第34話 私に任せて
スミが降ってくる。
その動きがスローモーションに見えた。両手を差し出し落ちてくるスミ。白いワンピースの裾がふわりと揺れる。
落としてたまるか!
僕はスミの身体を抱き止める。
なんて細い身体だ。軽くて小さくて、少しでも地面に触れたら氷みたいに砕けてしまいそう。
受け止めた反動で僕の身体が後ろにぶれる。
「うわっ危ない!」
バランスを保てない。
ダメだ、倒れる。
スミの小さな悲鳴が耳元で聞こえた。僕の身体にしがみ付くスミの腕。歯を食いしばってスミを抱き締め、頭を庇うように腕で覆った。
スミを抱き止めた僕はそのまま草の上に転げ、背中と肩を強く打った。でもスミだけは絶対に傷付けない。華奢なスミを僕の身体で覆う。
僕はスミを抱えたまま仰向けに倒れていた。
はぁはぁ――。スミの息遣いが僕にも伝わる。古い物置小屋特有の木の香り、女子特有の奥歯が痒くなるような匂い。
僕は今、スミに触れている。スミを抱き締めている。
冷たい。スミを抱いていると体温がみるみる奪われてゆく。呼吸が止まって凍死してしまいそうだ。ワンピース越しでもこの冷気。スミの身体の中はどれだけ冷たくなっているのだろう。
僕の心臓は激しく鼓動している。スミの鼓動も僕の胸に伝わってきた。小さいけれどスミの心臓も確実に動いている。
僕もスミも、生きているんだ。
「タイチ君……その、大丈夫?」
スミが体を起こし、僕に
「ごめん、重いよね」
スミはのそりと退いて服に付いた泥を払う。僕も起き上がった。倒れた時に体で草をすり潰したらしく、手に青臭さがこびり付いていた。
「私、物置小屋から……出ちゃったね」
スミは軽く握った両手を口元に添え、辺りをきょろきょろ見回している。
「今日のスミは物置小屋のスミじゃない。僕と同じ、どこにでもいる普通のスミだよ」
ここはスミにとっては別世界。いつも格子窓から見ていたと言っても、足を踏み入れるのは初めてだ。
「なんか、ちょっとこわいな」
「大丈夫。僕が一緒だから」
そう言うとスミは赤くなって顔を伏せる。僕も頬が火照った。僕はなんてセリフを吐いているんだ。
「ほ、ほら。早くしないと朝日が昇っちゃうぞ」
僕が促すとスミは「う、うん」と頷いた。
スミの足下に目を向けると、彼女が裸足だった事に気付いた。サンダルくらい用意しておけばよかった。砂利の堤を歩くのは痛そうなので小川沿いの草地を行く。
「タイチ君、ちょっと待って」
僕が振り返ると、スミは俯いたまま右手を伸ばしていた。何をしているんだろう、そう思って僕が首を傾げるとスミはぽそぽそ続ける。
「手、つないでいい……?」
えっ、と声が漏れそうになった。
スミは差し出した手をぷらぷら振って膨れている。困った顔で「だってさ――」と続けた。
「外へ出たのなんて初めてだもん、迷子になったらこわいもん」
スミは眉間にしわを寄せて顔を横に振る。初めての世界に踏み出したばかりで怯えているのか。僕も久しぶりに学校へ行った時はこわかった。
「一本道だから迷わないと思うけど――」
僕の言葉を遮るようにスミは「んんんっ!」と低く唸って手を振る。
女子と手を繋いで歩くなんて初めてだ。なんかデートってやつみたい。僕の頭が熱を持って混乱し始める。
どうすれば良い、普通に握れば良いのか。どれくらいの力で握るんだろう。どうしよう、どうしよう。
「わ、分かったよ」
とりあえず僕も手を差し伸べた。スミは跳ねるように近付いて僕の手を握る。頭の中で悶々と渦巻いていた事が吹っ飛ぶくらい冷たい。凍傷になりそうだ。
「えへへ。ありがとね」
顔を上げたスミはにこっと微笑んだ。この笑顔を格子越しでなく、間近で見たのは初めてだった。
スミの手はすごく冷たい。
けれども温かい気がした。
まずいな。
