第7話

「————で、なんで字木あざなぎ一年は意気消沈してんの」

 午後十時。普通の高校生なら帰宅していなければならない時刻だったが——双法院そうほういん学園には下校時刻という概念がなかった。そもそもにして、全国から生徒が集うのが当たり前の学園である。大半の生徒は近くで一人暮らしをするか、学園が斡旋あっせんする集合住宅で暮らしていた。加えて、という校風から、筆が乗っている時は徹夜してでも書き上げるというのが当たり前になっている。そうした事情から、午後十時を回っても、校内には当然のように生徒がうろついていた。

 三年生の針屋ばりやが部室にやって来たのは、彼も学園内で小説関連の活動を行い、そろそろ帰って一眠りするか、というタイミングだった。部室には特に用事はなかったが、もしかすると誰かがまだ執筆活動をしているかもしれない——と、そんな思いつきで立ち寄ったに過ぎなかった。彼自身無意識下で、自分の所属する部活動に愛着を持っているのだろう。

 一人いれば御の字、と思っていたが、予想に反して、部室には字木、烏島からしま鏡堂かがみどうの三人がいた。珍しい——というか、初めての組み合わせだったので、項垂れる字木を尻目に、烏島と鏡堂から、放課後は賭場カジノにいたこと、字木と鏡堂の面通しが済んだこと、現在は字木の執筆スタイルを模索していることを、一通り聞き終えたところだった。

天傘あまがさ先輩と鏡堂かがみどう先輩にやられて、ついでに私にもやられたところです」

「いやいや、いやいや……話が分からんて。何をやられたんだよ。可愛い女子に面食らったってこと?」

「セクハラですね」

「すみませんでした」針屋がすぐに言う。「あーでも、なるほど? か」

「なんですかその分類は」

「要は——執筆スタイルを模索して色々見繕みつくろって、さあ自分も試してみようと思ったものの……紅玉ルビィの〝自動筆記タイプライター〟で、逆影さかげは実際やるととてもじゃないけど真似できない〝万年筆オールドスクール〟で……天傘に至ってはあれ、人類が関与しちゃいけない領域だろ」

「だねぇ」と、鏡堂が賛同した。「まあでも、天傘ちゃんの書き方? 喋り方? を見て、ぎっちゃんの中に疑念が生まれたのはそうだと思うから〜……物理的な、感覚的な違いを思い知らされたっていう点では、良い経験だったかもねぇ」

「……」

 字木はノートパソコンを前にした状態で、額を机に置き、突っ伏していた。寝ているわけではないが、反応はない。正真正銘、意気消沈だった。意志消滅、と言い換えても、この場合は大差ないかもしれない。

「実際書くまで、こいつらがどれほどの化物かっていうのは案外伝わらないだろうからなぁ。むしろ——字木一年が今まで平静さを保って紅玉たちと会話出来ていたのが異常だったんだろうな」と、針屋は愉快そうに笑い、鏡堂が座るソファにゆっくりと腰掛ける。「まあでも落ち込むなよ、字木一年。おかしいのはこいつらだ」

「失礼ですね」と烏島が不満の声を上げる。「おかしくはないですよ。

「普通はないんだよ。普通の人間には出来ないんだ。よどみなく、途切れることなく、、なんて芸当が出来る人間は本当に一握りだ。それが偶然、紅玉であり、鏡堂であり、天傘だっただけだ」

「しかしですね!」

 死体のように動かなかった字木が、突然顔を上げて叫ぶ。

「うわびっくりしたぁ」烏島が仰け反る。。「急に生き返った」

「確かに、自分でやってみるまでもなくこれは無理だと思いましたが——。多分、俺は慣れていないだけで、訓練すれば同等の技術を身に付けられると考えています。しかし、しかしですね、これはどうやら数ヶ月で習得出来るものじゃなさそうだと思って、策を練っていたわけです」

「諦めろ、字木一年。こいつらはお前と同じ人間じゃない」

「失礼ですね」

「ひどいよぉ針屋っち〜」ソファの上で毛玉のように丸くなっている鏡堂は、小さな抵抗の拳を針屋に突き立てる。「まるで異端者みたいな扱いしてぇ」

「それこそ——早乙女さおとめだって似たようなもんだぜ? っていうのはつまり、状態に近しい。〝文学少女ラプラス〟の二つ名は伊達じゃないからなぁ。考える必要なんてない。意識を割く必要なんてない。一つの文字を書いたら、そこから繋がる文字が自動的に見えていて、それを辿っているだけなんだ。まあ、言葉にすると簡単そうに聞こえるが——普通、。だからこいつらは普通じゃないんだ」

「抗議しまぁす」と、鏡堂が言う。「私はプレーンな物書きだもんねぇ。原稿用紙に、万年筆。物書きの具現化みたいな存在だもんねぇ」

「はは……笑わせる。一体、いつの時代に存在したんだよ。作家なんて」

「やっぱりおかしいですよね!?」と、字木は再び声を荒げる。「普通じゃないんですよね? いいんですよね、それで。やっぱり、紅玉と鏡堂先輩は、普通じゃないんですよね?」

