第35話 大好きですよ
スカートの裾を摘まんで上げて水辺に近付くスミ。
そろりと溜池に素足を入れる。右足、左足――両足とも浸けた。袖も捲って両手を水面に添える。
「スミ、何してるんだよ」
ふうう、ふうう。
スミは何度も深く呼吸していた。
ワンピースを濡らし、泥で白い肌を汚し、それでも目を閉じ静かに呼吸し続けている。
え、ウソ――。
僕は目を疑った。
池が凍り始めている。
風に揺れていた水面が停止し、スミの周りの水だけがスケートリンクのように凍結していた。
信じられない。真夏の池に氷が張っている。
「来て、タイチ君」
スミは氷の上に立って微笑みかけてくる。水に濡れたスカートを絞ると、氷の粒となってぱらぱら飛び散った。
僕はスミの手に掴まって氷の上に立つ。
……乗れた。
「こういう事も出来るみたい。私の病気、初めて役に立ったね。嬉しいな」
スミの半径二メートルほどの水面だけ凍っている。
「これなら遠回りしなくても渡れるでしょ。そしたら山の神社まですぐ着くよね」
得意気に歯を見せて笑うスミ。いったいどうなっているんだ。僕は氷の上から水面を見下ろした。
「危ないよ、私の近くしか凍ってないの。だから私から離れちゃダメ」
スミはまた僕の手を握る。スミの手は冷たいけれど、触れているだけで胸の中が満たされてほかほかした。
僕はスミに掴まって歩き出した。
スミが足を踏み出すと、水面が瞬時に凍って足場になってゆく。後ろを向くと、もう氷が解け出して元の溜池に戻っていた。
そして僕らはちょうど溜池の中心に差し掛かる。
「タイチ君、ここなら誰にも話を聞かれないね」
立ち止まったスミはぽつりと呟いた。僕の顔をちらちら見ては顔を伏せる。な、何だよ……。
「私ね、今までずっと生まれてきた意味が分からなかったの。だって病気のせいで何もできないし、外にも出られない。もうお母さんもお父さんもいない。全然つまんなくて辛いだけなのに、どうして生きてるんだろうって思ってた」
前の僕と同じだ……。
するとスミは両手で頬を押さえて小声で言った。
「タイチ君。でも私はタイチ君に会えて嬉しいです。生まれて来て良かったです。ホントにホントに幸せですよ」
スミが顔を崩して笑う。眩しいくらい白い笑顔を見て、僕の頭も真っ白になりかけた。心臓がオーバーヒートしそうになっている。
でも、ちゃんと僕も言わないと……。
「僕も幸せだよ。こうしてまたスミに会えて良かった――」
スミは僕に背を向けて丸まったかと思うと、突然ぴょんぴょん飛び跳ねる。氷と素足が触れて可愛い音がぺたぺた鳴る。
僕もスミに背を向けて俯いていた。今、スミに顔を見せられない。熱い、僕の熱気で氷が解けてしまいそうだ。
僕の足下の氷はスミが作ってくれた優しい氷。僕は温かな氷の上でじっと伏せていた。するとスミの温かな手が僕の手を握る。
「行こうタイチ君、朝日を見に――」
溜池を渡り切った僕とスミ。
振り向けば氷は跡形もなく解けて消えていた。本当に池の上を歩いてきたのだろうか。不思議な夢でも見ていたかのようだ。
「ここを登れば神社だ。まだ日の出には間に合うぞ」
木々に囲まれた石段がどこまでも伸びている。早起きの蝉の大合唱がうるさい。見上げると、はるか先に石の鳥居が小さくあった。
ケホケホ、ケホケホケホ。
スミが苦しげに咳込む。口を押さえて背を丸め、一段目の石段に手をつき蹲った。
「ス、スミ!」
僕はスミに駆け寄り背中を擦った。
また冷たくなっている。僕の呼び掛けに応える代わりに、スミは乾いた咳を繰り返しては肩を痙攣させる。
やがて発作は治まった。ぜいぜい肩で息を切るスミ。また足元に赤い氷粒が散らばって石段の上にはねる。
スミは大きく息を吐いて起き上がり、困ったような笑みを僕に向けた。
「疲れちゃいました」
ごめんね、と結んでスミはよろける。また石段に膝をついた。
溜池を凍らせたりしたから身体に負担が掛かったのだろうか。そもそもこんな長い距離を歩いて来たこと自体に無理があったのだろうか。
「ごめんなさいタイチ君。せっかく連れて来てくれたのに、こんな所で――」
僕の身体は勝手に動いた。スミの腕を持って僕の肩に回す。寒い、瞬時に体が冷えてがたがた震え出した。
「タイチ君……何をする気」
「背負って行く。僕の背中に乗って」
スミは小さく息を漏らして首を横に振った。
「悪いよそんなの。私なんか背負って階段を登るの大変だよ。それに、私の身体……冷たいし」
「そんなのいいから!」
僕はスミの身体を強引に背負って立ち上がる。
きゃっ、と小さく声を漏らしたスミは僕の首にしがみ付いた。スミの身体は軽いけれど、気を失いそうになるくらい冷たい。
「一気に登るぞ。しっかり掴まってて」
「う、うん」
スミの太ももを持って支え、僕は石段を駆け上がった。
