第27話 新婚さん

 帰宅した優は、玄関脇に設置された洗面台で手を洗い、うがいをした。夏用のジャケットを脱いで、軽くほこりなどを払うと、クローゼットにしまう。

 居間へ向かう途中、妙な違和感を覚えて、少し足を止める。時計は6時。予定よりも少し早めの帰宅の為、家にはひとりのはずだ。

 しかし、誰かいる。

 部屋のドアを開け、ただいまと言おうとした駒井優は突然の抱擁に思わず声を上げた。


 恋人の友里がハイテンションで声を弾ませる。

「おかえりなさい♡」


 やわやわな友里の体をとっさに抱きかかえることが出来ず棒立ちになる。予備校へ行った優と一緒に「わたしも出かけるね!」と外出し、遅くなると聞いていた恋人がいる。つまりその後、すぐに帰宅し、朝からなにか仕掛けていたのだろう。そういう場合、優がどんなに言おうと、友里が止まることはない。可愛いエプロンを身に着け、はしゃいでる友里に問いかける。


「なんの遊び?」

 友里は嬉しそうに両手を上げた。

「新婚ごっこ!お風呂にする?ごはんにする?それとも♡わ♡──……」


 友里の言葉をさえぎって、優は友里の首元の匂いを嗅いだ。

「お味噌汁とお魚の香り……、出かけるふりして準備してくれたんだ」

 それからキンピラのごま油の香りがして、優にとって楽園の香りがする友里が、お夕飯をひとりで仕上げたことを知らしていた。

「ううん、いっぱい買い物して出かけたのは本当だよ~、優ちゃんはサプライズ苦手だけど、こういうのは大丈夫?」

「うん、うれしい、早く食べたい」

 優が微笑むと照れたように笑う友里は、一連のサプライズができたことに満足したのだろう、ニコニコと踵を返す。夏休みの一日を優に捧げたようだ。


「お夕飯に負けた!用意するね」

 キャッキャとはしゃぎながら優に背を向ける。優は思わず、手をのばす。

「友里ちゃんが負けるなんて、ありえない」

「え?」

 友里が戸惑っているうちに、背面から優はエプロンの脇に手を滑り込ませた。


「!」

 プチプチと友里のシャツの前ボタンをあっという間に三つ開いた。友里が困ったように、なにかあわあわと言っているが、優はボタンを開ける手を止めなかった。5つめのボタンに手をかけたとき、友里が慌てて声を上げる。

「あの、選んでと言ったのは私だしうれしいんだけど、ご飯冷めちゃうし」

 友里はもじもじ、フルフルと震え、顔を赤くする。

 しかし、優の与える刺激を拒むでもなく、グッと力を籠める。


「ふふ」

 友里の肩越しに、優がわらう。ようやく友里は、優に揶揄われていたことに気付いて赤い頬をさらに紅潮させた。

「……優ちゃん!からかったんだ!かわいい!!」

 友里はさけんだ。

「ごめんね、たまには、反撃させて」

 いつも友里に驚かされてばかりの優がそう言うと、友里が風船のようにぷうっとふくれるので、耐え切れず「あはは!」と声を出して笑った。

「もう!はじまっちゃうのかなって、すごく緊張したのに!」

「ゆるして」

「きゃわいい!」

 友里の好きな小首をかしげるしぐさで謝ってみる優だったが、許されないようなので残念そうに背筋を直した。

「ご飯食べてお風呂入ったら、ただいまのキスをしていい?」

 問うと、友里の足が止まり、優の前に立ちふさがった。


「それは今、ください!」

 優は、目を閉じて、優を見上げた姿で待つ友里の唇に、そっと触れるだけのキスをした。すぐに蜂蜜色の瞳が開いて、優をうれしそうに見つめる。


「お出迎え、すごく嬉しかった」

「えへへ、うん、ご飯の支度を進めるね!」

「手伝う」


 優が微笑む。「新婚さんごっこ」と友里は言うが、(今の流れはかなり新婚さんだったのではないか)と、心の中でひとり思い、無駄に照れた。

 紅潮する頬をおさえてから、友里の元へ戻り、夕飯の支度をふたりでして、そうこうしているうちに優の家族が帰宅した。優はその後、友里が一日かけて部屋も新婚さんモード、ピンクに染めあげていたことを知る。


 :::::::::::::::


 喫茶店。観葉植物が窓辺に設置され、空調の効いた店内はシーリングファンが快適な温度と湿度を保っている。店内は女性が多く、おしゃれでシンプルな内装の中、談笑の声は柔らかい。