「ああ、胸を張れ。こいつらは普通じゃない」

「怒る気も失せてきました」烏島は言いながら、しかし一際大きな音を立てて、エンターキーを叩く。「鏡堂先輩、もっと針屋先輩にパンチしてください」

「えいえい」

「一昨日はまるで早乙女の眼鏡に適わなかったから一年が全員辞めた——ような言い方をした気がするが、これで分かっただろう。【第三十八文芸部サンパチ】が入部条件に小説投稿を課していないのも、来る者拒まず去る者追わずという部風なのも——ひとえに、。普通の精神で、小説家を夢見て真面目に小説を書いているような連中は、ここで自尊心セルフリスペクト存在証明アイデンティティをバッキバキに折られて、いなくなる。だがそれが普通だ。だから字木一年——別にいいんだ。気にするな」

 針屋は薄ら笑いを浮かべながら、字木に向けて言う。

「ぐっ——」

「今度はパワハラですね」烏島が言う。「でも実際、私は文也ふみやに偏見も持たないし、特別視もしないから——辞めたところで、なんとも思わない。他の一年も、そうやって辞めていったし。文也ほど自分に自信があったわけではなさそうだったけど、それでも多少なりとも、自分の才能を信用していたよ。だから別に、恥ずかしいことでもないし、自分を卑下する必要なんてない。将来のことを考えれば、ここで無駄に精神的ダメージを負う必要なんてない」

「えぇ〜……ぎっちゃんいなくなるの寂しいなぁ。男の子少ないんだもん。ねぇ針屋っち。針屋っちも、男の子の後輩いた方が嬉しいんじゃなぁい? ねぇ?」

「んまー……別に仲良し小好しの部活ってわけじゃないからな、そこんとこはどっちでもいいんだが——確かに紅玉の言うことも一理ある。普通に小説を書いて、普通に読まれて、普通に作家を目指すんだったら——絶対にそっちの方が良い。普通の悩みを抱えて、普通に意見を交換して、普通な執筆活動を送るなら、普通の部活に転部した方が、明らかに得だ。そういう普通の活動が出来ないから——【第三十八文芸部サンパチ】は存在している。紅玉と鏡堂の仲の良さを見れば分かるだろ? 、仲が良いんだ。早乙女だってそうだ。等速リアルタイムで物語をつむぐ芸当を共感出来る人間は、限られている」

「ぐ、ぐう……」

「ぐうの音が出てる」一定のリズムを崩さないまま小説を書きつつ、烏島は鋭い突っ込みを入れる。「ちなみにまだ会えてないけど、もう一人の部員——鏡堂先輩と同じ二年生の御伽花おとぎばな先輩も、どちらかと言えばそういうタイプの人です。針屋先輩風に言うなら、特殊技能集団の一員ですね」

「御伽花先輩……その人も、二つ名とやらが付いているのか」

「まあ、二つ名というか、あだ名というか……御伽花先輩は〝校閲ルール〟と呼ばれてるけど、趣旨としては、私たちとは違うかな。というか、私にしてみると、御伽花先輩みたいな人の方が、おかしいと思うけど」

「ぎばぎばはねぇ……おかしいよねぇ。私は絶対無理ぃ」

「何者なんだ、この二人がおかしいって言うなんて——!」

「ま、このままここに残るも良し、残った挙げ句やっぱり無理って思うのも良し。お前の人生だ、好きにしろよ字木一年」言って、針屋は立ち上がり、腕時計を見る。「さて、俺はそろそろ帰る。別に部室には戸締まりの習慣もないし、早く帰れというつもりもないが……健康的な執筆習慣は健康的な肉体に宿る、と俺の先輩は言っていた。俺はその先輩の金言きんげんに習って、帰って寝るよ」

「はい、お疲れ様でした」

「おやすみぃ針屋っち。また明日ねぇ。明日来るか分かんないけどぉ」

「——いや、ちょっと待ってください」

 ほとんど体調不良に近い状態であった字木は、力を振り絞り、帰ろうとする針屋を引き留める。帰宅をとがめられた針屋だったが、不快そうな素振りは見せず、「ん?」と、立ったままの状態で応じる。

「早乙女先輩、紅玉、鏡堂先輩、御伽花先輩——分かりました、俺が普通か劣っているとした場合、どこか特殊な人たちがここに集まっていることはよく分かりました」

「私は普通だって言ってるんだけど」

「私もぉ」

「ややこしいので静かにしていてください。まあについては一考するとしても——全校生徒から認識されるほどの集団の集まりにおいて、まるでそれをおかしいことのように言っている針屋先輩こそ——おかしいんじゃないんですか? そうじゃなければ、この部活で平然としていられるのは、おかしいんじゃないですか」

