第33話 い、行きます
小川の堤を駆ける。
風のない凝った夜。暗くて足元が見えず、砂利に足を取られて何度も転びそうになった。生温かい空気を切り開くように僕は走り続ける。
腕時計を確認すると、午前三時を回ったところ。こんな遅くに物置小屋へ行った事はない、まだスミは起きているだろうか。僕はさらに強く地面を蹴った。東の空の色が僅かに薄くなってきた気がする。
やがて薄闇の先に物置小屋が見えてきた。僕は転げ落ちるように堤を下り、物置小屋の裏に回る。
格子窓を前に、僕の足が止まった。
ついに来てしまった……。
僕は乱れた息を整えようと深く呼吸する。次々と汗が噴き出し、髪の先から滴り落ちてゆく。鼓動がうるさい。首筋まで心臓が登って来たかのように鼓膜に響く。
この中にスミがいる。
僕は意を決して駆け寄り、格子窓を掴んだ。暗くて何も見えない。けれども中から冷凍庫のような冷気が漂ってきた。目を凝らしていると少しずつ暗闇に慣れてくる。
「スミ――」
小声で呼んでみた。
しかしすぐに返事はなかった。布団に膨らみはない。スミはどこへ行ったのだろう。
もしかして僕に会いたくないのだろうか、怒っているのだろうか。僕がここへ来なくなったから、あの時「会いたい」って答えなかったから。
それとも、もうスミはいなくなってしまったのだろうか。
僕は格子を握ったまま項垂れる。後悔に押し潰されそうだ。
「タイチ君、なの……」
奥から細い声。鉄扉の前に小さな影がちょこんと座っている。
その影はよろめきながら立ち上がり、ぺたぺた足音を鳴らしてこちらへ近付いて来た。
「本物だ。本当にタイチ君だよ」
月明かりに照らされるスミの顔。前よりも頬が痩せていた。
目元は笑おうとしているのに口を結び、鼻をすんすん鳴らしている。笑いたいのか泣きたいのか分からない。僕も胸の奥から熱い感情が込み上がってくる。今すぐスミに触れたいと感じた。
「タイチ君、タイチ君、タイチ君――」
スミは僕の名前を何度も呼びながら窓に駆け寄り、格子を掴む僕の手をぎゅっと握って頬を寄せた。白くて柔らかくて、すごく冷たい手。汗だくの火照った身体を一瞬で冷ましてくれた。
「もうタイチ君とは会えないと思ってたんだよ」
声が震えている。スミは背伸びして僕に顔を近付けた。優しく冷たい吐息が僕の顔に掛かる。
「私が『もう会わない方が良い』なんて言ったからいけなかったんだよね。そのくせ私ってば毎晩毎晩泣いてたんだよ。私、なんて馬鹿なこと言ったんだろうって。ごめんね、ホントにごめんね。ホントはタイチ君に会いたくて会いたくて――」
「僕だってスミに会いたかった!」
強く言い切った。スミは驚いたように顔を上げる。
「学校に行けるようになって、他に友達も出来た。僕はその分スミとの時間を大切にしなくなったんだ。ホントにごめん」
スミは口をへの字に結んで首を横に振る。艶やかな黒髪がはらはら揺れていた。
「地主さんに見つかった日から、僕はここへ来なくなった。スミが嫌いになったからじゃない、僕が臆病者だからだ。スミの過去や重い病気の事を知って怖くなったんだ。スミに会う勇気がなかったんだ。僕は逃げた。スミの抱えている事は僕の手には負えないって思って」
僕はスミの手を強く握り返した。はっとスミは顔を上げる。細くて冷たい、か弱い氷柱のような指。少し力を入れただけで壊れてしまいそう。
「だからスミの事を忘れようとした。友達と遊んでいたらスミの事で苦しまなくなったよ。でも一人になると、どうしてもスミの事を思い出してしまう。会いたい、でも勇気がない。でも、僕にも勇気が出た」
僕は持ってきたスミの本を差し出す。スミは「あっ」と漏らして口元を押さえ、上目遣いに僕の顔を窺う。
「スミはまた僕に勇気をくれた。これを読んで、今まで僕が悩んでいた事なんて全部吹っ飛んでいったよ。だから僕はこうしてスミと会ってる」
本を受け取ったスミは嬉しそうに微笑んだ。
「これ、全部読んでくれたんだ」
