雪女の『穏やかな日常』
―雪女視点―
喫茶『百鬼夜行』の朝は早い。モーニングサービスもやっているから開店は朝の八時から。その前の仕込みにだいたい一時間。さらに着替えや化粧の準備も一時間ちょっとかかる。そうなると起床は五時半だ。その代わり閉店は四時と早い。
私はお店の掃除を済ませると着物の帯を微調整する。ふと壁にかけられた鳩時計を見ると、開店の十分前だ。
「そろそろかな……」と一人呟く。と慣れたパンパンと手を叩く音が聞こえた。
この店の店長であり、私達の大将である夜行さんが開店前になると手を叩く。その音を合図に各々最終チェックを終わらせて、持ち場に立つ。
これが毎朝のルーティーンになっていた。
私は畳の隙間に埃が落ちていないかもう一度確認してから、入り口に立つ。
「おはよー。雪女」
バタバタと音を立てて山童が走ってくる。
「おはよう。今日もギリギリね」
「だって眠いんだもん」
山童は子供の姿をして、目をこすっている。
本当は妖怪だからかなりの長い年月を生きているのだけど。子供の姿でいるとついつい甘やかしちゃうのよね。
そのうち夜行さんがキッチンから出てくる。今日も腰の曲がったコナキ爺の手伝いをしていたのだろう。
「さて。それじゃ、開店するとするか」
夜行さんの言葉に頷くと、夜行さんは入口のネジ締まり錠をぐるぐると回して引き戸を開けた。
「「「いらっしゃいませ」」」
私達はお客さんの姿を確認すると一斉に頭を下げた。
さあ、仕事を始めよう。
私達の名前を一人でも多く呼んでもらうために――。
「いやぁ、いつもすまないねぇ」
「別に気にしないで頂戴」
私はお皿を洗いながら隅でパイプ椅子に座るコナキ爺に目を向ける。店が一段落したら腰の曲がったコナキ爺を手伝うのも毎回のことだった。
私がある程度皿洗いを終わらせると「ポッポー」と鳩時計が午後三時を知らせる。この時間になるとあとは閉店の作業に移るのみだ。
「あんまりお客さんが来なければいいのだけれど」と思わずこぼしてしまう。
閉店間際にたくさんお客さんが来ると洗い物も大変だし。閉店時間が延びるのも嫌だし。
そんな私の呟きに「それは難しいんじゃないかのぅ」とコナキ爺が答える。
「あー。アイツね」
「そろそろ来る時間じゃないかな」
そのコナキ爺の言葉と共に暖簾をくぐってきた人がいる。
茶髪のショートカットに、黒の半袖Tシャツとジーンズの短パン。
――アイツだ。
「やあ。元気にしてたか?」
くぐってきたのはつい最近、京都から退治屋の日髙家に嫁いできた田中 明愛梨だ。
「はぁ……。元気にしていたも何も昨日ぶりじゃない」
「いいだろ。別に。それよりいつものね」
明愛梨はヒラヒラと手を振って、いつもの窓際の席に座る。
「やっぱり来ちゃったのぅ」
「もう、毎度暇なのかしら」
そう言いつつも特製のオレンジジュースをグラスに注いでしまっているけれど。
私がオレンジジュースをお盆に乗せて明愛梨の元へ持って行こうとすると、夜行さんが明愛梨の隣で胡坐を掻いて酒を飲んでいた。
まぁ、これもいつものことか。
「で、どうなんだ。最近は」
「まぁ、おかげさまで名前を徐々に覚えてもらっている……というところだろうか」
「どうだ、言う通りにしておいて良かっただろ」
「……そうだな。これで消える心配もなくなった」
そんな二人の会話に「オレンジジュース持って来たわよ」と強引に割り込む。
「おっ。ありがと」
明愛梨はさっそくストローに口をつけた。そして軽くお腹を撫でる。
そういえば。明愛梨のお腹が少し膨らんでいる……ような気がする。
「そのお腹……」
「ああ。前々から吐き気がするなとは思っていたが。妊娠三ヵ月目らしい」
「「!」」
そう言ってまたお腹を撫でる。
「男の子か女の子か今から楽しみだな。名前も考えてやらないと。もちろん、お前たちの中からいい案が出れば採用する」
「随分浮かれてるな」
夜行さんの言葉に明愛梨はフフンと鼻を鳴らす。
「当たり前だ。私と剣さんの子供だぞ。どんな困難があっても幸せになる未来しか見えないからな」
そう言って明愛梨は穏やかに笑った。
この『穏やかな日常』がずっと続くと思っていたのに――。
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