 字木の発言に一番に反応したのは烏島だった。「確かに、針屋先輩もおかしいですね」と、今気付いたと言わんばかりの様子だった。

「おかしいか? ……いや、普通だろ」

「どうかなぁ。針屋っち、普通って言えば、普通? ——普通だけど、普通じゃない、みたいなぁ? うーぅん、どうだろ。普通って何?」

「失礼しました。普通の定義はさておくとして——少なくとも、入ったばかりの一年生がすぐに辞めていくような部において、三年生でまだ在籍している針屋先輩にも、どこかしら人と異なる部分があると推測しました」

「まー……言われてみれば確かに? あんま考えたことなかったな」

「でも確かにそうですよね。針屋先輩、執筆スタイルこそ、外部モニタと外部キーボードを使っていて、超一般的ですし、むしろ模範的とさえ言える環境ですけれど——そうですね、一目置かれてますもんね」

「一目って言うか、単に速いだけだろ俺は。生産性で言ったらどう考えてもお前らの方がおかしい」

「速い——って言うのは、つまり、書くのが速い、ですか?」

「んー、まあ、速い……これ褒められることか?」と、針屋は往生際が悪そうな物言いをする。「去年の初めくらいに、賭場で小遣い稼ぎしてるうちに、まあ、あだ名というか、うーん……確かに変な認識はされたかもな」

「針屋先輩って自分のことになると途端に気弱ですよね」と、烏島が突っ込む。

「針屋っちのそういうところ、かわいいよねぇ。いやつめぇ」

「なんて呼ばれてるんですか?」

「お前なあ、字木一年。そういう恥ずかしいことを、恥ずかしげもなく聞くもんじゃないぞ。ピュアッピュアな視線を俺に向けるな」

「針屋先輩は〝踊る五指クイック・シルバー〟って呼ばれてるね」烏島が応じた。「私も今まで、針屋先輩って書くの速いなぁとは思ってたけど——そうだね、普通に考えると、十分異常かも」

「お前らには言われたくないんだよ」

「なんですかその〝踊る五指クイック・シルバー〟っていうのは。水銀? ですか?」

「いや……自分で説明するのも恥ずかしいが、まあ俺が付けたわけじゃないし——まあ単に、ってだけの意味だ。マーベルコミックスにそういうキャラクターがいるだろ? いるんだよ。で、速いんだよ。単にそれだけの理由だよ。俺はだから——別に、ただ、打鍵が速いだけなんだよ。紅玉みたいに書き続けられるわけじゃないし、逆影みたいに並列して書けるわけじゃない。特殊技能なわけじゃない。ただ——

「ということは、恐らく全人類の中で一番速いですね」

「でも別に、どうでもいいだろ、速さなんて。小説の完成度には関係ないんだし」

「それは私もそうですが」

「そうだそうだぁ」

「……すみませんでした」と、針屋は深々と頭を下げる。「生意気なことを言ってしまいました。許してください」

「——すみません、俺はあんまり、その、速さとか文字数とか——そういうことがよく分からないんですが……どれくらい速いんですか? 感覚値だけでも、教えてください」

「えらく食い下がるな」

「自分がここにいて良いのか分からなくなっているので、針屋先輩が普通であることを祈ってるんです、俺は」

「そういう意味だと——」烏島が引き継ぐ。「今日、賭場で二戦目に見た試合。タブレット使いとノートパソコン使いがいたけど、三十分で〝三題噺〟を書いて——一方は千文字、もう一方は千三百文字くらい、だったかな。それでも割と、って言えるけど——ううん、この場合はじゃなくて、かな。三十分で千文字程度の物語をきちんと完結させられるという技術は、純粋に。私もその部類で、完成までが」烏島は相変わらずタイピングを続けながら喋っている。「今も私は小説を書いてるけど——例えば私の場合、淀みなく文字を書き続けているから、三十分で千文字くらいは余裕で書ける。もちろん、誤字脱字もあるし、変換の手間なんかも掛かるから、絶えず手を動かしている割には——多分、三十分で、六千字くらいかな? つまり、十分間に二千文字。一分間に二百文字くらい書けてる計算になる。あくまでも、日本語の文字数としてカウントした場合ね」

「そう聞くと——紅玉がおかしい気がしてくる」

「でも、私は別に。一定のリズムで書き続けるから、秒速、分速、時速って考えると、結果的に早く見える。でも、私のタイピングは普通。さっきも言ったけど、私は長距離走だね。書き続けられるだけ。書き続けられるだけの私でも、要は書き続けられれば、一般的なタイミング速度でも、一分間に二百文字くらいは書くことが出来る。だけど針屋先輩は——自己ベスト、どのくらいなんでしたっけ?」

「そこまで話してくれたんなら紅玉が言ってくれればいいだろ……」

「散々異常者扱いされたので、自覚していただこうかと」

「こんな技能で持て囃されたくないんだが……」言いながら、針屋は指を折りつつ、自分の速度を計算して、「まあ、紅玉の例に倣って言えば——五百文字から六百文字くらいか? まあ、面倒だし、五百文字ってことにしとくか」

「五百文字……一分間に?」

「まあ、大体そんくらいだな」

「つまりはまあ——針屋先輩は、一時間にってことですね」

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