第9話

 起承転結、という言葉がある。

 用途や概念としては本来の意味合いとは異なる——つまり、漢詩かんし絶句ぜっくとは無関係の言葉としての〝起承転結〟という言葉ある。

 物語の点があり、それを継する説明があり、物語が一し、最終的に末を迎える。もっとも、その説明には無理がありすぎるし、本来の文章構成としては適していない。現代の物語の構成として最も適しているのは〝三幕構成〟であり、文章を書く上で、小説を書く上で意識すべきなのはこちらだろう。第一幕で『設定』の説明があり、登場人物の説明や、この物語が何をすべき物語なのかを提示する。第二幕で『対立』の説明があり、主人公とされた人物が目的を達成するための障害——あるいは敵の情報が開示される。そして第三幕において『解決』が示される。解決とは言っても、問題が万事解消されている必要はない。あくまでも、『設定』に対する答えが描かれれば良い。

「なんですけれど、配分的には『設定』を二十五パーセント、『対立』を五十パーセント、『解決』に二十五パーセントで書く必要があります。もっとも、それぞれに対してさらに細分化された〝三幕構成〟が必要になりますし、『対立』が物語の半分を占めるとだれてしまいますから——飽きない小説を書こうとした場合、〝起承転結〟を基本概念とした四部構成を考えて、しかし展開としては〝第三幕〟を参考にすべきということです。要するに、第二幕を二分割して、三幕構成を二つ書きます。全部で十二幕。それだと、読者も飽きずに読み進めることが出来るというわけです」

 と——早乙女さおとめからの説明を聞きつつ、字木あざなぎは正直困っていた。本来、メモでも取りながら話を聞くべきだったのだろうが……全く、ついていけていなかった。ノートパソコンに五指を置いたは良いものの、一文字もメモを取れないまま、パソコンではなく自身がフリーズしている。この先輩は、一体、何を言っているんだ……? と、半ばラジオ感覚で説明を聞き流していた。

「はい、ということで要約しますと——三幕構成とは言っても、第二幕が長丁場になると飽きが来ます。なので、感覚的には〝起承転結〟の四部構成として、さらに起承転結の各章に、入れ子のように起承転結を盛り込む。この起承転結には、必ず緩急が必要です。つまり、その波を上手く利用した十六分割の文章を書けば、小説を書き上げることが出来るというわけです。簡単ですね」人差し指を立てながら、嬉しそうに早乙女は言う。「もちろん、プロローグやエピローグを別しすることでより物語に深みが出ることでしょう。これだけ押さえてしまえば、小説を書くことなんて簡単です。あとは文章量の操作で、掌編小説になるか、短編小説になるか、長編小説になるか——変わってくるだけなんです」

「……」

 口を開けたまま、字木は呆然としている。本当に意味が分からなかった。いや、言葉の意味は理解出来たし、なるほどと思う部分も確かに存在していた。物語の基本概念としての〝起承転結〟や〝三幕構成〟が、理解出来なかったわけではない。例えば——魔王を倒すべく勇者が立ち上がり、勇者が魔王城に辿り着いて魔王を倒し、世界に平和が訪れた。そういうことを言っているのだろうということは、なんとなく理解出来た。

 

 

「わかっていますよ。もう、そんな退屈そうな顔をしないでください。私はとてもショックですよ、字木くん」

「あ、いえ……退屈なんてそんな、そんな失礼なこと思ってません。思ってませんが、ただ——」

「ええ、わかります。ですよね。もちろんです。しかしですね字木くん、型破りという言葉があるように、。型を知らない人間が行った突飛な行動は、ただのです。並外れた小説は、書けません。もちろん、私は字木くんの考えを支持します。人とは違った小説を書きたい、特別な存在になりたい、自分だけの物語を残したい——そういう意識があることを、否定しません。ですが、基礎を持たずに構成された物語は、もはや。ですからまずは、基礎をお勉強しましょう」

 字木はまた、似たような感想を抱く。

 早乙女から、小説を書くのに一般的にどれくらいの時間が掛かるのか——と宣言された時と同じような感想を抱く。

「…………」

 

 ——無論、小説の産みの苦しみを字木が全く知らなかったかと言えば、そうではない。むしろ、生まれ育った環境から言えば、この学園においては上位に位置するはずだった。しかし、まさかそこまでとは思っていなかった。ここまで色々考えなければいけないとは。だって——。日本語を理解出来る人間なら、誰だって書けるはずだと思っていた。大変だろう。センスが必要だろう。知識も必要だろう。読者を魅了し、早く次のページをめくりたくなるような、早く次の巻を買いたくなるような、訴求性の高い構成を作る必要があるだろう。

