第8話

 賭場へ行った翌日——字木あざなぎ文也ふみやは相変わらず、【第三十八文芸部サンパチ】に顔を出していた。もはや、自分はここにいるべきではないのではないか、そもそもやっぱり小説を書くという行為に不向きなのではないか——という疑念を抱き始めていた。もちろん、それくらいで折れてしまうような信念であったはずもないのだが——そもそも、針屋ばりやが言うように、打鍵速度が速かろうが、タイピングをし続けられようが、手書きで書けようが——そんなことは、小説の面白さには直結しない。出来上がった小説の評価だけが全てで、それ以外は全て、副次的なものでしかない。

 と——理屈では分かっていた。字木は、そう思い込むことにしていた。

 だが、物は言い様だ。渾身の一作を、傑作を書いたと思っても、それが箸にも棒にも引っかからないなんてことは往々にして有り得る。長い時間を掛けて、丁寧に丁寧に書き上げた小説が誰にも評価されず、適当に書いた小説が爆発的な人気を博すことだってあるだろう。であれば生産力は強い。烏島からしまが一ヶ月の間に、四十編もの小説を書き上げたことは——素直にすごいことだ。とてもじゃないが、真似できない。しようとも思わない。物理的に不可能だと、字木は思う。

「……はぁ」

 学校に通い出すようになって、四日が経った。一応、日中に授業らしい授業はあるが、真面目に授業を聞いている生徒はあまりいない。小説のネタ探しのために、あるいは知識の幅を広げるために、熱心にノートに文字を書いている生徒もいるが——それが勉強をしているのかと言えば、そうとも言い切れない。五十分の授業が昼休みを挟んで五枠あり、午後四時からは放課後だった。放課後になってすぐ、字木は部室に来てノートパソコンを開いていたが、果たしてこのまま書き進めて良いのか——あるいは、書き方を教わる上で、【第三十八文芸部】の部員たちに手解きされることは正しいことなのか——考えあぐねていた。

 初心者なら初心者らしく、基礎を学ぶべきかもしれない。

 であれば——一般的な書き方をする部活に転部すべきか。

 いや、覇権を握ろうとしている自分が、一般的な所から学んでいる場合じゃあないだろう。そんなことなら、初めからこんな突飛な学園に来るはずがない。

 色々と、思うところがあった。字木は開いたメモ帳に一文字も書かないまま、呆然としていた。珍しく、放課後になっても、部室には誰も来ていなかった。もっとも、すぐ近くで烏島に打鍵をされては、気が滅入る一方だったかもしれない。書けない人間の隣で、途切れることなく、永遠に書き続ける——〝自動筆記タイプライター〟とはよく言ったものだと、字木は見ず知らずの名付け親に対して、無言の賞賛を送った。

「おはようございます。字木くん、今日も元気だね」

 知らないうちに、部室の戸が開いていた。やってきたのは——早乙女さおとめ京子きょうこだった。【第三十八文芸部サンパチ】部長にして、【読書倶楽部スーツ・クラブ】の生徒会書記。〝文学少女ラプラス〟と称される彼女のことを、字木はまだほとんど理解していなかった。それ故に、底知れぬ畏怖を抱いていた。

「おはようございます、早乙女先輩」

「おはようございます。今日は字木くんだけなんですね。執筆、捗ってますか?」

 いきなり痛いところを突かれ、字木は「一文字も書けていません」と素直に言った。

「そうですか。産みの苦しみですね。小説の冒頭は、とても大切な部分ですからね。今後の物語を象徴しても良いし、しなくても良いし——しかし人間の記憶が過去を順に忘れて行くと仮定すれば、冒頭の一行目は、物語が終わる瞬間、最も記憶から失われやすい文章ということになります。であれば、忘れられない一行目を書くことは、書き手にとってほまれですよね」

 早乙女は軽やかに、それこそ羽が宙を舞うように部室を歩き、一番奥にある席に着いた。字木がなんとなく部長席だろうと思っていた席だった。部室の入り口に向いて座る形になっている。早乙女の後ろには本棚に囲われた窓がある。早乙女がそこに座ることで、ようやくこの部室が完成した——とでも言うような似つかわしさがあった。

