第10話

 満身創痍の状態となった字木あざなぎは、部室を出た後、ふらふらとした足取りで廊下を歩いていた。もう、今日は小説のことは考えたくなかった。いや、小説のことを考えなければならないのだろうけれども、とにかく一刻も早く家に帰りたかった。字木は一人暮らしをしていたから、学園を出て十分ほど歩けば家に着く。実際、ほとんど学園にいるのと家にいるのでは物理的距離に違いはなかったのだが——それでも、とにかくこの敷地から距離を置きたかった。この空間にいると、嫌なことを考えてしまいそうだった。

 取り返しがつかないことをしてしまったかもしれない——と、字木は考えていた。

 考えてみれば愚かなことだった。小説を書きたいというだけの理由で、それを止められていたからという理由で、こんな学園にまで入学するなんて。否、人の欲求は止められないのだから、それは仕方のないことだ。ここにいることは、何も間違っていない。間違っていたのは——誰なのだろう。字木の両親だろうか。それとも、両親の言いつけを守って律儀に小説を書かず——書こうと思えばいくらでも書けたのに、書こうとせず——妙な自信と、謎の期待を持ち、成功を疑わなかった自分だろうか。

 からこその自信。

 、自分は成功するはずだ——という錯覚。

 愚かしい。愚かしすぎて、吐き気がする。

 否、吐き気すら、もうしない。

「……諦めるのか? 俺は……」

 そう、独白じみた言葉を吐きながら、字木は相変わらず、よろよろと廊下を歩いている。とりあえず、学園を出ようと思った。もう、この空間にいたくない。小説は書けないし、読むのも怖い。どうしたら良いのか。どうすることも出来ない。ただ、今すぐにこの学園を去らなければならないとだけ思う。

 一歩ずつ、一歩ずつ、学園の敷居に向かって歩く。その、——という言葉ですら、もはや字木には重すぎた。。そんな風にして進んでいくことすら、今の自分には出来そうにない。

 右足を出して、左足を出して。

 抱えた鞄を落とさぬように、確かに歩を進める。

 ——?

「うっ」

 と——字木が思案しながら歩いていると、何かにぶつかった。壁——ではない。硬くはなかった。だが、芯のある何かだった。いや、すぐに分かる。人にぶつかったのだ。声が上がったのだから、そうに違いない。字木はすぐに顔を上げ、相手が誰かを確認するよりも前に「ごめんなさい」と謝罪した。

 謝罪して——びっくりした。

 。なんというか、生物的な、本能的な恐怖を一瞬感じた。ぶつかった相手が、。二メートル近いんじゃないか? と、字木は思う。そもそも、百七十五、六センチの字木は、あまり自分よりも大きな人間と出会うことはない。いるにはいるが——大抵の人間は、自分と同じくらいか、それよりも下だ。たまに自分より背の高い人間に出会うと「でかいなぁ」と思うけれど、そういう評価視点の感想が出ないほど、でかい相手にぶつかった。

「む……」

 見下ろされていた。

 長身の女子に。

「ご……ごめんなさい」

 一瞬にして、今の今まで自分が思い悩んでいた小説への苦悩とか、自分の存在意義とか、この学園にまだ居続けるべきなのだろうかといったたぐいの感情はどこかへ消え失せた。些細な悩みなど、生死の前には無意味なのだということが、よく分かった。

 いや——別に、殺されようとしているわけではなかったが。

「むぅ……」

 目の前の長身の女子生徒は——字木が頭部をぶつけたであろう腹部をさすりながら、不服そうな表情をしていた。よく見れば、制服でもない。一応、スカートを穿いてはいるようだったが——上下ともに、ジャージを着ている。真っ赤なジャージだ。長い髪の毛をひとまとめにしていて、ヘアピンを利用して、惜しげもなく額を晒していた。一見すれば——いや、百回見たところで、どこからどう見ても、運動部の期待の星という雰囲気だ。

 だが——

「あ、あの……本当に、ごめんなさい。よそ見をしていました。というか、下を見て歩いていました……ぶつかってしまって、本当にごめんなさい」

 相手が男だろうと女だろうと、同級生だろうと上級生だろうと、この場合はあまり関係がなかった。、というただそれだけの要素で、人間はこうも臆病になるのかと感じた。だって——規格外過ぎる。普通、高校生の女子は、二メートルもない。

 とは言えそんなことを言えば——恐らくは百五十センチ台であろう鏡堂かがみどう先輩は、俺に対してそういう恐怖感を覚えているんじゃないか……と、何故か字木は考えていた。そうか、自分は生きているだけで、背の低い人たちの畏怖いふの対象になっているのかもしれない。逆にこれこそおごりだろう。小説を書いたことのない自分が小説を書いてもいないのにヘコんでいるのも、似たようなことなのではないか。勝手に打ちひしがれて、勝手に弱者だと思い込んで、勝手に嘆いて、悩んで——俺は何様だ? 王様か? と、字木は考える。