 だけど、でも、だって——ここまでとは思っていなかった。

 

 、と————そう思っていたはずなのに。

 これじゃあまるで……初心者同然じゃないか。

「……字木くん、こういう時、こういう言い方をされるのは、とても辛いであろうことは私もよく分かっています。よく分かっていますが、それでもあえて言いますね。私も、同じような経験をしています」早乙女は笑顔を控え、真面目な表情で字木を諭す。「私も、まあ〝文学少女ラプラス〟などと呼ばれ、生徒のみなさんに評価をいただいていますけれど——どういう小説が面白くて、どういう小説がもっと面白くなる可能性を秘めていて、どういう文章が、理解することは出来ます。しかしながら、では自分で一から完璧な小説を作り上げることが出来るのかと言われたら出来ませんし、そもそも——奇抜で風変わりで型破りな小説以前に、研鑽けんさんのつもりで短編小説を何本も何本も書いて、偶然、出来の良いものが生まれることはあります。その、奇跡的に発生した物語を大切に大切に拾い上げて、あらって、みがいて、いで、かざって……ようやく、〝小説〟というスタートラインに立つことが出来るのです」

 字木は打ちひしがれている。

 昨晩、鏡堂かがみどうによる——〝万年筆オールドスクール〟による執筆風景を目の当たりにし、まるでどこぞの異能力バトルでも思わせるような特殊能力を食らい、自分にそんなに速く小説が書けるのか、と意気消沈していたのだが、それどころじゃない。それどころじゃなかった。

 そもそも、自分は遅れている。

 二ヶ月の遅れを感じさせない——など、馬鹿げた思想だった。大言壮語たいげんそうごも良いとこだ。典型的な馬鹿だ——と、この瞬間、字木はようやく気付いた。いや、考えないようにしていたのだろうか? 誰よりも小説を読んだ気になっていて、誰よりも小説に近しい場所で暮らしていた自分なら、二ヶ月くらいの遅れなどなんとでもなると思っていた。思い込んでいた。しかし、全く違う。

 

 

「……ゲロも出ません」と、字木はようやく言葉を振り絞った。「胃が、痛くなってきました。俺には、小説を書く資格なんてないような気がしてきました……」

「字木くん、今日も元気だね」

 と、まるで意味の分からない言葉を早乙女は言う。

「元気ではないです」

「元気だね、と言われたら、元気なのかも、と思えます」早乙女はまた、柔らかい、軽やかな笑みを浮かべ、人差し指を立てる。「大丈夫ですよ、字木くん。ではここで私からもひとつ質問をします。字木くんがこの学園に入った理由はなんですか?」

「——小説が書きたかったからです」

「なるほど。何故小説を書きたかったのですか? どうしてそんなに、小説が書きたかったのですか?」

「……小説が、書けなかったからですね」と、字木は応える。「うちは……まあ、親にちょっと、止められていて。親が言うには『小説は修羅の道だから』書かない方が良いと。もし書くなら、一生書き続ける覚悟を持って書き始めろと。そんな——今考えれば、そんなに止めるほどのことか? とも思うんですけれども、とにかく止められていて。でも、小説を書いてみたかったから……どうしてもって、親に言って、ここに入りました。実は俺、一般入試じゃないんです」

「それはわかっていますよ」と、早乙女は笑顔でそれを受ける。「では、正直に答えてください。私は否定しませんし、字木くんのことを嫌いにもなりません。だから是非、正直に答えてくださいね。字木くんは——小説を書いて、どうなりたいですか?」

 どうなりたいか。

 その疑問を、抱いたことがなかったと言えば嘘になる。でも、いつも中途半端な結論だけを出して、その回答に向き合っていなかった。小説を書いて、その小説をどうしたいのか。読まれたい、のは当然として——読まれた挙げ句、どうなりたいのか。小説家になりたいのか? もちろん、なりたい。小説家になって——じゃあ、その先はどうなるのか。大金持ちになりたい? 承認欲求を得たい? 自分の名を世に知らしめて、ノーベル文学賞でも取りたい?

