短編集−コバルトの燃え残り

虚言挫折

昆虫

昨日家の前を通り過ぎた狸のような野良猫が、今朝はゴミ袋を漁っていた。そんな有様をぼんやりと眺めながら、嫌がる体を足で前に前にと押していく。睡眠不足のためにまだ頭痛が残って血液中を睡眠欲が駆け巡っている気がする。年老いた老婆とすれ違い、足元の影を引きずって近道へと進む。どうせこんな時間帯では遅刻したに決まっている。しかし、僅かな良心がせめてもの抵抗を続けていたせいで、自分の意思を決まり切った形に収めることも敵わないまま、騒々しい換気扇の音に囲まれた細い道をなんとか進んでいく。

己の全ては誤りで、他の全てが正しいと信じて疑わないまま今日までのすごろくを乗り越えてきた。

不思議と冷静だった。いつもなら萎縮してすごすごと教室に入るのだが、遅刻届を受け取るにしても渡すにしても騎士の石像のように胸を張って相手の目を見た。学生服の内側に入っている入部届を出すのを心待ちにしていたというのが大きかったのかもしれない。

日陰がオレンジに変わる放課後の5時に、部長、入部届けですとくしゃくしゃのそれを差し出したが、見向きもされずに突き返された。君みたいな奴は部活動に必要ないと面と向かって言われた。突き返された入部届けの記入項目に連なる「テニス部」がやけに輝いて、同時にかすかに霞んで見えた。

また持ってきますと返事をしたら無駄だとでも言うように口端に笑みを漂わせてさようならとだけ返された。

大して練習もしていないのだ。顧問は部員と喧嘩して部活に来なくなり、来てもくだらない指示を出すだけで足を引っ張り続けている。それに輪をかけて部員は暇さえあればサボり続け、訳の分からない彼らの遊戯に興じている。僕が疎いだけと言われたらそれまでだが、少なくともそれが全力の部活動よりも有益だとは思わなかった。一度は練習メニューを自分で考えてみんなにもやってもらおうとした。でも受け入れられないまま、いつかやる、いつかやると時間だけが過ぎて今では誰もかれも僕の話なんて忘れている。彼らは楽ができたらそれでよかったのだ。…それが人生を本当に満たすかと言われたら怪しいものではあるが。

帰り道の河川敷にはホームレスが何人かいた。古くなってボロボロのトタン屋根の小屋がくたびれて立ち尽くしていた。錆びた看板の和菓子屋、もう回らない縞々が申し訳なさそうに取り付けられていた床屋、ざらざらした草が伸びきった空き地、人がいないのにガソリンの匂いだけが残る自動車修理所などの建物が点々と、子どもの遊びのように並んでいた。今では真新しい金属の骨組みや工事会社のアイコンが入ったシートが沈みかけの陽に照らされてまばゆい光を放っていた。もうここにホームレスはおらず、骨と皮だけの建物を眺める建設会社の人や警棒を振って交通整備をする警備員のおじさんが元の住人の居場所を占拠していた。あの懐かしい街並みや情けない表情の人は皆どこかに消えていなくなってしまった。時間はいつも僕だけを置いて先の未来を走っていた。和菓子屋の店員には小馬鹿にされたし、床屋はふざけて髪形を注文と変えてしまうし、空き地で帰りたくないと一人で蹲って泣いたりもした。自動車修理所のオーナーが夏に打ち水をしていて、柄杓の水を何度も間違ってかけられた。いいとは言わない。それでももうなにもかも記憶にだけ張り付いてしまう頃に、ここには人類のシンパのように一律な薄ら笑いを浮かべる人間しかいなくなるのだ。そんな表情の人は果たして人なのだろうか?

自分の思考の低劣さに辟易しながらバス停まで辿り着く。ダイヤグラムは先月書き換わってますます本数が減り、代わりにデザインは少しスタイリッシュになっていた。寂しそうなバスが停留所に辿り着き、濁流のような色味に浸かったヘッドライトを瞬かせた。

