厭世と霞

その変化は少し前から、いや、思い返せばもっともっと前から、彼が持ち合わせていたものだ。夏の暑さに狂わされてもいない。冬の寒さに怯えたのでもない。それを正常であるとする気持ちが何となくわかってしまうのが、僕には恐ろしく思えた。

高校二年の時、僕らは初めて同じクラスになった。隣の席に彼が座り、気さくに話しかけてきたのがそもそものきっかけで、見る間に仲良くなった。音楽の話ができた。小説の話ができた。僕はゲームの中身が分からなかったが、それでも構わなかった。去年は大して友達ができなかったので、このことはとても嬉しいことだった。

最初の会話から一週間近く経つ時、駅まで一緒に帰り始めた。風はどうも生温く、追い風なのがなお不気味だった。橋まで来て立ち止まり、眼下の浅い川と道路に沿って行儀よく咲いている桜を眺めていた。桜は未完成のパズルのように空所が目立っているかと思えば、幾重にも重なって咲いているものもある。

「あれだけ重なってるとどれがどれだか分かんないな」

目を細め、身を乗り出してじぃっと睨んでいる。背筋が震えていて、爪先で立っているのを見て微笑ましい気持ちになった。だが何を見たのか、表情は一瞬のうちに剥がれ落ちて、顔には何かへの興味を示しているという様子がなくなってしまった。体も普段通り、背筋の伸びたいい姿勢に戻っている。豹変ぶりに驚いて硬直してしまった僕に目もくれず、彼は本来の進行方向を向いた。

「まあいいや、帰ろう」

彼は平たい口調でそう言った。僕は少しキョトンとしたが、その時はさして気に留めずにそうだね、帰ろうかと答えを返し、彼の隣をまた話しながら歩いていった。

彼は自分であまり友達がいないと言っていた。少し人と感覚がズレているから、気の合う人もいないとも語ってくれた。その時の僕からすれば、彼はどう見ても人当たりの良い朗らかな好青年だったので、謙遜が過ぎると冗談半分で笑っていた。人の話を聞く方が好きなようで、自分の話を殆どせず、いつも僕の話を聞いてばかりいた。だから、今となっても僕は彼がどんな人間なのかを正確に測れない。誰に似ていたかも分からない。僕に似ていたかもしれないし、ほかのクラスの誰かに、ひょっとしたら担任に似ていたかもしれない。何であれ、僕が、いや、他の誰であろうが、彼に対して絶対的な評価を下す者は愚か者の謗りを免れないだろう。彼の中に絶対という価値観は存在せず、ものを隔てる境界もなかった。


すっかり遅くなった学校の帰り道。顔の皮にヒビが入ったような痛みに顔を歪め、寒さに震えながらとぼとぼとアスファルトを眺めて歩いていた。流れる店や施設や建物の列をぼんやりと眺めていたら、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「あれ?ここにいたの?」

彼が左手の郵便局からのっそりと姿を現した。持っていた二枚の便箋をねじ込むように赤いポストに入れ、こちらへと駆けてくる。

部活が遅くなったと隣に来た彼に言うと、そっか、もうそんな季節かと返ってきた。季節といえば、と彼は話を続け、こんなに寒いのに雪が降らないと愚痴をこぼした。相槌を打とうとして横を向いたが、ふと正面から迫る違和感を感じてまた前を向く。

大型のトラックが歩道に乗り上げていた。にも関わらず鈍重かつ素早く向かいから僕達の立ち位置まで進んでくる。ぴたっと思考が止まってしまった。咄嗟に飛び退いた。だが彼は動かなかった。頭の裏がひりひりした。身体中がむず痒かった。まるで僕が彼の位置にいるみたいだった。トラックは彼にぶつかる寸前で進路を変え、再び車道に戻った。駆け寄って声をかけようとしたが、僕の感覚が何かに警鐘を鳴らし、途中で言葉を飲み込んでしまった。

