潮流

筏に乗っている。もうどこから来てどこへゆくのか、当て所なく彷徨い続ける理由を探すのは止めにしてしまった。ずっと夜だった。上を見上げたところで、全てを柔らかく飲み込むような恐怖をたたえた黒が一杯に広がるだけだ。いつもと変わった風景を僕の目が撮影できる機会は、おそらくとうの昔に遺失してしまったのだろう。食べ物を食べることはできなかった。口にものを入れたが最後、ムカムカして吐き出すのだと、臓器達の条約により決まっている。自分の格好はよく分からなかった。ひょっとしたら何も着ていないかもしれないが、それすらも些細なことだった。僕の胸には神様のマークを象ったネックレスの重心が垂れている。それだけでこの痩せ細った肉体には事足りた。いや、そう思っていたというのが正しい。なぜなら、神様を信じている僕をいつまでも信じていたかったからだ。水までもが黒かった。光が射せばまだ水面は美しかったかもしれない。現実という生き物は、そんなことはありえないと僕の背中を笑い、頭を叩きながらどこかへ消えていく。一人で組み立てた粗末な筏が波に煽られるたびに転覆を恐れて凍りつくような背中は、笑われて当たり前だ。大波を逃れるたびに、閉じこもりたいだけの昔の僕を思い出した。しかし、もう他人を受け入れられるような力は僕には残っていなかった。潮風が皮膚の水分を奪い、かさかさになった肌を撫でるくらいしか、特筆すべき現象は起こっていない。海の生き物たちは大抵がふよふよと漂うだけで、こちらには見向きもしない。僕はひたすら漂う。ある時は純粋な少年の顔で。ある時は疲れ切った老人の顔で。黒い船に驚いたことがある。立派な船だった。鋼鉄の黒い船。随分と高い位置に甲板はあるようで、恐ろしい速度で、すべてを呑むような波を撒き散らして進んでゆく。こちらはよけるのに必死だった。虚ろに揺れる水面下などものともしないように進み、さらに高い位置からぎらついたナイフのような色とりどりの光を拡散していた。クジラやシャチを思い起こさせるその船舶は、瞬く間に横を通過した。運が悪ければ白い泡の手に空気を奪い去られて死んでいたかもしれない。相変わらず夜明けは来そうにない。人工の光が時折水平線の向こうで一時だけ散り、見えなくなるということはあったが、せいぜいそのくらいが限界といったところで、ほかには全く何も見えない。海はあまりに強い潮の匂いと死んだ魚の臭いを運ぶ風にその表面を荒らされている。そしてその余波は、この筏にも容赦なく侵入するのだ。足が濡れているのはいつものことで、体が芯まで冷えるのもよくあることだが、海水の温度は知らない。自分はなにかの共同体ではなかろうかとふと思った。だとしたらいったい何のうちの一つだろうか。あの黒く大きい船はこんな小さい板切れのことなど忘れて、ひたすらに波を分けて前進し続けるだろう。ここまで差が開いているというのに、なぜこんなにも親近感を覚えるのだろうか。実は同じ方角に向かっている、などという奇跡はあり得ないと言い切れるだろうか。その予測は確からしかったがどうにも信じることはできそうにない。いや、信じられないというよりも信じたくないのだ。信じるとは信じたいことで、信じないとは信じたくないということだという事実に目を背け続けるだけで、かろうじて今まで波間を漂流しているのだ。もしそれが暴かれてしまえば、自分からの信すらも失うことになる。少なくとも、そのわずかな可能性を信じていないということだけは本当のようだ。自分の乗る小さな筏は、同じ場所を永遠に回り続けているのではないかという疑問が、脳裏で無数の泡のように浮いては弾け、浮いては弾けを繰り返している。

同じ風景を漠然と流れていると、見覚えのないものが前から次々と流れてきた。黄色い油、人の衣服、ロケット、紙、食べ物…。いったい何が起きてるのかと前方を必死に見ようと目を凝らすが、この暗闇のために少しも分からない。この流れてくるものから察するに、どうやら何人かの人間が落下して海の白い泡となって死んだらしい。ではなぜ落下したのか、と考えた挙句、ようやく出た結論は、落ちざるを得なかったためであるというものだ。しかし、前に進んだのは黒い船のほかにないはずだ。とすると、これだけのものしか流れてこないはずがなく、もっと大勢が前に浮いているに違いない。そこでふと、自分のことが恥ずかしくなりはじめた。自分以外の誰もが、水温を知っているのだ。知らなければ、きっと水面から憤怒の形相を向けられることだろうし、それに耐えられるはずもなかった。しかし、暗く黒い水の恐怖も同時に耐えがたいものだった。波が筏を押し上げるのを黙って感じる。本当なら、もう答えは出ている。飛び込むか否かは確かに問われているが、決定権も確かにあるが、僕はただ服従するだけというのが実際のところであり、お慈悲など乞うことの叶うはずもない。親に自由を与えられ、選択を迫られた時の様子にそっくりだ。背中を押されるようにぎこちなく顔を水面に近づけた。同時に筏が大きく揺れ、頭から海に突っ込んだ。何の備えもないままで手足をバタバタと動かすも、水の圧力と冷たさがあっという間に体の内側に攻め込んでくる。これが間違いだったとも思わないが、正解だったとしてもどうにもならない袋小路だった。明らかに罠だった。潮流は地獄への導き手となって、僕を下に下に押し流していく。僕は失敗したのだ。最後の泡が口から飛び出して、目をゆっくり閉じた。

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