 紅茶とミックスジュース、それからパンケーキは、ふたりでひとつ。親友の高岡朱織が、優雅に紅茶を飲む姿の横で、友里は、嬉しそうに自分の口のサイズよりも大きめに、ふっかふかのパンケーキにナイフを入れた。


「新婚さんの様子はどう?」

 ズバッと切り裂くような声で、高岡が言った。

 言われた友里は、むせそうになって、慌ててパンケーキを飲み込む。


 夏休み、高岡朱織とお出かけをしていた。

 7月に駒井家に引っ越して本格的に一緒に住み始めた友里は、昨日おこなった「新婚さんごっこ」を高岡に見られていたのではないかと照れが生じた。

(さすがにイエスノー枕は、(正確には裏も表もyesのアップリケをつけた)やりすぎた感じがする)

 昨夜の諸々を思い出し、友里は勝手に照れ倒す。


「引っ越してまだ数日でしょ、今が一番楽しい時なんじゃないかと思って」

「そうね、そう!たのし!!うん、でもまだ、結婚してるわけではあ」

 しどろもどろになる。気持ちはすっかり奥さんで、優のことも、「わたしのかわいいおくさま♡」などと思っている友里だったが、はっきり言われると否定してしまう。


「新婚さんごっことかしたの?」

「どうしたの高岡ちゃん、今日は切り込んでくる!!」

 いつもは友里が率先して惚気話を聞かせる立場だが、高岡の態度に不安になる。友里の友人のように嬉しそうな感じではなく、どこか冷たいような、この夏日、ブリザードのような態度だ。

 物語の雪女が、「助けたことを口外したら凍らせて殺す」といいながら、人間に変化し、夫となった相手に「私に言えないことがあるのですか?」と問うシーンのようで、「答えてはいけない答え」を求めているような質問だ。


「高岡ちゃん、優ちゃんとなにかあったの?」

「えっ」


 ブリザードが止まった気がした。友里は、高岡を見る。高岡と優は、ある程度時間は決まっていないことになっているが、20時頃10分程度、毎晩英会話のレッスンをする仲だ。ふたりは早口の英語で雑談をしているだけで、友里にとっては少し焼ける10分。内容は、友里の話ばかりらしく「yuri」だけは聞き取れる。


「駒井優からの惚気だと、殺意がわいてくるから、友里から聞きたくて」

「ええ……!?言っちゃダメなのかと思っていた~」

 友里がカラカラと笑うと、高岡が表情を柔らかく変える。

「駄目ね、私ったら、無表情なのに言葉に出さなくて」

「高岡ちゃんは結構、顔に出るタイプだと思うけど」

「友里はわからなかったじゃない!」

「それもそうか」

 友里がアハハと優のように笑う。

「一緒にいると、少しずつ似てくるのかしら?」

「ん~?」

 友里は首をかしげる。たしかに、優のようになりたい友里は、所作を勉強することはできなくても、スカートの時は足を広げない、人の嫌がる話はしない、など小さな「はしたない」をしないように心掛けてきた。