 というのも——字木にはもうそれくらいしか、考えることくらいしか、出来ることがなかった。目の前の女子生徒は、腹部をさすりながら不服そうな表情で字木を見ていて、何も言わない。字木は謝りすぎてしまったので、これ以上謝罪のバリエーションもない。かと言って、相手が不満を持っているのに通り過ぎるわけにも行かない。どうしたら良いのか。

「新入生……」

 と、女子生徒は呟いた。ぼそりと、それこそ蚊の鳴くような声で。しかし、身体が大きいせいなのか、それとも至近距離で対面しているせいか、その声はよく響き、字木の鼓膜に届く。

「あ、はい。新入生です」

「もしかして、京子きょうこちゃんの部活?」

 字木の耳には「キョーコチャン」と届いたその言葉を、瞬時には理解出来なかった。だが、どうやら人の名前らしい。人の名前だと理解して、ようやくそれが『早乙女さおとめ京子』を指していることに気付いた。部長だったり、【幸せな貴族ジャック】だったり、〝文学少女ラプラス〟だったり——よく分からない呼び方ばかりされているせいか、瞬間的に下の名前だと判断出来なかった。字木は数秒遅れて、「あ、はい……【第三十八文芸部サンパチ】の者です」と言った。

「やっぱり……」

 どうして分かったんですか? とか、俺の顔写真出回ってるんですか? という質問をしたかったが、相手があまりに規格外の大きさをしているためか、何故か言葉が出なかった。恐らく、野生の獣を前にしたら、人はこうなるのだろう。何か間違ったことをしたら、。だから相手の機嫌を損ねないように慎重になるあまり、硬直してしまう。

「なんで分かったの、みたいな顔……」と、規格外の女子生徒は言う。「なんででしょう?」

 知らないよ。

 だからそれは俺が知りたいんだよ。

 突っ込みたかったが、突っ込めなかった。だが——字木の頭に、一つの可能性が浮かんだ。可能性が浮かんだと言うより、正確には消去法で残された、と言うべきかもしれない。無論、彼女のような規格外の女子生徒の存在を事前に知っていたわけではないけれど——この状況下で出会い頭にぶつかった女子生徒が偶然自分の名前を知っていて、且つ、早乙女京子の名を出すのだとしたら、

「……もしかして、御伽花おとぎばな先輩、ですか」

「ぴんぽん」と、彼女は言った。

 その「ぴんぽん」も、正直怖かった。否、多感な花の女子高生を前にして「怖い」という感想もどうかと字木は思ったが——やっぱり、物理的な体格差はどうしようもない。しかもこの距離で。真正面切って前を向いたら、目の前には先輩の胸があるのだ。普通に生きてて、立った状態でほぼ同い年の女子の胸が目の前にあるという状況に陥ることは、まず有り得ないだろう。

 いや、それにしてもでかすぎる。身長の話だけれど。

「始めまして……二年冬組、御伽花狂李くるり。これからよろしくね」

 そこで御伽花は笑顔を浮かべ、おずおずと手を差し出した。字木はほとんど反射——あるいは防衛本能で、その手を掴んだ。友好的な態度を取っておかなければならない、という畏れによるものだ。その手にしてみても、字木よりでかい。女子にでかい、という言葉を使うのは非常にはばられたが、それにしても、なんとも言えぬ恐怖を感じる大きさだった。字木に経験はないが、恐らく海外のスポーツ選手を間近で見たら、こんな気持ちになるのだろう。別次元の存在だと思っていた人種が、自分と同じフィールドで生きていると思うと、劣等感どころの話ではない。不公平だ、とさえ感じる。

「は、始めまして……」

「でも、部室はこっちじゃないよ?」と、御伽花はゆったりとした動きで首を傾げる。ただ首を傾げているだけなのに、風が起こったような錯覚があった。「今日は、もう部活終わり……?」

「あ、いえ……ちょっと、色々あって、はい、帰ろうかと」

「ふうん」と、御伽花は言って、「やっぱりそれ、やめない?」と言う。

「やめない? と言うと……」

「部室でちゃんと、ご挨拶したいな。それとも、体調不良……?」

「いえ、別に体調不良というわけではないんですが……」

「じゃあ、行こう」

 御伽花の右手に握られたままだった字木の右手は、ほとんど強制的に、御伽花の左手に掴まれる。そして、腕力によって、字木は今来た方角——つまり、【第三十八文芸部サンパチ】の部室へと連れ去られそうになる。拉致らちされる、と言うべきかもしれない。

「いや、あの、御伽花先輩、ちょっと……ちょっと待ってください」

「いやだけど……なに?」

 意外と傲慢ごうまんそうな人だ、と字木は思う。

 否、むしろこの身体で生まれた割には——人の話を聞こうとするだけ、温情の余地がある人なのかもしれない。

「いや、すみません。あの……俺、ちょっと落ち込んでて。自分に才能がないこととか、小説が書けないこととか、小説の難しさに激突して一回微塵みじんになってて。だから、今、こうやって形を保ってるので精一杯って状態なんです。早乙女先輩ともちょっと、言い合いですらないですけど……俺が個人的に気まずい状態になってて。だから、部室には戻りたくないんです」