揺れに合わせてスミの吐息が耳元で聞こえる。僕の背中にスミの柔らかい体がぴったり着いている。頭がどうかしてしまいそうだ。
「もうダメだよ、タイチ君が凍っちゃう」
「大丈夫、僕なら平気だから」
本当は気絶しそうなくらい寒い。いくら走っても汗が出なかった。
それどころか寒過ぎて身体の動きが鈍ってくる。冬の湖に落ちたらこんな感覚なんだろう。それでも僕はスミを背負ったまま走り続けた。
「よーし、あと半分!」
僕はスミの前で良い格好をしたかったんだ。
「温かいね、タイチ君は」
スミは僕に白い頬を寄せる。首筋がひやりとした。黒髪がなびいて僕の鼻をくすぐる。良い匂いだ。
冷たいけれど温かい。
「あともうちょっとだ」
「がんばってタイチ君!」
辺りを包む緑の木々と蝉の声。いよいよ鳥居が近付いて来る。
僕らは世界と切り離されてゆく。ここには誰もいない。僕にはスミの吐息しか聞こえないし、スミには僕の息遣いしか聞こえない。僕ら二人を邪魔するものは何もない。ここは僕とスミだけの世界。
そして僕は石段を登り切った。
「間に合ったみたいだ。まだ太陽は見えてない」
スミを石畳の上に降ろして振り返る。東の山の端から今にも太陽が顔を出しそうだ。
「すごーい、ホントに高いんだね。私達はどこから来たの」
僕はスミの隣に立ち、眼下に広がる町を指差しながら教えた。
「あそこに丸い池があるだろ、あれが僕らの渡って来た溜池。そこから細い川が町へ向かって伸びてるんだ」
「へえ。ここからだとすごく小さく見える」
僕は小川に指を這わせ、ある場所で指を止める。
「それで、あれがスミのいた物置小屋」
「うわあ小さい。私ってあんな所にいたんだ」
スミは自分の住んでいた世界の小ささに驚いて感嘆を漏らしている。
僕はスミに町を案内した。物置小屋の隣にあるのが地主の屋敷、田んぼの畦道をずっと歩いて行けば僕の家、郵便局の角を曲がれば僕らの中学校、駅から伸びる線路は遠くの町へと繋がっている。
もっと高い所から見れば、この町だって小さな世界なんだと思う。
この国だって、この星だって、宇宙から見下ろせばちっぽけな点に過ぎないんだろう。そんな小さな世界で、僕らは苦しんで悩んで生まれて死んでを繰り返している。
「スミ、あっちを見て」
ついに朝日が顔を出した。眩しさで東の山の輪郭が滲んで見える。
スミは生まれたての太陽を眺めたまま、目瞬きさえせずに硬直していた。黒い瞳に太陽が映り、真っ白い頬に陽光が差してオレンジ色に染める。
「すっごいきれい……」
太陽は町中に朝の訪れを伝えて回る。
田んぼに光りが差し、小川や溜池も水面に光りを反射させていた。遠くから電車の走る音も響いてくる。小鳥たちも目を覚まして
「タイチ君……」
スミは僕のシャツの裾を摘まんで引っ張る。僕は何も言わずにスミの肩を寄せた。スミはどんな顔で初めての太陽を見ているのだろう。
スミの顔を覗くと、彼女は泣いていた。
目瞬きもせず、表情も変えず、スミの両目から涙が溢れて零(こぼ)れ落ちていた。抑えていた色々な感情が混ざり合い、涙となって溢れ出しているようだ。涙は頬を伝い、胸元に転がって石畳に落ちる。
かつん、ぱらぱら。
その涙は凍っていた。朝日に照らされた氷の涙は宝石のように輝き、スミの両目から落ちてゆく。
かつん、ぱらぱら。かつん、ぱらぱら。
「タイチ君がいなかったら、こんな朝日なんて一生見られなかったよ」
「僕もだ。スミと会わなかったら、こんなにきれいな朝日なんて死んでも見られなかった」
朝日は僕らを照らす。僕らは自然と手を繋いで町を眺めていた。
その時、ある変化に気付いた。
スミの手が冷たく感じない。触れていると火傷しそうに冷たかった手が熱を持ち始めている。太陽を浴びたからだろうか。心なしかスミの顔色も良くなっている気がする。
スミは凍った涙を溢しながら花のように笑った。
「タイチ君。私の友達でいてくれてありがとうございます」
「こちらこそ友達でいてくれて嬉しいよ。これからもずっと友達でいような」
こくこく何度も頷くスミ。その度に水晶のような涙が輝きながら石畳に落ちる。
かつん、ぱらぱら。かつん、ぱらぱら。
スミは僕に体を預けてくる。僕はわなわな迷う手を必死に動かして、スミの体を抱き寄せた。小さくて細くて柔らかくて、それに温かい。
心臓が暴れるように鼓動し、血液が沸騰するように熱くなる。スミの体温でも僕の身体を冷ます事は出来そうにない。
スミは僕の耳元で囁く。
「大好きですよ、タイチ君」
胸の奥から腹の底からじんわり温かくなる。
色んな気持ちが入り混じって訳が分からないけれど、とにかく嬉しい。けれども僕は恥ずかし過ぎて何も返せないでいた。
だから僕はスミを抱く手に力を加えた。
ほんの少しだけ――。
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