「……今、考えています」

「構いませんよ。私は部長ですから、部員の悩みを聞くのは当然の仕事です。もちろん、入部して四日目だというのに、こんなに込み入った話をするとは思っていませんでしたが——ちなみに、フェアではないですから私から先に答えますと、私は将来、図書館に自分の本が並ぶのを見るのが夢です」

 と、早乙女は組んだ指の上に顎を乗せ、遠くを見つめながら言う。

「私には生産性がありませんし、自分の中からいくつもの世界を生み出すことは苦手です。であれば、生涯に一冊でも良いから、後世に残る小説を書くのが夢です。著名な作家になる必要はないんです。読んだ人に、名前を覚えられる必要もない。小説のタイトルだけが燦然さんぜんと輝いて、誰かの記憶に残る。この世の中にいる、誰か一人の特別になりたい。出来れば女の子がいいですね。その女の子が、いつかお母さんになって、女の子を産んで、その子に言うんです。『お母さんは昔この本が大好きだったんだよ』って。そして、その女の子が、図書館でその本に出会って、読んでくれる。そんな風に、誰かの人生に寄り添えるような本を書くのが夢なんです」

 とても立派な夢だ——と、字木は思う。立派で、素敵な夢だ。まるでそれ自体、小説の一節のようですらある。堅実けんじつ堅牢けんろうな、実現性の高い夢だ。かと言って——自分にその夢をなぞることが出来るのかと言えば、そうではない。そうではないことは分かる。まるで、早乙女の読書のようである。。だからと言って、自分の中からその正解を生み出すことは出来ない。正しくないことは分かるのに、正しいことは分からない。いや——違うのか。

「……すみません、俺の中にはまだ、答えがありません」と、字木は絞り出すように言った。「一番面白い小説を書きたいという気概は、あるはずです。比較して、比較して、比較して……その中でも大勢が一番面白いと言ってくれる小説を書きたいという気概があります。売れたいわけじゃない。金持ちになりたいわけじゃない。でも、そうやって一番になった先に何を求めているのか——明確な夢が自分の中にあるかと言えば、まだ、分かりません」

「大丈夫ですよ。そうですねぇ、ならなおさら、基礎からお勉強しましょうか」と、早乙女は軽やかな笑顔を浮かべる。「基礎をお勉強して、目の前にある課題をクリアしましょう。まるで一般的な高校生のようですけれど——明確な目標が決まっていない以上、とにかく勉強をして、テストで良い点を取るべきです。うだうだ無駄に悩んでいるよりは、そうやって小さなことからコツコツと積み重ねて行くべきです」

 そんな前向きな思考が鼻につく——のは、自分勝手な怒りだろう。

 自分の絶望は、自分にしか分からない。字木の中にある苦しみと焦燥しょうそうは——はたから見れば、何を今更、とでも言うようなものでしかない。本当に、、だ。覚悟もなく、ビジョンもなく、夢もなく、ただ小説を書いてみたいという馬鹿げた欲求のために突き進んでここまで来てしまった。何も知らないから、自由でいられた。だが、産みの苦しみを、創作の辛辣しんらつさを知ってしまった今——端的に言って、逃げ出したい。

 書いてみて、辛いと思ったわけでもない。

 書き上げて、酷評を受けたわけでもない。

 。書けるビジョンが見つからない。

 無限に思える選択肢の中、膨大な可能性の中、どんな文章で書き始めれば良いのか——一切合切、分からない。

「——すみません、ありがとうございました。ちょっと、今日のところは、自分自身と対話してみようかと思います」矢継ぎ早に言って、字木は立ち上がり、空白のメモ帳ごとノートパソコンを閉じる。「先輩が言っていた、四行小説についても……試してみようと思います。ですが、すみません、今日は一旦、帰ります」

「さようなら。そうですか、あまり気負わないでくださいね。字木くんの小説を読めるのを、楽しみにしていますからね」

 早乙女は、字木を止めなかった。早乙女自身、分かっているのだ。似ているからこそ、分かる。無知であった読者が書き手に回った瞬間——創作がいかに苦痛であるか。いかに神経を使うものであるか。いかに逃げ出したいことであるのか。何も考えず、優れた小説を読み、好き勝手に感想を言って、——と思い込んでいた方が、いくらか楽だったのだと、思い知る。

 字木はノートパソコンを鞄に押し込み、丁寧な所作で席を立ち、早乙女に向けて一礼をして、静かに引き戸を開ける。その動作の全てに、緊張感があった。ここで乱暴な動きをしてしまわないように——という、余裕のなさが伺えた。余裕がなさすぎて、逆に丁寧になっている。そんな心境に、早乙女は覚えがある。だから茶化さないし、指摘しないし、これ以上、大丈夫だと声を掛けるつもりもない。

 もしかしたら彼はもう戻って来ないかもしれないな、と早乙女は考える。同じようにして、今年入部した新入部員は一人、また一人と消えて行き——今は烏島からしまが残っているだけだった。もちろん、消えて行った一年生はそれぞれ思うところがあったのだろう。全員が全員、字木と同じ悩みを抱えていたわけではない。

 けれどきっと、絶望の深度は似ている。

「……ふう、さて、私は私の物語を進めるか」

 早乙女は息をついて、ノートを開き、シャープペンシルをノックした。

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