その手のチョークは動かない。「三年間お世話になったのに、なにも返しできなくて、本当にすいませんでした」僕の声は小さく、無機的に硬直していた。「え…?」僕はすっと体を起こして先生を見た。先生の周りの時間はしばらく止まった。そして、その顔から勢いよく涙があふれ始めた。「いいのに...。いいのに」先生はふらっと崩れて立てなくなってしまった。「謝ることなんか、な、なにもないのに」僕は駆け寄った。「大丈夫ですか」「大丈夫。急に、涙が…」先生は左手で顔を隠した。前までつけていたはずの、ちっとも似合っていなかったブレスレットがなくなっていた。駄目なことをしてしまった、こんな時に限って不器用で人の気持ちに鈍感だなんて、と僕は僕自身を心底呪った。僕は何も言えないで背中をさすった。「君は、負けちゃだめだよ。私みたいになっちゃだめだよ」触れた背中が震えた。思っていたよりもはるかにその背中は小さかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る