髪の毛は風に舞い、制服のズボンにはタイヤに跳ねられた小粒の砂が付着していた。あの至近距離でトラックと合間見えたにも関わらず、彼の目は何も語っていなかった。ただ口端は歪んでいた。笑っていない笑み。人としての一切が欠落した笑み。そして、僕でも時折あんな顔をしていたかもしれないと思わせるような笑み。初めて目にした表情だった。そのまますっとこちらを向いて、残念だったねと言った。僕は理解を超えた出来事があまりにも立て続けに起こったため、頭がぼんやりしていたが、彼はここにいる僕に語りかけているようには見えなかった。僕に話しかけてこそいるが、別の僕に向けたものではないかと直感的に推察した。だが、別の僕とは何なのだろうか。僕はここにいる個体だけで僕の全てだ。それをなぜ疑ったのだろう。彼は言葉を続けていたが、貧血のせいか、脳が麻痺しているせいか、それは途切れ途切れにしか聞こえなかった。…本当に正しいものを見た気がする……もしも僕が………これが生きて…ならば……。

ぽんっと肩を叩かれてはっと我に返った。彼は僕を心配しているようだった。あまりに驚いたからついぼうっとしたんだと言うと、ほっとしたような表情を浮かべた。 さっきの顔が嘘のようだった。帰ろう、と言って目の前の信号を渡りはじめたので、あわてて僕はついて行った。彼の表情は思い出すその度に身震いする。


大学入試の時期になって、僕達の間には自然と距離ができた。勉強に打ち込み、部活動も引退した。そんな中で、彼の噂は時折小耳に挟んだ。しかし、どれも本当らしいものではなかった。勉強の苦労の中で、知識の暴風雨の中で、あの普通でない笑顔も、すぐ消える表情も忘れてしまった。結局何もないまま、僕は大学入試にどうにか合格した。その時はすでに彼の記憶はぼんやりしたものになっていた。

合格発表の次の日、僕は高校の先生に合格を伝えた帰りにかつての通学路を歩いていた。途中の、人が滅多に来ない歩道橋で、柵にもたれかかってぼうっと遠くを眺めている人影が見えた。彼だった。薄い青の薄手のパーカーを着ていた。僕がそこにいるのを知っていたようにこちらを向いた。それをみて僕はいい予感がしなかった。笑っているのは口だけだ。トラックに轢かれかけた時の顔だった。時間との境界がなくなってしまったように見えた。僕はこの春の麗らかな陽気の中に、肌刺す怜悧な空気を感じた。彼は待ってたよと言い、僕はぴたっと歩くのをやめた。桜が咲きかけていた。追い風は生温かった。

「久しぶりだね」

僕は嫌な予感を押し込めるように口から言葉を押し出した。彼はま

だ例の笑顔でニコニコと笑っている。だが、その気味悪さよりも僕

には聞きたいことがあった。

「どうして…」

聞こうとするやいなや、彼は僕に飛びかかってきた。喉元を固くゴ

ツゴツした手で強く締め上げられて、僕はギリギリと歯ぎしりした。

歩道橋の鉄柵に背中が当たる。心臓の鼓動ばかりいやに早くなる。

頭は理性を躊躇いがちに手放そうとしている。彼は荒い息をしなが

ら、苦しいかい、僕もだよと言うと、ぱっと手を放した。崩れ落ち

てむせ返る僕を見下ろしながら彼は呟いた。物事に境目はないんだ

よ。僕は僕と他人が違うだなんて信じられないな。自分の個性?自

分にしかない才能?そんなものは誰でも持ってるんだ。それのどこ

を見るかだけなんだよ。

綺麗な動きだった。鉄柵を飛びこえて向こう側のわずかなとっかか

りに足を引っ掛けた。何をしようとしているのか嫌という程分かっ

ていたが、僕には止められなかった。まだ座ってへたり込んでいた。

足が思うように動かない。手もびりびりする。頭の中でだけ、脳が

動いている音がする。姿がふっと消えたが、下の車道を覗き込む勇

気がなかった。

あれから一年になる。未だに彼のことを思い出す。時々彼が心のど

こかから僕を眺めている気がする。その度に僕は忘れようとする。

だが、彼が僕の記憶に住み着いて僕の過去を占有している以上、区

別のしようがない。一体彼はいつまで僕の記憶の中で生きていなく

てはいけないのだろう?

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