「——この部活は、雑談をしても良いのでしょうか」

 何故か早乙女に恐怖心を抱いている字木は、怯えながら、そんな許可を取るような質問をした。意外と突っ込み体質な烏島、気の良い針屋、人懐っこい鏡堂かがみどうに対し——早乙女は底が知れない雰囲気がある。無論、共有した時間が短すぎるというのもあるだろうが、それだけではない底の知れなさを、字木は早乙女から感じ取っていた。

「? もちろんです。楽しくお喋りしましょう?」

「ありがとうございます……いや、早乙女先輩にこんなことを言うと怒られそうな気もするんですが、俺、実は小説を書いたことがなくて」

「わかります」早乙女は深く頷く。「私も実は、人生のうちで、一度たりとも小説を書いたことなんてないのではないか? という気が常々しています。字木くんの気持ち、よーく分かりますよ。そうですよね、名著と呼ばれる、名作と呼ばれる小説を読んで育った私たちは、いつだってあと一歩、先達の文豪たちに手が届かないんですよね」

「ああいえ、そういう上級者がようやっと辿り着くような概念的な話をしているわけではなく……文字だけに文字通り、小説を書いたことがありません。一度もです。予防線を張っておくと、小説を書ききれなかったとか、思い通りに書き終えられなかったとかではなく、正真正銘、正しい意味で、徹頭徹尾、小説を書いたことが一度もないんです」

「そう言えば、そんなことを言っていましたね」何の気なしに言いながら、早乙女は鞄から非常に薄いパソコンを取り出す。MacBookAirを愛用しているようだった。「ですが、小説を一度も書いたことがないことと、小説を書けないことには、何の因果関係もありませんし……率直に言えば、? という感じですが」

「そう、ですね。早乙女先輩の仰る通りかと思います」

「誰でも最初は一年生、ですよ、字木くん」早乙女は可憐な笑顔を浮かべ、字木に微笑みかける。「ドキドキするけど、ドーンと行け、です」

「何故ドキドキドン一年生を引用したのかは分かりませんが……いや、先輩の言う通りですね。ただ、自分の執筆スタイルにも悩んでいるという体たらくなんです。紅玉ルビィや、鏡堂先輩にもお力添え頂き、世の中にはたくさんの書き方があると知ったんですが——選択肢がありすぎて、そして同時にその選択肢に自分が太刀打ち出来る気もしなくて、にっちもさっちも。右も左も分からなくなり始めていたところです。自分が誰かも危うくなってきました」

「大変ですね。そうですか、でも、気にすることはありませんよ。紅玉ちゃんも、逆影さかげちゃんも、頭おかしいですから」と、早乙女はあっけらかんと言ってのける。「あの人たちはみーんなおかしいですよ。針屋くんも、狂李くるりちゃんも、みんなみんな、おかしいです」

「くるりちゃん……あ、御伽花おとぎばな先輩ですか」

「はい。ああ、まだ会ったことがありませんか? 狂李ちゃんは確かに、あんまり部室に顔を出しませんからね」

「ということは……早乙女先輩は、割と普通、と考えて良いのでしょうか」

「もちろんです。普通も普通、ニュートラルで、プレーンで、オーソドックスで、ノーマルです。なんと! 私はですねぇ、プロットはノートに書くタイプの、古典的文学少女なんですよ?」

 自分で言うな、と、字木は胸中で突っ込む。

 早乙女は鞄からノートを取り出すと、両手で持ち、字木に表紙を見せる。『プロット帳』と書かれており、隅に小さく『No.103』と書かれていた。どれだけ膨大なプロット帳があるのか——ということがすぐに伺える冊数だった。

 しかし、自分で文学少女と名乗られると、もはや勝ち目などないのではないか——と、字木は考える。もちろん、文学少女ぶんがくしょうじょと〝文学少女ラプラス〟ではそもそもの意味合いが違うのだろうが……見た目的にも、雰囲気的にも、立ち居振る舞いからしても、確かに彼女は、文学少女然としている。眼鏡を掛けていないのが惜しいくらいだ。果たして、眼鏡が文学少女の必須条件なのかと言えば、そうではないが。

