第8話
賭場へ行った翌日——
と——理屈では分かっていた。字木は、そう思い込むことにしていた。
だが、物は言い様だ。渾身の一作を、傑作を書いたと思っても、それが箸にも棒にも引っかからないなんてことは往々にして有り得る。長い時間を掛けて、丁寧に丁寧に書き上げた小説が誰にも評価されず、適当に書いた小説が爆発的な人気を博すことだってあるだろう。であれば生産力は強い。
「……はぁ」
学校に通い出すようになって、四日が経った。一応、日中に授業らしい授業はあるが、真面目に授業を聞いている生徒はあまりいない。小説のネタ探しのために、あるいは知識の幅を広げるために、熱心にノートに文字を書いている生徒もいるが——それが勉強をしているのかと言えば、そうとも言い切れない。五十分の授業が昼休みを挟んで五枠あり、午後四時からは放課後だった。放課後になってすぐ、字木は部室に来てノートパソコンを開いていたが、果たしてこのまま書き進めて良いのか——あるいは、書き方を教わる上で、【第三十八文芸部】の部員たちに手解きされることは正しいことなのか——考えあぐねていた。
初心者なら初心者らしく、基礎を学ぶべきかもしれない。
であれば——一般的な書き方をする部活に転部すべきか。
いや、覇権を握ろうとしている自分が、一般的な所から学んでいる場合じゃあないだろう。そんなことなら、初めからこんな突飛な学園に来るはずがない。
色々と、思うところがあった。字木は開いたメモ帳に一文字も書かないまま、呆然としていた。珍しく、放課後になっても、部室には誰も来ていなかった。もっとも、すぐ近くで烏島に打鍵をされては、気が滅入る一方だったかもしれない。書けない人間の隣で、途切れることなく、永遠に書き続ける——〝
「おはようございます。字木くん、今日も元気だね」
知らないうちに、部室の戸が開いていた。やってきたのは——
「おはようございます、早乙女先輩」
「おはようございます。今日は字木くんだけなんですね。執筆、捗ってますか?」
いきなり痛いところを突かれ、字木は「一文字も書けていません」と素直に言った。
「そうですか。産みの苦しみですね。小説の冒頭は、とても大切な部分ですからね。今後の物語を象徴しても良いし、しなくても良いし——しかし人間の記憶が過去を順に忘れて行くと仮定すれば、冒頭の一行目は、物語が終わる瞬間、最も記憶から失われやすい文章ということになります。であれば、忘れられない一行目を書くことは、書き手にとって
早乙女は軽やかに、それこそ羽が宙を舞うように部室を歩き、一番奥にある席に着いた。字木がなんとなく部長席だろうと思っていた席だった。部室の入り口に向いて座る形になっている。早乙女の後ろには本棚に囲われた窓がある。早乙女がそこに座ることで、ようやくこの部室が完成した——とでも言うような似つかわしさがあった。
「——この部活は、雑談をしても良いのでしょうか」
何故か早乙女に恐怖心を抱いている字木は、怯えながら、そんな許可を取るような質問をした。意外と突っ込み体質な烏島、気の良い針屋、人懐っこい
「? もちろんです。楽しくお喋りしましょう?」
「ありがとうございます……いや、早乙女先輩にこんなことを言うと怒られそうな気もするんですが、俺、実は小説を書いたことがなくて」
「わかります」早乙女は深く頷く。「私も実は、人生のうちで、一度たりとも小説を書いたことなんてないのではないか? という気が常々しています。字木くんの気持ち、よーく分かりますよ。そうですよね、名著と呼ばれる、名作と呼ばれる小説を読んで育った私たちは、いつだってあと一歩、先達の文豪たちに手が届かないんですよね」
「ああいえ、そういう上級者がようやっと辿り着くような概念的な話をしているわけではなく……文字だけに文字通り、小説を書いたことがありません。一度もです。予防線を張っておくと、小説を書ききれなかったとか、思い通りに書き終えられなかったとかではなく、正真正銘、正しい意味で、徹頭徹尾、小説を書いたことが一度もないんです」