最後列に座るのが定番で、ありもしない人の目から自分を覆い隠すために俯いて、靴と鞄を交互に眺めていた。どういうわけか頭の奥が痛かった。


勉強机を眺めていると、友達だった中学の知人から連絡が来た。もう金輪際関わらないでほしいと、ただそれだけの短い文面が画面に綴られていた。率直に言って、悔しくもあり、自分の間違いをまざまざと見せつけられて不甲斐なかったとも思い、彼の幸福感に寄り添えなくて申し訳ないと心から後悔した。もう時計は1時を指していた。白い端末をそっと机に置いて充電ケーブルに繋いだ。自分はどこから間違ったのだろうと布団に包まって考えていると、隣から両親の話し声が聞こえてきた。会合で遅れて帰ってきたらしく、声色は疲れていた。それでも楽しそうに話して笑っているようだった。聞いていると涙が出てきた。特に理由はなく、ただの現象として流れ続けているようにも思えた。そのまま眠ってしまったらしく、起きたのは目覚ましのアラーム音が決まって鳴る時刻だった。自分は誰の足元にも及ばないのだと痛感して起き上がった。

制服の胸ポケットをふと見ると、昨日の入部届が慎ましく顔をのぞかせていた。なんとなく取り出して眺めていると、期限が昨日までだと気づいた。それからは時間割を見る気力もなくなった。両親のいない一階が昨日の街並みを思い起こさせた。朝食のトーストと牛乳がまるで鉄と鋳溶かした鉛のように思えた。クラスの中でどころか恐らく僕だけが毎日持ち帰っている教材の詰まった鞄を持ち上げる。非力さからか分からないが、大分苦労して肩に背負った。今日は特に重かった。進路相談の書類が鞄から落ちた。僕には今の自分の足元の方が心配で、それを大して気にもとめずに玄関まで歩いた。

日差しが眩しかった。正面に自分の影が落ちた。きっと僕の進む先にもそれは深く関わっているのだろう。自転車がチリチリとベルを鳴らしながら僕とすれ違った。枯れかけの観葉植物が左の頭上から挨拶している。いつも汚く居候している猫は、今日は見当たらなかった。あんなやつでもいないよりは心の平静が保てただろうに。

遅刻スレスレながらも荒く息をしながら教室までたどり着いた。ここから嫌いな授業が始まると思うと胃に穴があきそうな気分だが、今日は放課後がもっと苦痛だろうというのは容易に想像がついていた。

四限目に胃のあたりから食道にかけて与り知らない違和感を覚えた。普段は腹のあたりにある熱源がじわじわと喉元まで迫り、深い呼吸が難しくなってくる。先生に許可をもらって近くのトイレの個室まで駆け込んだ。跪いてすぐに深呼吸をしようとしたら勢いよく嘔吐してしまった。朝の食事は流れていったが、鉛がのしかかったような感覚からは逃げられなかった。自分の吐瀉物が暗い内奥に吸い込まれていくのを見ても、自分は恐ろしく冷静だった。


足取りは重かった。とりあえず職員室に向かったが、顧問はもう帰ってしまっており、仕方なくテニスコートに向かう。金網の向こうに新しい後輩たちが並んでいた。新部長が話をしている姿を見るだけで胃がムカムカした。制服の下は嫌な汗のおかげでぐしゃぐしゃに疲れ切っており、分厚いブレザーと高すぎる外気温を恨んだ。そっと扉をあけて、音を立てないように歩みをすすめる。そこからは勢いのままに駆け出して部長の顔を全力で殴った。本当に喧嘩が下手だったので威力は分からないが、視線を上げると呆然とした部長の顔が見えた。続けざまにもう一撃、逆の手で殴りつける。なにもかもどうだっていい、入部届けなんてもう知ったこっちゃない、自分の今の表情も、拳が惨めな痛みを帯びているのも、周りの後輩の顔も、コートの端に転がるボールも。

意識はいつしか暗がりに沈み、気がつくと校舎裏に座り込んでいた。体のあちこちがズキズキと軋んで悲鳴を上げている。こうなるまでの記憶はないようで、ちょうど心臓の部分から隙間風が吹いているような気持ちになっていただけだった。

頭は恐ろしいほど冷静だが、腕は髪の毛を掻きむしり、歯はぎりぎり唸っている。

時計はもう下校時刻を示していた。近くに放り出されていた鞄を引っ掴んで立ち上がった。多少よろめきながら校門まで歩き、眼前に落ちた影を暫く眺めていた。自分の虚しさに腹が立って、周りの人に申し訳なく思った。もっとマトモな倫理観を持っていればこんなことにもならなかったはずで、これほどまで道を踏み外していなければ人からも受け入れられたはずだったのに。ぼやけていた現実の輪郭に人間不適合者なんだと思い知らされた気分だった。外の体面だけを大事に守っていただけだった。必死に生きることからもはみ出してしまったらしい。

