夕景
「お前だろ?」
「え?」
僕は自転車を手で押して下り坂を歩いていた。同じ学校の、知らない人。日暮れの住宅街で、彼は明らかに異質だった。アスファルトがオレンジに浸り始める。
「ニュース見てないのかよ、お前。あれだよ、工場の爆破事故。お前だろ?」
「お前だろ?って言われてもな…違うよ。」
僕は否定する。なぜか電線がいつもの倍くらいの本数に見える。足の感覚がない。知らない人と話すといつもこうなる。口ではなんとでも言えるのに、体がいうことを聞かなくなる。彼は半袖のシャツをだらしなくズボンからはみ出したままで、しかもそれを黙認しており、ゆえに一層悪辣にさえ思えた。最も彼に似合った服装だったので、より性質が悪い。
「おい、聞いてんのかよ。お前だろって」
「違うよ」
彼が何を根拠にそんなことを言ってくるのか分からなかった。理屈が必要ないみたいに思えた。事実は事実であり、影響力を持っていても意思は持っていない。工場の爆破事故だって、事故でしかない。血も涙もないと言われるかもしれないが、それはそれ以上にはなれない。僕が脳内で思考をぐるぐる回す間、彼もまた何か考えているようだった。日差しがとろりと光を垂らし、影を濃く深く、微睡に導くような黒に変えてしまう。なぜか肌寒かった。脇腹を指先でなぞられている時の心地悪さが伴って身震いする。
「なんで僕なの?そもそもあんな大事件が学生の仕業な訳ないよ」
「あんまり誤魔化すなよ」
「誤魔化してないよ…わけが分からないよ。いきなり呼び止められて、お前が犯人だなんて言われても信じられない」
彼の黒い髪は眉毛を完全に隠し、二重の目蓋まで迫っていた。その下から覗く眼光は光の黄色さと白さを完璧に跳ね返し、整った顔立ちが刀のような危険さを帯びている最大の要因だった。見惚れてしまう。彼の言葉には一言ずつに険があった。
「犯人が何忘れてんだよ。忘れたふりか?そうやって逃げてんだろ?…なんとか言えよ。なんとか…」
僕は次第に億劫になってしまいつつあった。今日は帰ってからが忙しいのだ。重大な計画のために入念な下準備を整えなくてはならないというのに、こんなところで立ち止まって夕焼けに侵されるのをじっと待つばかりでいいのだろうか?もしかすると、彼はただ僕で遊んでいるだけかもしれない。だが、どんな憶測も無意味だった。僕は彼のことを何も知らない。有利だとか不利だとか以前の問題だった。僕は彼の掌の上で踊っていたかもしれないが、それも些細なことだ。
「じゃあ僕がどうやってその事故を起こしたっていうのさ」
「バカ言うなよ。自分の口から自分の悪事すらも認められねえってのか?御大層な口ききやがって。」
僕は、この染み付いた蒸し暑い空気が彼の怒りで震え出すのが分かった。だからといって、僕にはやっぱり口の出しようがない。過ぎたことで、しかも僕には不可能だ。視界がさっきから揺れている。これは彼に対しての恐怖心のせいだろうか?それとも空気を混ぜる陽炎のためだろうか?脚が痛くなってきてしまう。ずっと同じ姿勢では疲れる。首筋や生え際には湿る汗の微粒子や水滴が集って、日暮れの坂道が僕に向けるあらゆる白さを弾き返していた。頭の中で、奇妙な音がじりじりと鳴り響いている。
「それで?結局やったのかよ」
「やってないし、そんな聞き方されても答える気にならないよ…」
僕は明らかに不満顔だったはずだ。こうやって長々と話している間にも、時間は過ぎていく。もうここで終わらせなくては。
「…とにかく、僕は帰るよ」
くるりと向きを変えて自転車を押し始める。駆け寄る足音が聞こえた。後頭部に痛みを感じた。彼に殴られたのだと分かったが、僕には最早それすらも興味の対象外だった。彼には確かに理念があって、正義があって、言葉があったけれども、それらは結局、僕には見えない。なんとも虚しいことではあったが、つまりはそういうことでしか無い。思ったよりも痛くなかった。彼はその一回で満足したのか、もしくはこれ以上できないと思ったのか、とにかくそれ以上は殴られることもなく家路についた。