「なる…………落ち込んでるわけだ」

「そ、そうです。俺、落ち込んでます。だから、離して下さい」

「むぅ……」

 不服そうに呟いて、御伽花は掴んでいた字木の手を——引っ張った。

「だから!」

「それだと、辞めちゃうよ」と、御伽花は歩きながら言う。「他の子みたいに」

「辞めるかもしれませんけど」

 物理的に、腕力的に、字木は御伽花を静止することが出来ない。本当に、いよいよとなったら殴るとか蹴るとか、暴力に訴えなければどうしようもない段階になっていた。手は離れないし、引っ張る力にも抵抗出来ない。こんなにか? 身長差があるというだけで、こんなに人は基礎能力に差が出るのか? という疑惑が生まれる。

「辞めるかもしれませんけど、別にいいじゃないですか。いや、はじめましての先輩にこんなこと言うのもなんですけど、先輩にとっちゃどうでもいいことじゃないですか! 今、今この瞬間に初めて会った後輩が部活を辞めたところで、どうでもいいじゃないですか」

「……有望株だから、連れて帰る」

「ないない」字木はもはや、この怪力女に対して遠慮を失っていた。「小説も書いたことのない俺が、有望株なわけありませんよ。あんな化物だらけの部活で、大して本も読んでなければ、小説も書いたことがない俺が、有望株なわけないじゃないですか」

「でも……字木くん、の子なんでしょう?」

 と、御伽花は言う。

 字木は瞬間、脳が灼けそうになった。

 なんだその言い草は。それじゃあまるで——俺が有名作家の子どもだから、有望株だって言ってるみたいじゃないか——!

「……あれ、違った?」

「——離して下さい」

 字木は廊下を踏みしめ、右腕を大きく振り払う。

 自分自身、ひどく冷めた声が出たな、と思うほどだった。攻撃的で、冷圧的で、およそ部活の先輩に向けて放つような声色ではなかった。

 その成果もあってか、御伽花はずんずんと進めていた歩を止め、字木を振り返る。

 ——だが、御伽花の手は離れないままだった。

「……いや、は、離して下さい」

「……いやだけど……」

「離してよ! なんなんだよ! 怖いよ正直! なんですか! 作家の息子がいれば部活にコネが出来て万々歳みたいな話ですか!?」

「?」

 御伽花は不思議そうに首を傾げ、掴んだままの字木の手をぶんぶんと振る。

「字木くんは、の子で、今まで一度も小説を書いたことがなくて、入学も遅れてて……だから入部条件の緩い【第三十八文芸部サンパチ】に入って、うちのおかしい部員たちを間近で見て、小説を書こうと努力して……それで、京子ちゃんに何か言われて落ち込んでる一年生、で合ってるよね?」

「……! 合ってるけど! 合ってるけどもですよ! だから俺の言ってる通りじゃないんですか? そんなゴミみたいなパーソナリティをしてる勘違い野郎の一年生を、どうしてまた部室に連れてこうとするんですか」

「だって……」御伽花は不満そうに口を尖らせ、「だから、有望株でしょう」と言う。

「だから——」

————

 と————御伽花は言って、友好的な笑みを浮かべる。

 ああ、こいつも狂ってるんだな、と、字木は思った。先輩に対して抱くような感想でもなければ、ましてや誰に対しても、狂ってるなどという評価をすべきではないのだが——それでも字木は思った。

 ああ、狂ってる。

 

 自分のことながら、字木は思う。確かにそうだ。これ以上の逸材はいないだろう。筆が速いわけでもなく、生産性があるわけでもなく、特殊技術があるわけでもなく、むしろ小説なんて書いたことのない人間が——作家の息子にして、一度も小説というものを書いた経験がなく、にも関わらず自分は執筆を熱望していて、舐め腐った構えが一瞬で解かれ、今まさに小説に対して、執筆に対して、絶望した人間が——仮に小説を書いたとしたら。

 そりゃあ、

 面白い面白くないを抜きにして、完成度の高低は無視して、

 どんな叫びが書き上がってくるのか、読んでみたい。

 その人間の残滓ざんしを、その人生の結晶けっしょうを、

 心の叫びを、読んでみたい。

「——あ、はは……なるほど、確かに」と、字木は笑って、全身の力が抜けていくのを感じる。「そうか、俺は……俺はそれを書けばいいのか」

「……わからないけど、読んでみたい。だから、逃がさない」

 言って、御伽花はあろうことか、字木の手を掴んだまま近付くと——字木の腰に手を回して、小脇に抱えた。

「ぐえ」

「まずは一作書いてから。面白くなかったら、辞めてもいいよ」

 御伽花はそんな不吉な——ともすれば不遜な発言をして、字木を小脇に抱えたまま、部室を目指して歩き始めた。

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