僕はスミに見えないように舌打ちする。東の空が明るくなってきた。ずいぶん月も傾いている。
急がないと――。
でも時々スミがケホケホ咳込むからゆっくり歩いていた。スミは僕の手をしっかり握っている。
「ねえ、どこまで行くの」
「スミにも話した事あったっけ。あの山の神社だよ」
僕は行く手にそびえる山を指差す。
「それって、この町を見下ろせるって所?」
「あそこなら最高の朝日が見えるはずだ」
僕は焦っていた。朝日が昇るその瞬間をスミと見たい。しかし藍色の空が紫に変わりつつある。星も見え難くなってきた。
朝が、もう来る。
スミはぽっかり口を開けて空を見上げた。
「きれいな空だね。東の山の向こうから温かい光がやって来るみたい。あそこから太陽が出るんだね」
「ちゃんと前を見てないと転ぶぞ」
ふと足元に目を遣って僕は言葉を失った。
スミの素足が踏んだ草が白くなっている。
凍っていた。
生命に満ちて青々と茂っていた夏草もスミが触れた途端、シャーベットみたいに固まって枯れて崩れる。生唾を飲んで振り向くと、スミの歩いた所だけ草が枯れ、白い霜の降りた土が見えていた。
スミは触れるもの全ての温かみを奪って凍らせてゆく。
僕もスミの手に触れている。
しかしなぜか冷たいとは思わなかった。スミに手を握られて寒いくらいのはずなのに、僕の体温は変に上がって汗までかいていた。首筋に汗の滴が流れ落ちる。
僕らは小川沿いを歩き続け、やがて溜池の前に立った。
頭から汗がダラダラ流れてくる。小さく咳をしていたスミは全く汗をかいていない。
気付けば僕もスミの手を握っている左半身だけは汗が引いていた。
かなり空が明るくなってきた。
まだ陽は出ていないが、雲の形まではっきりしてきた。もう目を凝らさないと一等星さえ見えない。
「あ、タイチ君の言ってる神社って、もしかしてあれかな」
スミが溜池の対岸に指を向ける。木々で見え隠れする長い石段が山の斜面にあった。ゴールはすぐそこだ。
しかし僕らの前には大きな溜池が行く手を邪魔している。橋も無いので迂回しなければ対岸へ辿り着けない。
東の空を見上げる。山の端が赤より明るくオレンジ色に輝き始めた。これは迂回している間に朝日が顔を出すだろう。
僕はがっくり肩を落とす。
もうダメた……。
スミはにこにこして僕を見上げている。
立ち止まっていると足元の土にみるみる霜が降りていった。僕はスミに向き直って項垂れた。
「ごめんスミ。太陽が昇っちゃう」
「どうして謝るの?」
もう間に合わない。
「日の出まであと十分もないと思う。とても溜池を回って石段を登る時間はないよ……。ごめんな、僕がもう少し早くスミの物置小屋に行っていれば間に合ったのに」
タイチ君――、と呟いてスミは不思議そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「朝日ならここからでも見えるんだ。神社と比べるとイマイチだけどさ、仕方ないし今日はここから見ようか」
仕方ないか、僕は僕なりに頑張ったよ。
スミを物置小屋から連れ出して一緒に朝日を見に来た。それだけでも充分だ。当初の目的は果たせなかったけれど、ベストは尽くしたじゃないか。
僕にしては上出来だ。
「ダメダメダメだよ」
スミは僕の手を引っ張って溜池へ歩いてゆく。
「神社の方がきれいな朝日が見えるんだよね。それだったらまだ諦めたらダメダメ。せっかくチャンスを掴んだんだから、簡単に諦めたらいけませんよ」
「そんな事言ったって無理なモノは無理だよ。ほら、空がどんどん明るくなっていく」
スミは僕の手を放す。それだけで僕の胸に穴が開いたような寂しさを感じた。
「私に任せて」
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