「友里は、駒井優に憧れてるんですものね、でももっと奔放な友里も、私は好きよ」

「そう?てれちゃう」

 えへへと笑って、友里はパンケーキを平らげた。たわいもない話をしているうちに、あっという間に時間は過ぎていく。

「優ちゃんと高岡ちゃんだったら、きっと紅茶のお話で盛り上がるかも」

「友里とだってしたいわ」

「優ちゃんが好きだから、銘柄は少し知ってるけど、味はわかんないんだ~、全部甘くしちゃう!駒井家のガムシロップは全部私のモノだよ!」

「体重計に良く乗るように」

「にゃ、やぶへび」


 クスクスと笑う。


「高岡ちゃん、今日は布探しにいっぱい付き合ってくれてありがとうね!」

「通販もいいけど、実際見て回るとインスピレーションがちがうんじゃない?」

「うん!すごいためになった。テキスタイルのお店なんて、自分だけじゃ絶対いけなかったよ」

「父の画廊に、最近入った人なの。額装してあると、もっと美しいわよ」

「見に行きたい!」

「ぜひ」

 高岡が薄いケースから名刺を渡すので、友里は「もう持ってます!」とニコッとお財布を出した。


「でも購入には至らないなぁ、資金が足りない!」

「そうね、学生の身分には手が出せない資産だわ」


 高岡も唸る。

 白だけでも何百枚もあった布を思いだし、優の為のウェディングドレスの良い刺激になったと友里はわらった。

「あの35番、優ちゃんが着たら夢みたいな気持ちになるんだろうなぁ~!」

 うっとりと友里が言うと、高岡も笑った。

「あの人、背が高いから布がいくらあっても足りないわね、足がすごく長いし」

「現実的!」


 友里のデザイン帳を見て、しばし歓談した後、喫茶店を後にした。家に帰る。

 友里は少し小走りに、駒井家へ向かう。自宅を通り過ぎ、角を曲がると、今は自宅と言える駒井家があった。鍵を開け、自ら門が開きエントランスへ向かう。

 履いていたサンダルの汗をぬぐい、靴箱へ。友里の靴の上に、優の靴が並んでいる。うがい手洗いで身を清め、ささっと前髪を直した。


「おかえり」

 洗面台にまで優が迎えに来たので、友里は振り返って抱き着いた。

「ただいまあ♡」

「あれ、荷物は?買い物しなかったの?」

 荷物移動のために来てくれた優に気付いた友里は、優のやさしさにまたときめいた。何度も恋をしてしまう自分に、胸をおさえる。

「あのね、今日は高岡ちゃんがいっぱい素敵なものを見せてくれたの!」

「じゃあお土産話が友里ちゃんの中にいっぱいかな、お夕飯を食べながら聞かせて」


 嬉しそうに友里が言うと、優も嬉しくなったようで微笑む姿に、友里はさらにはにかんだ。


「今日高岡ちゃんが、一緒に暮らしてると似てくるんじゃないかって」

「わたしは友里ちゃんのポジティブさに憧れてるから、細かな部分を真似してるって言われたことあったなあ」

「優ちゃんも?」

「高岡ちゃんってよく見ているよね」

「ほんといいこ!」

 にこにこ言う友里は、優の腕にしがみ付いた。

「わたしにほんとに似て来たなら、新婚さんごっこするとこだとおもうんだよねえ」

「ん?」

「だって久しぶりに、わたしが優ちゃんとじゃなくておでかけしたんだし、優ちゃんは新婚さんみたいに「おかえり♡ごはんにする?それとも、わたし♡」って待ってるところじゃない!?」

「ふふ」


 必死にいう友里に、優は笑う。


「なあにい?カワイイ!」

 ぷうっと頬を膨らませる友里に、優がさらに笑う。


「ご飯を食べて、お風呂に入ったら、このクリームをお塗りください」

「!?」

「紀世さんと駿くんにたのんでたんだ」

 尾花駿が先ほどまで滞在していて友里を待っていたことを知らす優に、友里は

「あいたかった~」と言いながらクリームを受け取った。

「これは……?」

「傷跡にも、とてもいいんだって」

「……!」

 友里がハッとして優を見た。友里の背中には、小学生の時におった傷跡が背中の中ほどから太ももまである。

「あとで、わたしに塗らせて」

「うん、うれしい」

 その様子を想像して、少し照れながら、友里は頷いた。優が、いつでも自分の事を考えていることに、胸がいっぱいというよりもう、苦しくなってきた。売り物ではなく、きっと友里のために作ったモノだ。真っ白のパッケージをみつめ、抱きしめる。

「新婚さんごっこだけど」

「あ!」

 涙がこぼれそうになっていることをあわてて隠すように、笑顔をつくる。


「うん、ふふ、優ちゃんは淑女だから、はしたないことしないよね!」

「ううん、しようと思ってたんだけど」

「おもってたの!?」

 衝撃発言に、友里は驚き目を丸めた。


「この後、いっぱい友里ちゃんをいただくから、問う必要をかんじなかったんだ」

「優ちゃんっ」

「はしたないかな?」

 友里は優にしがみ付いて、モウだのなんだの言いながら小鳥のように「ユウチャンカワイイ」と繋げた。


(すっごいかわいいんだけど、優ちゃんがはしたないこと言うのって、わたしの影響かなぁ?)


 友里は申し訳ないような気持ちになったというのに、その後の甘い出来事を想像してしまってあわてて頭の中のピンクをうちけす。

(わたしのはしたなさが、淑女な優ちゃんに伝染しないように気をつけなきゃ)と今後の生活の目標を掲げ、連絡をした高岡に宣言をすると「無理だと思うわ」とばっさりと切られた。


「だって駒井優は、友里のせいじゃなく、もともとはしたないもの!」

 そう言われ、友里は「優ちゃんは淑女なの!」と反論したが、隣で聞いていた優は、無言で反論もせず、友里を後ろから抱きしめた。

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