街がやけに静かになっていた。普通だったら子どもが走り回っているはずなのだが、人影もない。僅かにオレンジを受け入れた道路や侵入禁止の標識が何かを知っているように立ち尽くしている。夜に近寄っている夕方の青さが次第に道を支配して、弱々しく街灯の頭を白く光らせた。この暑いのに、住宅街は変わらずにずっと冷淡だった。虫の鳴き声が聞こえる。蝉も鳴いていたが、先ほどよりもその数は少ないようで、途切れ途切れにジリジリと元気に響くのがかえって虚しい。曲がりくねった暗い道を進む。金網は錆びて折れ曲がり、それが何の用も為せないことを表していた。階段を降りる。自転車がいつもよりも重く感じて、持ち上げるのに苦労した。気持ちはいよいよ体を急かし始めた。風がぬるいはずなのに、やけに肌寒く思える。自転車に乗ってペダルを踏む。ぐらり、と重心が前に進む。空気を切って進み続ける僕の乗る鉄の二輪。髪はくしゃくしゃになって、てんでばらばらに、各自が意思を持つかのように蠢く。足はわずかに震えながら、なおも推進力を生み出し続ける。電柱。畦道。一車線の道路。未だに緑色の田園。全部が僕の横を通り過ぎて遥か後ろに消える。知性が掠れそうな速度で、僕は家路を急ぐ。やがて道は複雑にうねり始める。減速したが、気持ちは相変わらず肉体を急かす。例の件を早く片付けなくては。ゆったりと動くギアがもどかしい。降りた方がいいかもしれないと思って、ひょいとサドルから離れる。これは名案だった。予想よりも速く走れそうだ。家は近い。荷物の重さも気にならないほどに先走っていた。ほとんど一瞬と言っていいくらいの間に車庫に駆け込み、自転車のブレーキをかける。勢いはそのままに玄関を開けてリビングに駆け込む。真っ赤に濡れた、いや、最早カラカラになりつつあるフローリングの床に足が触れた。母が倒れている。夜の月光が残酷にも差し込みつつあった。その時、不思議なことではあったが、初めて血の匂いに気がついた。母の手首を触る。脈は既にない。窓ガラスは割れていない。しかし、食器や机の造花はそこらじゅうに滅茶苦茶に散らかっていた。僕はしばらく呆然としていた。そして、計画の失敗に気付いてがくっとうなだれた。
家の周りがゴタゴタとしたまま、その日は登校した。全く何も手につかないままだった。いつもの夕暮れが、やけに暗く感じた。
「よお」
その日初めて声をかけられた。昨日の下り坂、ちょうどこの位置で同じように話してきたあの子だった。僕の自転車が返す光がいつもより嫌に鈍かった。鉄の匂いがした。
「いい加減に認めろよ。お前がやったことだって」
まだ同じことを言っている。こちらはもうすでに参っていた。そんなことは知ったことではないとばかりに、責めるように詰るように口を開く。彼はきっと僕の身に起きたことなど何も興味がないのだ。僕が彼に対して満足のいく答えを示しさえすればそれで彼は立ち去るのだ。そうだとしても、僕は今、誰かと会話したい気分ではなかった。頬の筋肉を動かすのが億劫で仕方なかった。頭が重い石の塊になってしまうような感覚に陥っている。これから、家に帰れば諸々の厄介ごとが待ち受けているので、ここで話している場合でもない。人は僕たちの他に誰もいなかった。それがより一層、僕の心細さを引き立たせて、過敏な神経を苛立たせた。
「もう大体察しがついてんだよ。あとはお前が認めるだけーー」
「ああそうか、分かったよ。認める、認めるよ」
やけに近い言葉を乱暴に吐き出した。自分でも出したことがないような大声だった。目元が滲んだ。足が震えて、喉に何か詰まったみたいに苦しかった。彼がしばらく黙ったあと、口を動かすのが見えた。表情は逆光に遮られて見えない。声だけがはっきりと鮮明に届く。
「俺に言ってくれたら手伝ったのに」
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