「そう言えば、そんなことを言っていましたね」何の気なしに言いながら、早乙女は鞄から非常に薄いパソコンを取り出す。MacBookAirを愛用しているようだった。「ですが、小説を一度も書いたことがないことと、小説を書けないことには、何の因果関係もありませんし……率直に言えば、
「そう、ですね。早乙女先輩の仰る通りかと思います」
「誰でも最初は一年生、ですよ、字木くん」早乙女は可憐な笑顔を浮かべ、字木に微笑みかける。「ドキドキするけど、ドーンと行け、です」
「何故ドキドキドン一年生を引用したのかは分かりませんが……いや、先輩の言う通りですね。ただ、自分の執筆スタイルにも悩んでいるという体たらくなんです。
「大変ですね。そうですか、でも、気にすることはありませんよ。紅玉ちゃんも、
「くるりちゃん……あ、
「はい。ああ、まだ会ったことがありませんか? 狂李ちゃんは確かに、あんまり部室に顔を出しませんからね」
「ということは……早乙女先輩は、割と普通、と考えて良いのでしょうか」
「もちろんです。普通も普通、ニュートラルで、プレーンで、オーソドックスで、ノーマルです。なんと! 私はですねぇ、プロットはノートに書くタイプの、古典的文学少女なんですよ?」
自分で言うな、と、字木は胸中で突っ込む。
早乙女は鞄からノートを取り出すと、両手で持ち、字木に表紙を見せる。『プロット帳』と書かれており、隅に小さく『No.103』と書かれていた。どれだけ膨大なプロット帳があるのか——ということがすぐに伺える冊数だった。
しかし、自分で文学少女と名乗られると、もはや勝ち目などないのではないか——と、字木は考える。もちろん、
「授業中などにコツコツとプロットを書き進めて、空いた時間にノートパソコンで小説を書いて、一歩進んでは二歩下がり、読書を挟んでは別の展開を思いつき、している間に当初の予定とは全く違うものが出来上がるんですが、それも小説執筆の醍醐味と言えますよね。もちろん、私が書いた小説は——
「——そう言えば、うちの季刊誌は、早乙女先輩の眼鏡に適わなければ掲載されないんでしたよね。それってつまり、慣例的に、部長が掲載作を決めているってことなんですか?」
「私は眼鏡をしてませんけれど——なんて、冗談ですけれど、うーん、半分合っていますね。いえ、違うんです。部長という言葉の意味するところが狭義で、つまり
「……となると、どういうことですか? だって、今年はまだ、
「ごもっともですね。はい、わかりにくい説明でした。つまり——そうですね、私が一年生の頃、今から二年前のことですが、
「……いや、よく分かりません。一年生の頃から、選定していた? ……その、当時の上級生たちの小説を、掲載に値するか判断していたってことですか?」
「はい、その通りです」
「そんなことが有り得るんですか……?」
「そうですねえ……もともと私は、本を読むのがただ好きなだけの庶民なんですけれども——役職上、【
さらっと、軽やかに、恐ろしいことを言うな——と、字木は恐怖を覚える。やはりこの先輩は食えない先輩だ、とも。
「けれど、それは正しいことだと思うんです。みなさんも納得していましたし、私自身、私の小説に赤を入れたら——
「……大口を叩いておいて、早乙女先輩に小説を読んでもらうのが怖くなってきました」
「ごめんなさい。違うんですよ? 怖がらせるつもりなんて、全くないんです。私はただ……より良い小説を生み出したいだけなんです。だから字木くんも、気兼ねなく書いてくださいね」
書けるわけがあるか——と、字木は思った。そして同時に、自分と同じような境遇にいたであろう、同じ一年生たちのことを気の毒に思った。書き手のほとんどが異能集団であり、書いた作品は丁寧に酷評され、それでどうしてこの部活に
宙ぶらりんなまま、時間だけが経過している。
「……すみません、もう一つだけ、質問してもいいですか」
「もちろんです。なんでしょう? プライベートなことは、もしかしたら答えられないかもしれませんけれど」