「授業中などにコツコツとプロットを書き進めて、空いた時間にノートパソコンで小説を書いて、一歩進んでは二歩下がり、読書を挟んでは別の展開を思いつき、している間に当初の予定とは全く違うものが出来上がるんですが、それも小説執筆の醍醐味と言えますよね。もちろん、私が書いた小説は——

「——そう言えば、うちの季刊誌は、早乙女先輩の眼鏡に適わなければ掲載されないんでしたよね。それってつまり、慣例的に、部長が掲載作を決めているってことなんですか?」

「私は眼鏡をしてませんけれど——なんて、冗談ですけれど、うーん、半分合っていますね。いえ、違うんです。部長という言葉の意味するところが狭義で、つまりを指しているのであれば正しいんですけれど、広義の意味で、【第三十八文芸部】の歴代の部長を指しているのであれば、誤りです」

「……となると、どういうことですか? だって、今年はまだ、季刊誌が出ていないですよね。なのに、早乙女先輩の許可が必要と言っていて……で、ここしばらく、季刊誌の発行回数が少ない、とも言っていたような気がしますが」

「ごもっともですね。はい、わかりにくい説明でした。つまり——そうですね、私が一年生の頃、今から二年前のことですが、。部長になる前から」

「……いや、よく分かりません。一年生の頃から、選定していた? ……その、当時の上級生たちの小説を、掲載に値するか判断していたってことですか?」

「はい、その通りです」

「そんなことが有り得るんですか……?」

「そうですねえ……もともと私は、本を読むのがただ好きなだけの庶民なんですけれども——役職上、【幸せな貴族ジャック】ですけれども——小説の良いところ、悪いところ……いえ、悪いところなんてありませんね。直せばもっと良くなるところを挙げるのが得意だったんです。なので、ここがこうなればもっと良いのに、もっと素敵になるのに……そんな風に僭越ながら指摘をしていたら、掲載すべき小説が

 さらっと、軽やかに、恐ろしいことを言うな——と、字木は恐怖を覚える。やはりこの先輩は食えない先輩だ、とも。

「けれど、それは正しいことだと思うんです。みなさんも納得していましたし、私自身、私の小説に赤を入れたら——。その度に直しては、より良い完成度を目指して、日進月歩にっしんげっぽ、精進しています。もちろん、誤字脱字や誤用など、そうした細かい部分は抜きにして、ですよ」

「……大口を叩いておいて、早乙女先輩に小説を読んでもらうのが怖くなってきました」

「ごめんなさい。違うんですよ? 怖がらせるつもりなんて、全くないんです。私はただ……より良い小説を生み出したいだけなんです。だから字木くんも、気兼ねなく書いてくださいね」

 書けるわけがあるか——と、字木は思った。そして同時に、自分と同じような境遇にいたであろう、同じ一年生たちのことを気の毒に思った。書き手のほとんどが異能集団であり、書いた作品は丁寧に酷評され、それでどうしてこの部活にとどまろうと思えるのか、不思議で仕方がなかった。むしろ、烏島はよくここにいられるな、とさえ思う。否、彼女もその異能集団の一人なのだから、当然と言えば当然なのだろう。選択を誤ったと思う自分もいるし、かと言って——このまますごすごと引き下がる気にもなれない。

 宙ぶらりんなまま、時間だけが経過している。

「……すみません、もう一つだけ、質問してもいいですか」

「もちろんです。なんでしょう? プライベートなことは、もしかしたら答えられないかもしれませんけれど」

 と、彼女なりの冗談のつもりなのか、いたずらっぽく笑いながら早乙女は応える。

「いや、昨日ですね、紅玉や鏡堂先輩、針屋先輩もですけど——異常とも言える速度で小説を書くということを知って、意気消沈していたものですから。早乙女先輩も早いんだろうなぁと思って……実際、どれくらい掛かるんですか? 早乙女先輩は」

