第2話

 早乙女さおとめ京子きょうこ

 双法院そうほういん学園三年秋組あきぐみ——【読書倶楽部スーツ・クラブ】において、生徒会書記しょきを担当している。

 通常、生徒を管理し、取りまる役をになうことの多い〝生徒会〟であるが、双法院学園においてはどちらかと言えば、管理というより〝評価〟するという側面そくめんの方が強い。

 ひとえにそれは、小説の評価。

 生徒たちの小説を読み、それを評価し、解釈かいしゃくし、賛辞さんじする——それが【読書倶楽部スーツ・クラブ】の役回りであり、彼らは執筆よりも読書におもきを置いていた。言わば、この学園で書かれる小説の価値を決めることの出来る、権力者集団である。

 もっとも、彼らが面白いと言ったものが評価されるという、権力主義というわけではない。それでは因果関係いんがかんけいが逆だ。面白い小説を。全くと言って良いほど平等であり、恐ろしいまでに残酷ざんこくな評価をくだすからこそ、彼らはこの学園において、畏怖いふされ、憧憬どうけいを受け、特別視とくべつしされている。

 もちろん——その立場にあまんじ、権力の余韻よいんひたおろか者は【読書倶楽部スーツ・クラブ】には一人も存在していない。

 彼らはあくまで、順当で、正当な読者である。

 一編いっぺんの物語に対して、どこまでも真摯しんしに向き合っている。

 無論、生徒によって好んで読むジャンル、造詣ぞうけいの深いジャンルはあるが——それでも基本的には、どんな小説であれ平等に読む読者たちだ。

 そして、そんな学園内において特別な位置に存在する彼女、早乙女京子は——全校生徒から〝文学少女ラプラス〟と、そう呼ばれている。

 すぐれた作家、あるいは優れた読者に与えられる、学園内での二つ名だ。畏敬いけいの念を込めたり、凡庸な生徒たちが、という予防線を張るための文化であるが——自然発生するたぐいのものであるため、誰かが統括とうかつしているというわけではない。異質な人間たちが集められたこの学園において、殊更ことさら異質な——そんな生徒に与えられる名前だ。

文学少女ラプラス

 その文字に、呼称に、詳細な説明は付いて回らないが——だが、大抵の場合、二つ名を見ればそれがどんな生徒か分かる。それくらい洗練されたものだけが、生き残る。

 そしてそれとは別に、彼女には生徒会役員としての【幸せな貴族ジャック】という称号も与えられている。こちらは伝統的に、生徒会に所属する者に与えられる、言わば職位しょくいのようなものだ。もっとも、この伝統が先にあり、それにならって一般生徒に〝二つ名〟という文化が生まれた側面もあるのだが……ともあれ、そんな風に、【職位】と〝二つ名〟を同時に保有する彼女は、この学園内において、異質中の異質と言って良かった。

 二つを混ぜて語るのであれば——『幸せな文学少女』である。

 本を読むのが好きで、幸せで、とにかくずっと読み続けていたい。

 本が、物語が、小説が——ただ、ただただ好きなだけ。それ以上でも以下でもない。

 狂信的なまでに、物語の世界に傾倒けいとうしている。

 時間があれば本を読み、多幸感たこうかんつつまれ、喜びを享受きょうじゅしている。

 故に、〝文学少女ラプラス〟。

 故に、【幸せな貴族ジャック】。

 と——そう呼ばれている。

「じゃあ、早乙女先輩を満足させる小説が書ければ、俺は入部出来るんですね?」

 字木あざなぎは早乙女についてのパーソナルな情報を吸収きゅうしゅうした上で、そんなことを言った。どこまでも不遜ふそん態度たいどではあったが、その不遜さはしかし、無礼ぶれいにはあたらない。

「いやいや、いやいや。字木一年、お前、話聞いてたか? 入部は許可するよ。入部は許可するが——季刊誌への掲載けいさいは、早乙女の一存いちぞんによる。だから俺はな、お前に選択肢をやってるだけなんだよ。こんな部活に入っていいのか? ってな。もっとお前に合ってる部活があるかもしれない。そもそも——生徒会役員が兼部けんぶしている部活動なんか、よっぽどのことがない限り、選ばない方がいいぜ?」