と、彼女なりの冗談のつもりなのか、いたずらっぽく笑いながら早乙女は応える。
「いや、昨日ですね、紅玉や鏡堂先輩、針屋先輩もですけど——異常とも言える速度で小説を書くということを知って、意気消沈していたものですから。早乙女先輩も早いんだろうなぁと思って……実際、どれくらい掛かるんですか? 早乙女先輩は」
「どうでしょう……短編小説とか、掌編小説とか、種類によって異なるとは思いますけれども……」
「例えば……昨日話していた基準だと、時速何文字とか」
「わかりません。そんな、時速何文字だなんて、考えたこともないですよ?」と、早乙女は意外にも、一般人らしい反応をした。「プロットとにらめっこして、ここの表現が気に入らないとか、何度も何度も読み返して、最適解を見つけるような書き方ですから。もちろん、早く書ける人たちには憧れますけれど、私は全然、そんなことないんですよ?」
早乙女は困ったように、字木に微笑みかける。内情を知らなければ、うっかり好きになってしまいそうな儚げな笑みだった。もちろん、早乙女京子という人間を多少なりとも知ってしまった字木には、それは恐怖の微笑みにしか見えないのだが。
「そうなんですね。いや……てっきり、この部活の人たちはビックリ小説人間ばかりだと思っていたので。そうですよね、普通、そんなに早く書けませんよね。一ヶ月とか、二ヶ月とか書けて書くものですよね、小説って」
「そうですよぉ」笑いながら、早乙女は言う。「原稿用紙十枚分とかの短編小説なら、私もある程度の期間で書きますけれど、そうですねえ、例えば私が一年生の、丁度今頃に書き始めた長編小説があるんですけれど、
と、早乙女は何でもない風に言って、また平和そうな笑みを浮かべる。
「今も……まだ書いてるんですか?」
「はい! 今、大体、七割くらい書けました。卒業までに書かないと、学園外には持ち出せないですから、早く進めたいんですけどね」
「それは——えっと、ごめんなさい、俺が的外れなことを言っていたら申し訳ないんですけど、長編小説って、普通、そのくらい掛かるんですか?」
「どうでしょう……専業作家の方でも、数ヶ月は掛けるんじゃないでしょうか? とても速筆な作家さんだと、一ヶ月に一冊刊行——なんて例もありますけれど、現実的じゃありませんし。だからそうですね、集中して書いたとして、短く見積もったとしても、三ヶ月くらいは掛かるのが普通だと思いますよ」
「……そう、なんですか」
言われて、字木は、急激に焦りを覚える。
小説を書いたことのない字木だからこその、衝撃だった。だって普通、小説なんて、
じゃあ——そんなの、
それをなんで——烏島は、一ヶ月で、
悪魔だ。
「やばい、ゲロ吐きそうです」
「大変です! わあ、大丈夫ですか? ノートパソコンに掛からないように気を付けてくださいね?」
「——いや、同じ一年生として、というわけでもないんですが、今、烏島紅玉という女の子のことを考えていました。考えていたら、急にゲロりそうになりました」
「紅玉ちゃんは特別ですよぉ」と、早乙女は冗談めかして笑った。「あんなのまともに相手にしてられません。私のような——私たちのような凡人は、地道に、一歩ずつ着実に、書いていくしかないんです」
「気が遠くなってきました。意識も遠のきそうです」
「大丈夫です、安心してください。早く書こうが、遅く書こうが、
「金言ですね」
「もはや現金な発言かもしれませんが、そうでも思わないとやってられません。ですが、そうですね……可愛い後輩である字木くんがそんなに思い詰めているのなら、少しは先輩らしいことを言おうかと思います。着実に一歩ずつと言っておきながら、実を言うと、小説を早く書き上げられるコツというのは存在します」
「そうなんですか。そもそも書いていない俺が聞くのもちゃんちゃらおかしいかもしれませんが、是非お聞かせください」
「もちろんです。ええ、むしろ【
「ごくり」
字木はわざとらしく口に出して言う。
「ズバリ、
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