「うん、最後のページまで全部ね」
ひゃっ、とスミが悲鳴を上げて背筋を伸ばす。みるみる顔が赤くなり、逃げるように顔を伏せた。スミは本を胸に抱えて小さくなってしまう。
「僕もスミと同じ気持ちだよ。スミとずっと友達でいたい、僕もスミの事が――えっと、その。す、好きだから……」
スミの肩がぴくりと反応する。おずおず顔を上げて僕の目を見詰めるスミ。僕も目を逸らさない。言葉が喉に
スミは頬を赤らめて口唇を尖らせている。すごく幼く見えて、スミの事を心から愛おしいと思った。
友達、という言葉では言い表せない妙な気持ちだ。
もう無理だ。僕は恥ずかしくなってスミから目を逸らした。
「ホントに僕はスミに貰ってばっかりだ。だから今日は僕からスミにプレゼントがあるんだ」
「プレゼントって、そんなの良いよ。私はタイチ君が一緒にいてくれるだけでも嬉しいもん――」
ふるふる顔を振るスミ。僕はスミの言葉を遮って言い切った。
「今から朝日を見に行こう」
動きを止めてぽかんと口を開けるスミ。
「この窓は北向きだから太陽が見えないんだよね。じゃあここから出て、僕と一緒に見に行こうよ。太陽が昇る瞬間を」
スミは眉を寄せて指を咥える。困ったように視線を床に這わせていた。
「そんな事言ったって、私はここから出られないもん」
鉄扉には厳重な鍵が掛かっているし、窓の格子はびくともしない。しかし一つだけスミをここから出す方法がある。
僕は物置小屋の土壁を見上げた。
「あれだよ」
二階の通気窓を指差す。観音開きの分厚い戸、四十センチ四方ほどの窓がある。かなり狭いけれど小柄なスミなら通れるはずだ。
「タイチ君。でも私、あんなに高い所から降りられないよ……」
問題はそれだった。通気窓から地面まで足掛かりはない。二階の高さから、しかも狭い窓から無理な姿勢で飛び下りるのは危険だ。しかし僕はそれも考えてあった。
「大丈夫。僕がスミを受け止めるから」
僕は両手を広げてみせた。
スミの身体は僕より小さいし、二階くらいの高さなら受け止められるだろう。いや、命に代えても必ず受け止める。帰る時も、僕が肩車してあげれば充分戻れる高さだ。
「タイチ君が、受け止めてくれるの?」
頬を手で覆ったスミはぽそぽそ言っている。
ちょっと待て――。
受け止めるという事はスミを抱き締めるという事か。
誤算だ、そこまで考えていなかった。僕はスミの顔を見て胸の内側がむずむずした。
しかしもう引き返せない。腹をくくるんだ、僕。
「うん。僕は何だって出来る。だってスミに勇気を貰ったんだから」
小さく頷いて、いや俯いてスミは深く息をついた。
僕の覚悟は固まっている。あとはスミの勇気次第だ。二階から飛び降りる勇気、ここから出られない運命を断ち切る勇気。
そしてスミは静かに顔を上げる。
「そうだね。タイチ君はまた私に会いに来てくれた。今度は私が勇気を見せる番だよね」
答えを聞いた僕の頬が綻ぶ。
「スミ……」
「私、太陽が見たい。タイチ君と一緒に朝日を見たいです」
「うん。そうと決まればさっそく出発だな」
スミはにっこり笑った。「よろしくお願いします」と深く頭を下げてから、スミは梯子を軋ませて二階へ上がって行った。
僕は体の筋肉をほぐして通気窓を見上げた。
あそこからスミが落ちてくる。それを僕が受け止める、絶対に受け止めるんだ。傷一つ付けさせない。
僕がスミを守るから。
深呼吸していると観音開きの窓が開いた。スミの白い顔がひょっこり現れる。遠い地面を見下ろして不安そうな表情だ。
「さあ来て」
僕はスミを見上げて両手を広げた。
もぞもぞ身をよじりながら窓からスミの身体が出て来る。袖がめくれて青白い腕が見えていた。やがてスミの身体が腰辺りまで見えてくる。
「い、行きます――」
スミは息を止めて目を閉じ、そして窓から飛んだ。
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