「傷付きました。針屋ばりやくん、私は別に、なりたくて生徒会役員をやっているわけじゃないんですよ? 読島どくじまくんがどうしても入れって言うから、入っただけなんです。だって、生徒会役員になんてなったら読書をする時間が減っちゃいますから。普通の神経をしていたら、生徒会なんて入りませんよね? 読書より優先されることなんて、んですから」

「そうだな。まったくそうだ。早乙女、お前の言う通りだ」針屋は賛同さんどうの意を示したが、しかし実際には、心からそれを肯定こうていしているようには見えなかった。「とにかく字木一年、狂気きょうきには十分にれただろう? 化物バケモノ退治が趣味ってんなら止めねえが、どうする、これでもまだ入るか?」

 字木は、部室内を見回した。部室と言っても、特別な機能がそなわっているわけではない。六畳ほどしかない部屋。四方の壁は窓と入り口以外全て本棚で埋め尽くされていて、机と椅子がいくつか並んでいるだけだ。それはこの学園において、。部室のすみには古いブラウン管モニタとパソコンがあり、パソコンラックの上には小型のレーザープリンタが常備されている。それも。普通だし、字木にとって、、それ以上に必要なものは何もない。

「……ええ、入るつもりです」

「よろしくお願いします。新入部員、大歓迎です、字木くん」と、早乙女は嬉しそうに言って、字木の手を取る。「私が入部してからというもの、【第三十八文芸部サンパチ】は季刊誌の発行回数が少なかったり、部員が転部してしまうケースも多くあったので、実は人気がないんです……少なくとも、一学年に二名以上いた方が将来も安泰あんたいですし、嬉しいです」

「季刊誌の発行回数が少ないのは、早乙女先輩が許可しないからでは……?」

「そんなことないですよ。だって、みんなですもん」

 ああ——字木は痛感つうかんする。この人は、。読書という体験にくるっているのだ。狂っているからこそ、こんなおかしな発言を、さも当たり前のように出来ている。普通じゃない。読書きょう——本の虫という言葉すら似つかわしくない。〝文学少女ラプラス〟なんて二つ名をかんしているだけはある。

 学者に対する知識が豊富ほうふにあるわけではない字木でも、〝ピエール=シモン・ラプラス〟という名前と、『ラプラスの悪魔』という言葉くらいは知っている。

『もしもある瞬間における全ての物質の力学りきがく的状態とちからを知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析かいせきできるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実ふかくじつなことは何もなくなり、その目には未来も全て見えているであろう』

 つまり、コインを投げ、その落下速度と回転回数を完全に把握はあくできれば、表と裏どちらの目が出るかは完全に予測出来る、というような意味の言葉だ。端的たんてきに言えば——表を上に向けたコインを、水平な状態で一ミリメートルだけ落下させれば、と、一般人でも予測出来る。では一センチメートルならどうだろう。一メートルなら。そこに回転が加わったら——そうした情報を全て把握し、それがもたらす結果を完全に知り尽くしていれば、表が出るのか、裏が出るのか、知ることが出来る。それが感覚的であれ、論理的であれ、とにかく全てを確定させられるなら、

 そうした概念がいねんを、『ラプラスの悪魔』と呼ぶ。

 であれば——過去の経験から、読書体験から、流行りゅうこうから、作家のくせから、文法から、展開の流れから——様々な要素を含んだ上で、次の文章はという読書予想を立てられるほどの感覚が備わっているのだとしたら。

 こうなった方が面白い、という、定義を出来る人間がいるとしたら——

 そんな生徒を、〝文学少女ラプラス〟と呼ぶことも、やぶさかではない。

「……俺がやります」と、字木は言って、早乙女の手を握り返した。歓迎のボディタッチを、握手あくしゅという現象に変える。「俺が早乙女先輩の喜ぶ小説を書きます。だからそれを読んで、判断してください。俺がこの部活の部員としててきしているか」