生きていることへの申し訳なさを感じて呆然と立ち尽くしていたら親から連絡があった。今日も帰りはだいぶ遅くなるとのことだった。こういう場合には12時頃に帰ってくるのがお決まりのパターンだ。帰っても退屈だと思い、膨れて汚い顔のままショッピングモールのゲーセンまで歩くことに決めた。

僕にはたいして生きがいがなかった。正確には、生きがいを見出す努力をしなかった。そもそも僕の抱える問題点の一つとして、自分に社会的価値を認めることができないというものがある。そこから派生する存在意義の不確実さ、道徳心の欠如、継続力の損壊、逃避癖などの全てが自分にとって心地よかった。ゲーセンの入り口は普段なら僕の欠陥を忘れさせてくれるもののはずだった。しかし、生憎冷房が効いていたせいで傷口がひりひりと痛んだ。この世の全ては理由のない原罪のために僕を憎んでいて、ツケを今生で払い続けている。

なんの気力も湧かなかった。何も知らない家族連れがにこにこと楽しそうにそこらを歩いていた。黒いジャケットの中年男性が恨み節を呟きながら横を通り過ぎた。僕は近くの椅子に座って、人々が笑い、泣き、怒り、悲しむのをぼんやりと見ていた。

閉店は9時だった。結局、何もしないで座ったまま魂が抜けたように表情を浮かべず、店員に怒鳴られてもしばらくは動けなかった。

ようやく立ち上がり、聞こえるか聞こえないかくらいの声量で謝って店を出る。まだバスはある。舗装されたばかりのアスファルトの道は曇り空と相まって真っ暗なのに街灯だけが弱々しく明滅していた。腹が痛かった。頭もズキズキして、頭蓋骨が内側から爆ぜそうだった。バスの座席に座るのさえ面倒に思えた。なのに、それ以上に肺が解けたようなドロドロした思いが体の中でも頭の奥でも心の底でも大きくのしかかっていた。それは真っ黒で形を持っておらず、刺すような不安を和らげるかわりに他の一切を先送りにしているようだった。僕は今きっと、それに押し流されて抵抗もできずに果ての果てまで連れ去られ、なんでもないまま死んでいく。僕に見合った末路ではあるが、不本意なものでもあった。


郵便受けに、僕宛の手紙が届いていた。少し不審に思いながらもリビングに持っていった。電気のついていない薄い微かな光の中で封を破き、皺くちゃで嫌な臭いのする黄ばんだコピー用紙に記された文字を読んだ。

縁を切った友人が事故に遭った。

そのまま搬送先の病院で息を引き取ったそうだ。

何の言葉も出なかった。紐が切れてくしゃくしゃになった、僕によく似たマリオネットが脳裏に浮かんだ。いつも学校から帰ってきた時と同じように大きく息を吐いた。涙が出ないのが不思議で、何度も何度も目をこすった。やはり変化が起きることはなかった。傷がまた痛んで下唇がひりひりとしつこく文句を言っていた。なぜだか分からないが、仕方がないので眠ることにして布団に潜り込んだ。

翌朝は不思議と気持ちが楽だった。もう授業さえ終われば帰ることができる。自分が風に煽られた紙飛行機のようにも見えたが、それはそれでいいんだと思った。さすがに今日は吐いたりしなかった。ブレザーは埃まみれだったが気にも留めないほど背中が軽かった。担任には事前に友人の葬儀で休むと伝えておいた。僕の表情に疑問をもった様子ではあったが分かったとだけ言われた。かつての部活の仲間からは一声もかけられないまま校門を通り過ぎる。

母親が連れる子どもたちとすれ違った。とても楽しそうに会話を交わしていた。あの魚はどこからきたの、太陽はなんで明るいの、疲れちゃったよ、もう少しだよ、と。少し友人の親が気になった。一体、子どもの事故死をどう思っているのだろう。なぜ僕を呼んだのかが気にかかった。別に僕でなくても代わりがいたはずだ。交友関係も僕よりきっと広く、いつも周りに人がいた。ぐったりと教室の片隅でうたた寝していた僕にすら話しかけてきた。もう声を聞くことがないと思うと、かえって自分の無力さが疎ましく思えてきた。鋼のような太陽が射していた。

