第31話 タイチ君へ――

 蒸し暑さで目が覚めた。

 エアコンのタイマーが切れて、部屋の中の空気が凝っている。息苦しいし、汗でベタベタして気持ち悪い。


 もう夜の七時。外も暗くなっている。ずいぶん長いこと眠っていたようだ。これは夜も寝られそうにない。夏休み前日にして早くも僕の生活リズムは乱れてしまった。

 一階から物音がする。キッチンの水道の蛇口の開く音が壁の中を伝わってきた。母さんが帰ってきているのか。

「タイチちゃん、晩ご飯よー」

 下から母さんが呼んでいる。

 冷やし中華を食べてから、何もせず昼寝していただけだから腹は減っていない。でも、まあ食べるか。


 ドダッ、ドダッ。階段を下りる。

 食卓にはカレーライスが置かれていた。寝起きには厳しいメニューだ。僕は食卓に着いて手を合わせた。「いただきます」少し無理して食べる。

「お父さん、今日も仕事で遅いみたいだし、お母さんも先に食べちゃうわね」

 母さんも僕の向かいに座って食べ始めた。

「どう、美味しいかしら。今日はいつもより良いお肉を使ってるのよ」

 最近、母さんの声が明るい気がする。前までみたいに僕の顔色を窺うような事はしなくなった。

 期末テストが返って来てからずっとこの調子だ。思っていたより僕の点数が高かったから機嫌が良いみたい。僕は母さんの元気になっているのか。


 食器を片づけて風呂に入り、また部屋に戻った。特にやる事がない。

 久しぶりにオンラインゲームでもやろうかとパソコンを起動する。また新しいフィールドやダンジョンが開放されているかもしれない。

 誰か誘おうかと思ってスマホを取り出したところで手が止まった。リョウスケにはゲーム禁止令が出ていた。ケイタも今夜から家族旅行だと言っていた。結局、僕一人だ。

 せっかく起動した事だし、仕方ないので一人でプレイする。けれども一時間くらいで面白くなくなってログアウトした。やっぱり一人だとゲームもつまらない。


 もういいや、夏休みの宿題でも片付けよう。

 宿題の一覧プリントを見て溜息が出る。一ヶ月かけて消化する量だけあって、気が遠くなるくらい多い。とりあえず僕の得意な国語から片付けよう。

 まず目に着いたのは読書感想文だった。原稿用紙二枚。これくらいならすぐに終わるだろう。

 さて、題材にする本は何にしよう。

 マンガは駄目だと言われていたし、字だけの本なんて僕の家にあっただろうか。


 あ――。


 僕は三段目の引き出しを開けた。

 奥に古い本がある。

 手に取って表紙をじっと見詰めていた。格子窓の間から、この本を持った白い手がすっと出てくる光景を思い出す。


「スミ……」


 久しぶりにその名前を口にした。

 その瞬間、僕の胸の中が微かに熱を帯びて、やがて苦しいくらいに熱くなる。この気持ち、すごく久しぶりだ。

 最初のページから覗いてゆく。

 途中まで読んでいたけれど、もうすっかりストーリーを忘れていた。これくらいの厚さなら今夜中に読み終わる。時間もあるし最初から読み直そう。この本を読書感想文の題材にしようと思った。


【旅人は馬に乗って草原の国を訪れた。草原の王は草花を愛し、動物達を愛していた。草原の国は隣国の機械の国と敵対し、戦争を繰り広げている】


 これは旅人が世界を巡る物語。スミはこれを読んで、見た事のない外の世界を空想していたという。


【機械の国の戦車は恐ろしく強いが、燃料がないと動かない。旅人が知恵を貸し、草原の国は機械の国を打ち負かした。

 しかし戦争で勝利の味を知った草原の王は色んな国に戦いを挑んでゆく。やがて草原の国の民は疲れ果て、国は滅びてしまった】


 教訓めいたバッドエンドの話も多いが、どこかに温かみが隠れている感じだ。僕は次第に物語に飲み込まれていった。

 玄関の戸が開く音。父さんが帰って来たらしい。時計を見ると、いつの間にか十二時を回っていた。


【船が沈み、旅人が流れ着いた島。そこは深い雪に閉ざされた冬の国だった】


 この辺りから初めて読む。ページを捲る手が止まらない。


【スパイと勘違いされた旅人は氷の牢獄へ入れられてしまう。

 冬の王の許しを得るまで牢から出られない。旅人は何日も冷たい牢獄の中で震えていた。すると鉄格子の向こうに一人の少女が現れる。

『僕に近付いてはいけない。君までスパイと思われるよ』

 旅人が言っても少女は首を横に振る。

『あなたはスパイじゃないんでしょ。それなのに捕まっちゃうなんて可哀想。お腹減ってるでしょ。これ、置いていくね』

 少女は格子越しにパンを差し入れた】


 何だよこの話――。

 歯の奥がむずむずした。


【少女は毎晩のように旅人の牢へやってきた。旅人は世界中で見てきた冒険の話をし、少女は楽しそうに聞いていた。

 しかしある日――】


 嫌な胸騒ぎ。

 呼吸を整えてページを捲る。


【少女が旅人に食べ物を差し入れしている事を、冬の王に知られた。罪人を助ける事は重罪だ。

 そして少女は処刑されてしまった。

 それを知った旅人は嘆いた。スパイの疑いが晴れ、釈放された後も旅人は冬の国を出なかった。自分のために死んでしまった少女の魂を慰めるために冬の国に残った。

 旅人は、旅人ではなくなった】


 なんて重い話だ。息が苦しくなる。

 しかし物語には続きがあった。


【旅人は少女の家を訪ねた。

 主を失くして久しい家。そこで埃を被ったノートを見つけた。そこには旅人の話した冒険譚が詳しく書かれている。

 最後のページには旅人へ向けたメッセージがあった。

『旅人さん、私は明日処刑されます。でも私は旅人さんと会えて幸せでした。旅人さんはこれからも旅を続けて、世界中の子供達に世界を伝えてあげてください』】


 最後、旅人は悲しみを振り切って新たな旅に出た。悲しさの先に微かな希望を残した終わり方。

 この物語に続きはあるのだろうか。


 僕は最後のページを開いたまま放心していた。

 時刻は夜中の二時過ぎ。字だけの本を一日で読み切ったのは初めてだ。つい時間が経つのを忘れていた。

 面白かったけれど、ちょっと古臭い展開の物語だった。いったい何年前に出版された本なのだろうかと思って、次のページを開く。

 こ、これって……。

 僕は息を飲んだ。


『タイチ君へ――』

 鉛筆で文字が綴られている。スミからのメッセージだ。

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