「いやいや、いやいや。字木一年。お前、まだ分かってないな。早乙女は別に、喜びやしねえよ。喜ぶ小説なんてないんだ。

「ああ——そうでした。そうですね。じゃあ俺は、

「ありがとうございます。はい! 嬉しいですね、小説を書いてくれる部員が増えるのは、とても喜ばしいことです」早乙女は嬉しそうに言ったあと、少しだけ表情をくもらせ、「本当は、四月はすぐに人が増えたんです。うちは応募要項がない部活ですから、とにかく部活に入ろうって子がいっぱい来てくれるんですよね。でも……ほとんどの一年生はまだ小説を書いたことがないようでして……五人もいた新入部員は、今は紅玉ルビィちゃんだけになってしまいました。

「私は小説が書けるのでー」と、烏島からしまはタイピングをしながら応える。「私もですねえ、百本くらい文章を書くと、そのうち一本は小説になってくれるんですよ」と、若干じゃっかん不貞腐ふてくされ気味に続ける。

「それでも紅玉ルビィは大したもんだぜ。早乙女に文章を書ける人間はそう多くない。ということはつまり、少なくとも六月末に。今のところ、早乙女のお眼鏡に適った小説は紅玉ルビィの書いただが——まあ、今日来てない部員もいるし、まだ一ヶ月弱あるからな、お前の書いた小説が載る可能性もある。字木一年、お前が小説を書けるってんなら、久しぶりに【第三十八文芸部サンパチ】の季刊誌は、盛り上がるかもしんねえなあ」

「よろしくお願いします。是非ぜひ、季刊誌を盛り上げましょー!」

 と、早乙女は言って、無邪気むじゃきに片腕を突き上げる。字木もそれにならい、困惑しながらも片腕を突き上げた。タイピングを続ける烏島は「おー」と無愛想ぶあいそうに声を上げ、針屋は面白そうに笑っている。

「じゃ、じゃあ……とにかく、俺は今日から入部ということで……いいですか」

「ああ、構わねえ。伝統的に、うちの学園には入部届やらは存在しない。入ればそれでいい。嫌になったら抜けりゃいい。退部届も存在しない。まあ、表の世界の出版業界と似たようもなもんだ。。それが一番の効力を持つ」

「——わかりました。よろしくお願いします」

「よし、覚悟が決まったんなら、歓迎かんげいするぜ、字木一年」針屋はソファから起き上がり、字木の胸に、軽く拳を立てる。「早速さっそく環境をととのえないとな。お前、ノートパソコン派か? そもそも、部室使って書くか? ——申請すれば個人用のパソコンは学校の予算で買える。部の予算なんかすっ飛ばして、小説を書く道具という名目なら、。デスクトップでもいいし、ノートでもいいし、ワープロでもいいし、ポメラでもいいし、タブレットでもいいが……どうする?」

「ああ……どうしたらいいんでしょう。そもそも、皆さんどうやって書いてます?」

「んー? いや、別に自分の好きなようにしたらいいぜ。まあ、九割九分ほぼひゃくノートパソコンだろうな。テキストエディタの好みとか、文字変換ソフトの好みとか、そもそもキーボードの好みとか——そういう微細びさいな違いはあるだろうが、基本的には今の紅玉ルビィみてえに、ノートパソコンに向かって黙々もくもくとってパターンが多い」

「欲を言えばメカニカルキーボードの搭載されたノートパソコンがあればいいんですけどね」と、烏島は口を挟む。「まあ書ければなんでもいいです、私は」

「俺はデスクトップ派——もとい、独立キーボード派だ。で、早乙女は——」

「私はMacだねー」

「なるほど。いや……そもそも、俺は小説を書いたことがないので、いまいち分からなくて」と、字木は言った。「なので、特にこだわりはありません。備品があるというなら、それと同じで大丈夫です」

「そうか。分かった、じゃあその辺の申請の仕方を教えて——ん? いやいや、いやいや。お前今、なんつった? 小説を書いたことがないって、そう言ったか?」

「はい。あ、いえ、正確に言えば——小説をありません」

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