帰ると親になぜ部活を辞めたのかと質問されたが、僕はそれに答えあぐねていた。人に話せることが一つもないということに気がついて分かりやすく狼狽えてしまい、思うように口が動かない。虐められているんじゃないかと心配もされたが、それは問題ないと返事をした。ようやく動き出した口から、あまりにも自分と周りの気持ちに差があったからやめたと言うと、腑に落ちない表情ではあったが、仕方のないことだと言われた。葬儀に出向く時の交通費の話を少しして、自分の部屋へ帰っていく。背中の向こうからおやすみと言われたが、返事が出てこなかった。


喧しく鳴り響く目覚ましを止めて射す日差しに対して不機嫌に唸る。白くボロボロのシャツを脱ぎ捨てて制服を着た。とりあえずは予定通りだった。ひょっとしたら僕に何の感情の変化も起きないのは、こうなることが分かっていたからじゃないかと思うくらいにはダイヤグラムも体内時計も正確だった。バスの中は冷房もついていないのに涼しかった。ふと友人の今の体温と重ね合わせてしまい、快適な車内で人知れず身震いした。僕は一度に年老いたように力なくうなだれたまま目的地に着いた。

信じられないくらい晴れていた。一つも雲などなかった。からりと暑い砂利道を歩き、会場に着く。彼の親は泣いていた。祖父も祖母も、友人も何人か泣き腫らしているようだった。僕が泣けないこととその他生前にかけた迷惑を詫びると、まだ気持ちの整理がつかないだけでしょう、お気になさらず、きっと来てくれて喜んでいますとかえって励まされてしまった。酷く自分の影が小さかった。棺の中の彼の顔を覗き込んだが、彼が何を思って潰えたのかは分からずじまいだった。僕に謝って欲しかったのだろうか。昔やっていたゲームでも遊びたくなったのだろうか。ただ単に驚いたのか。胸に杭が刺さるくらい苦しかったのだろうか。でも僕は、彼に対してどうやっても二度と干渉できない。仮に僕が鳥でも、山でも、家でも、虫でも、それは変わらない。もう何もかもが終わってしまったらしいのだ。ありきたりな話では彼を語れもしなかった。彼には世話になりっぱなしでまだ恩を返せていないとか、もっと生きてるうちに話しておけばよかったとか、僕には白々しくて滑稽に見えた。そしてふと、変わっていくことへの恐怖がふつふつと蘇ってきてしまった。部活は終わった。友達は死んだ。バス停も街並みもゲーセンでの高揚感も、全部僕の知らないうちに立ち消えていた。気づけば僕には支えなどなくなっていた。口角の上がった友人の顔がまざまざと浮かんだ。彼はしたたかな男だった。きっと僕の何もかもにも気づいていたんだろう。そして彼は、僕に僕の空虚さをただ単に思い知らせてやりたかったんだ。

あれだけ晴れていたのにもう空は曇っていた。出棺を見送り、とぼとぼと帰り道を歩く。傘を忘れてしまった。時間までにバスに間に合えば雨の心配はいらないはずなのだが、僕はどうにも急ぐ気にならなかった。帰り道の途中に公園があった。人の少ない通りに面していて、犬の声すら聞こえなかった。その公園もまた隠されているようになりを潜めていた。ベンチに座ってふと足元を見ると、アリの行列が行儀よくぞろぞろと並んで細かい粒を運んでいた。きっと普段もこんな風に、何も変わらずに荷物を運んで巣穴に帰るのだろう。

途端に、頭の中でブツッと音がした。イヤホンを外した時のような音だった。情けないくらいしわくちゃになりながらどろどろと一気に涙を流した。転んだ子どもと何も違わなかった。いつか変わってしまう。いつか終わってしまう。全部なくなる日が来る。虫みたいな僕は、きっと生まれ変わったら本物の虫になる。生まれてすぐ、潰れてしまうような救えない虫になる。こんなに泣いたのは久しぶりなのにまだ泣き止めなかった。どうせなら大声を出して泣きたかった。できることならこんなところで泣きたくなかった。でも、きっと理由があるわけじゃない。不必要に泣く非合理性は、僕をまだ人たらしめている何よりのものだろう。納得できなかった。命の全ては不公平で不条理だ。でも僕にはちょうどよかった。考えることもできなくなり始めた。ベンチに突っ伏して正当な理由もなく肩を震わせた。雨が轟音とともに降り出しても、僕は暫くそこにいた。

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