ある回想

ああ、その子のことはよく覚えていますよ。少し前のことですが、忘れようもないくらいはっきりと鮮明に、脳に刺青でも入れられたように。きっとこれからも忘れることはないでしょう。なんせ、色々なことを教わりましたからね。

初めて会った時、道端で蹲って泣いてました。ええ、トンネルの出口くらいの、そうですそうです、草が生い茂る私有地の入口の辺りです…小学生くらいの年齢でしたが、ランドセルを背負ってたりはしませんでした。正確なことはよく知らないのです。最初は通り過ぎようとしましたが、なんだか只事ではないような気がしましたので声をかけました。すると、肩をびくっと震わせて恐る恐るこちらを見ました。そしてみるみるうちにその目に涙を溜めていくのです。怖かったのか、安心したのか、それはよく分かりませんが、今度はこちらが慌ててしまって、ああ、大丈夫だから、怪しい者じゃないからと、かえって怪しませるようなことを言ってしまいましてね。こちらが高校の制服を着ていたら怪しまれなかったのにと思いましたよ。しかしそれで段々と少女は落ち着きを取り戻し始めました。どうにか事情を聞くと、まだ声を震わせながらぽつりぽつりと話し始めました。声が微かで聞き取るのに苦労しましたが、要約すると叔父の家に辿り着けずに迷子になっているらしいのです。今日日この年の子どもは危険に晒されがちですから、付いていこうと決めたわけです。歩き出してすぐに気まずくなって、旅行かな、一人でここまで来るなんて偉いねと声をかけると、少女はぽつりとお母さんとお父さん…火事で…焼けちゃったの…と答えました。それだけで十分でした。叔父は両親の代わりで、叔父の家が預け先だったのです。そうか、それは大変だったねとしんみり答えたきり、互いにだまってしまいました。こちらが気恥ずかしくなるほどです。少女はしばらく進んでも暗い表情のままでした。しかも町並みというものにおおよそ不慣れと見え、バスが近くを通っただけでびくりと肩を震わせるのです。人から見た姿かたちも、まるでちっぽけで弱々しいものでした。小さい川に架けられた橋の上で、彼女はもう大丈夫ですと言ってすぐ先の入り組んだ道に入っていきました。後ろ姿が頼りなく見えて、不安を感じずにはいられませんでした。


次にあったのは、確かその一カ月ほど後だったかと思われます。坂道の半端なところにある風情のある喫茶店で、コーヒーをすすっていました。あ、ご尤もな質問でございます。言った通りの場所にそれはあります。確かにその喫茶店は最初に会ったところからは随分遠いところです。なんの関係があるのかと仰いましたが、少女とただ会ったくらいのことだったら話したりしませんよ。不思議な事なのです。ひょっとしたら我々はまだ夢の中かもしれませんね。それはともかくとして、とにかくその時そこにいたわけです。後ろから声をかけられました。綺麗なよく通る、高くなく低くない声でした。最初に会った時とあまりに違ったものですから、不意に声をかけられても誰だか分かりませんでした。不安に震える弱々しい少女の姿はどこにもなく、端整な顔立ちと長い黒髪とこちらを覗く黒い澄んだ目があるばかりでした。この間はありがとうございました、と言われたのですが、勿論キョトンとするばかりです。泣いていた私と一緒に歩いてくれて、そう続けていましたが、思わないでしょう。幼い子供が一月後には高校生になっているなんて。自分でも自分の目が見開かれていくのがわかりました。本当ですか、とようやく喉から捻りだしました。笑顔ではい、と返事をされて妄言でないことがわかった時には頭が真っ白になりました。とりあえず目の前の空席に座ってもらいましたが、やっぱりまだ信じられないのです。彼女はぽつりぽつりと、自分の家の話を始めました。叔父も叔母もとても優しい人で、ちゃんと叱ってもくれるそうです。驚くべきことですが、彼女の時間感覚はカレンダー通りで、彼女の中でだけ時間が早く進んでいるようなこともないとのことでした。周りと同じ一か月です。なのに、その一月で16かそこらに成長している。不思議と同時に少々空恐ろしくなりました。彼女は冷たいコーヒーを注文しました。いつかお礼を言おうと思っていたんです、まさか今日になるとは思いませんでしたが。水には一切手を触れず、彼女はうつむき気味にそう言うのです。それから今度はこちらをしっかり見て、あなたの話も聞かせてくださいと、真っ直ぐに言いました。すこしたじろぎましたが、なんとかどんな話が聞きたいか訪ねたら、あなたの好きな話を聞かせてくださいと返されました。だからない頭を使って無理矢理いろんな話を、それも後から考えたらくだらない話を、沢山沢山話しました。コーヒーが運ばれて話に区切りがつくと、彼女は財布を取り出して代金を机に置き、今日はありがとうございました。また会いましょう。これだけ言って立ち去ってしまいました。しばらくそのコーヒーを啜っていました。少し苦かったのを覚えています。


次に会った時は、坂道の途中のベンチで、どういうわけだかクタクタになって座り込んでいました。木陰で、夏の刺すような日差しをかすかに浴びながらいくつもいくつも溜息をついていました。のろりと顔を上げると、左手から長い黒髪の女性が日傘をさして歩いてくるのです。その途端情けないことに、曲がっていた背中は体裁を取り繕おうと背中をしゃんと伸ばしました。…どうしました?自分の性別…ですか?まあまあ、それは後で話しましょう。この話の本筋には関係ない事ですから。話をもどしまして…年齢は同じくらいでした。ぱっと見ただけなら、普通は無視か会釈くらいでしょうが、先に述べた通り、あまりにも強烈に印象に残っていましたからね。忘れるわけがないのです。すぐに分かってしまいました。少女だと。初めてあった時に道端で泣いていた、この間コーヒーを奢ってもらった、あの人だと。呆然と眺めていると、女性は隣に座りました。傘をたたんでふぅ、と一つ溜息をつき前髪をすっと分けてやおらこちらを向いたのです。お久しぶりですね、と淑やかに、にこやかに笑いかけられて、思わずドキッとしてしまいました。こんなにも綺麗なんて思わなかったし、気づきようもありませんでした。それまで見た美しさと、今日見た美しさとでは、まるで別種のものでした。しかしそういった違いがあったとはいえ、会う度に話しかけられないのは変わりませんでした。もう言葉は交わさないまま、我々はただその場所にいるだけです。しばらくそうしていました。ふと周りを眺めていると、右手から若い女性が歩いてくるのが見えました。登り坂をゆっくりと歩いてきます。とうとう坂を登りきり、ベンチの前で立ち止まりました。隣の女性と二言三言ほど挨拶を交わした後、こちらにも軽く会釈をして、誰もベンチに座っていなかったかのように立ち去って行きました。また溜息をつきそうになったのを、ぐっと飲み込みました。

彼女を見たのはそれで最後です。どうなったのかは分かりませんし、分かりたくありません。この脳は、彼女を美しいものだと捉えていますから、きっと老いた様子を見ることは望まないことでしょう。ですが、美しさというものは、それが素晴らしく完成されているほど早く儚く終わりを迎えるのが世の常です。それを思うと、心臓の絞られるような計り知れない苦しみを覚えます。

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