研究発表

なるほど、それならばあなたは目に見えないものは信じないと、そういうことだな。だが考えても見たまえ、それは目に見えるものまでも否定することになるのだ。ここにいる記者諸君にも聞いておいてもらおうか。心とはな、何かの根拠となるに値するものなのだ。実際的のものこそが根拠であるというのは行きすぎた考えだと言えるだろう。この世には客観的な事実などというものは存在しないのだ。例えば数字で全てを表すことができたなら、それは客観的だと言えるのかね?否、それは数学という見地から組み立てた理論にしかならない。落下してゆく物体は空気抵抗によって徐々にその加速度を減じてゆくということは、物理学という学問を学んだ人間の立場から見た場合の正しさでしかないのだ。客観的な事実とは、客観的な主観から見た場合の事実にしかならないのだ。しかし、君たちは今や真実の代弁者であるかのごとくに記事を発行してはまた自らが事実だと思い込んでいる。その程度の認識でここに来ているというなら今すぐに忌々しいその顔を引っ込め給えよ。目に見えるものを信じるということはな、目に見えないものを信じてはいけないことにもならない。基本的に、世間の人間はそれを悪用している。見たことのない神を信じていながら、客観的な証拠を出せと迫る輩などがまさにそうだ。そうして、絶対性などないという唯一の定理からは逃避し続けるのだ。数学とは思考の形状の一つ、自然現象が発現した場合の表示形式の一つなのだ。決して客観的な、絶対的な事実ではない。無知が晒されたくないのなら口を閉ざすことだ。あなたに脳があるというのは、何をもってそう断言できるのだ?あなたは自分で脳というものを見たことがないではないか。目に見えるものを信じるというならば、自分の脳を信用してはならないではないか。自分で自分の眼球も、肺も、心臓も見えないのになぜそれらがあると信じていられるのだね?闇雲に信じないことだ。君たちは手前勝手な確かさを振り回しているに過ぎない。となると、何を信じるのだ?不確かさか?だが、我々は不確かさの器と言って差し支えないのかね?不確かさはな、我々には想像も及ばぬが故にその存在を成すのだ。となると、我々では不確かさを認識できはしないだろう。認識できるものは、我々よりも単純なものでしかない。分かるかね。絶対性は存在しないが、不確かさも存在しないのだ。あるのは狭苦しい相対性だけだ。それが人類に与えられて、どれだけ無為に終わったか、君たちも身をもって知っているはずだ。人類の放つ言葉など、形が変わったとて内容は一万年前から何も変わらない。人類が進化しない以上、それを見る人類も、見られる人類も、新しい見識など手にできるはずがない。諸君らの言う希望、夢、愛、真実、苦痛、悲しみ、絶望。どれひとつとして、確かだったことも不確かだったこともない。なぜなら、それはその感情を抱いた本人にしか分からないことだからだ。人間は群れをなして生活する。ところが、唯一存在する相対的な立場は極めて個人的なものだ。確かなことを証明すれば不確かなことが証明できると信じているのかね?絶対的なことを証明すれば相対的なことが証明できるのかね?そんなはずはないのだ。確かだからと言って不確かさがあるわけではない。絶対的だからと言って相対性があるわけではない。確かさと不確かさは全く別個の事象、性質なのだ。そもそも、確かさも絶対性も存在しないと言う前提の仮定において、それらに必要条件や十分条件が成り立つものか。全く、その程度でここによく来たものだ、話の腰を折らないでくれたまえ。…では引き続き、人間の正体が矛盾であると言う私の説に関して説明したいと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る