「どうでしょう……短編小説とか、掌編小説とか、種類によって異なるとは思いますけれども……」

「例えば……昨日話していた基準だと、時速何文字とか」

「わかりません。そんな、時速何文字だなんて、考えたこともないですよ?」と、早乙女は意外にも、一般人らしい反応をした。「プロットとにらめっこして、ここの表現が気に入らないとか、何度も何度も読み返して、最適解を見つけるような書き方ですから。もちろん、早く書ける人たちには憧れますけれど、私は全然、そんなことないんですよ?」

 早乙女は困ったように、字木に微笑みかける。内情を知らなければ、うっかり好きになってしまいそうな儚げな笑みだった。もちろん、早乙女京子という人間を多少なりとも知ってしまった字木には、それは恐怖の微笑みにしか見えないのだが。

「そうなんですね。いや……てっきり、この部活の人たちはビックリ小説人間ばかりだと思っていたので。そうですよね、普通、そんなに早く書けませんよね。一ヶ月とか、二ヶ月とか書けて書くものですよね、小説って」

「そうですよぉ」笑いながら、早乙女は言う。「原稿用紙十枚分とかの短編小説なら、私もある程度の期間で書きますけれど、そうですねえ、例えば私が一年生の、丁度今頃に書き始めた長編小説があるんですけれど、

 と、早乙女は何でもない風に言って、また平和そうな笑みを浮かべる。

「今も……まだ書いてるんですか?」

「はい! 今、大体、七割くらい書けました。卒業までに書かないと、学園外には持ち出せないですから、早く進めたいんですけどね」

「それは——えっと、ごめんなさい、俺が的外れなことを言っていたら申し訳ないんですけど、長編小説って、普通、そのくらい掛かるんですか?」

「どうでしょう……専業作家の方でも、数ヶ月は掛けるんじゃないでしょうか? とても速筆な作家さんだと、一ヶ月に一冊刊行——なんて例もありますけれど、現実的じゃありませんし。だからそうですね、集中して書いたとして、短く見積もったとしても、三ヶ月くらいは掛かるのが普通だと思いますよ」

「……そう、なんですか」

 言われて、字木は、急激に焦りを覚える。

 

 小説を書いたことのない字木だからこその、衝撃だった。だって普通、小説なんて、。普通サイズの文庫本なら、数時間で読み終えられる。それを、まさか、三ヶ月も掛けて書いているのか? しかも、短く見積もって——三ヶ月。

 じゃあ——そんなの、

 それをなんで——烏島は、一ヶ月で、? しかも、短編小説三十本も同時に書き上げているなんて——それは、それは……。

 化物バケモノどころじゃない。

 悪魔だ。

「やばい、ゲロ吐きそうです」

「大変です! わあ、大丈夫ですか? ノートパソコンに掛からないように気を付けてくださいね?」

「——いや、同じ一年生として、というわけでもないんですが、今、烏島紅玉という女の子のことを考えていました。考えていたら、急にゲロりそうになりました」

「紅玉ちゃんは特別ですよぉ」と、早乙女は冗談めかして笑った。「あんなのまともに相手にしてられません。私のような——私たちのような凡人は、地道に、一歩ずつ着実に、書いていくしかないんです」

「気が遠くなってきました。意識も遠のきそうです」

「大丈夫です、安心してください。早く書こうが、遅く書こうが、。私はそのことをゆめゆめ忘れぬために、同じ悩みを抱えるみなさんに言っているんです。千里の道も一歩からであると」

「金言ですね」

「もはや現金な発言かもしれませんが、そうでも思わないとやってられません。ですが、そうですね……可愛い後輩である字木くんがそんなに思い詰めているのなら、少しは先輩らしいことを言おうかと思います。着実に一歩ずつと言っておきながら、実を言うと、小説を早く書き上げられるコツというのは存在します」

「そうなんですか。そもそも書いていない俺が聞くのもちゃんちゃらおかしいかもしれませんが、是非お聞かせください」

「もちろんです。ええ、むしろ【第三十八文芸部サンパチ】において、一般的な小説の手解きが出来るのは私しかいないと自負していますから、特別に教えてあげましょう。小説を書き上げるコツは、とても簡単です。そのコツとは……」

「ごくり」

 字木はわざとらしく口に出して言う。

「ズバリ、

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