第29話 やっぱり返しに行くべきだろうか

 じめじめ蒸し暑い毎日が続いていた。

 最近いつも雨なのに、今日は珍しく午前中から快晴。この梅雨を明ければもう夏だ。

 学校にも少しずつだけれど馴染めてきた。もう僕の事を、不登校のレア登校キャラだと思っている人も少ないと思う。

 リョウスケとケイタ以外のクラスメイトとも話せるようになった。

 昨日は理科の実験でサッカー部の騒がしい奴と同じ班になったけれど、上手くコミュニケーションを取れていた気がする。アルコールランプにキャップを落として消火すると、サッカー部の奴も「おお、やるなあタイチ」と拍手していた。

 でも女子とは上手く話せない。

 なんか恥ずかしい。


 昼休み、僕は教室でいつもの二人とパンを食べていた。

「タイチは勉強始めてるか」

「いや、あんまり……」

 話題は七月上旬に控えている期末テストの事。

「何だかんだでもう一週間前なんだよな」

 僕は五月の中間テストを受けていない。だから今回の期末で挽回しないと、一学期の成績表が絶望的な結果になる。

「二人は勉強してる?」

 リョウスケとケイタは一様に苦笑して首を横に振った。

 それはそうだ。毎晩僕と一緒にオンラインゲームをしているのだから。勉強している時間などないはずだ。

 もちろん僕もそれは同じだ。

「聞いたか。今度の期末が悪かった奴は特別補習があるんだって。六時間目が終わった後にまた勉強だなんて勘弁してくれよ」

 数学と英語の特別特訓会とかいうやつだ。

 田島先生は夕方の五時半まであると言っていた。夏の大会前の運動部の奴らからすれば、堪ったものじゃないだろう。帰宅部の僕だってゲームする時間が減るから辛い。

「俺ん家、今度の期末で五教科三五〇点以下ならゲーム禁止だぜ。マンガも没収されるかもしれない。マジでピンチだってば」

「うわあ。それじゃ一緒に夜ゲーム出来なくなるじゃん」

 僕の母さんも何か言っていた。

 僕も結果次第で塾へ行かされるかもしれない。そうなれば遊ぶ時間が減る。学校が終わってからも勉強だなんて考えただけでもうんざりだ。

 僕らがのんびりパンを齧っていると、教室の中が妙にソワソワし始めた。みんな急いで弁当を食べて片付けてゆく。

「俺達もさっさと食べてしまおうぜ」

「あ、そっか。今日から水泳が始まるんだった」

 僕は体育にも参加している。相変わらず運動は苦手だけれど、マラソンに比べれば水泳の方がずっとましだ。

「遅れたら先生うるさいぞ。早く行こう」


 残っていたパンを口に押し入れて牛乳で流し込む。早めに昼食を切り上げ、僕らは一年振りの水泳用具のバッグを肩に掛けて更衣室に向かった。

 ドアを開けた瞬間、圧倒されるほどの人の数。今日の体育は二組と合同だった。

 埃っぽくて狭いプレハブの空間に大勢が押し込められている。今日から始まる水泳の授業にクラスメイト達は興奮気味だった。

 壁に当たって跳ね返り反響する笑い声の群れ。荒波のように激しく唸り、僕に勢い良く迫ってくる。前までの僕なら耐えられなかったはずだ。


 どうしてだろう。

 そう言えばいつの間にか平気になっていた。

 ほんの数か月前の僕なら吐きそうになって逃げだしていたのに。


「おーいタイチ。端っこのロッカーなら三つ空いてるぞ」

 リョウスケが窓際を指差して声を上げる。僕ら三人は裸のクラスメイト達の間を縫って進んで行った。身体が当たる、密度が高い、人が多い。

 こんな人混み、前なら目を回して倒れていた。

 それなのにどうして大丈夫になったんだっけ……。

「やべっ、あと五分しかないぞ!」

 思い出せないけれど、まあいっか。


「母さん。本当に塾行かなきゃいけないの」

 キッチンで夕食の準備をしていた母さんの背中に尋ねた。手を洗って振り向いた母さんは困った顔で僕を見ている。

「うーん。やっぱり一年生の最後から二年生の初めまで休んでたのが大きいみたいなの。その時期、どの科目も大事な単元を教えてたから」

 そう田島先生が言っていたらしい。

「期末テストの結果次第で塾に行った方が良いと思うのよ。ほら、最近は個別指導って流行ってるんでしょ。それだったら他の子もいないし、一対一で教えてもらえるからタイチちゃんも安心よね」

 安心かどうかは僕が決める事だ。僕が顔をしかめていると、母さんも難しそうに苦笑して付け足してくる。

「とりあえず夏期講習だけでもどうかしら。父さんも行かせて良いって言ってるし」

 ね? と母さんは僕の様子を窺う。

 腫れ物にでも触るような扱いだ。母さんは僕が期末テストで悪い点を取ると決めつけている。

 なんか腹が立った。


 僕は部屋に戻って通学鞄を勉強机に強く置いた。

 こうなったら自分の力だけで、せめて平均点は越えてやる。勉強は好きではないけれど塾へ行くのは面倒だ。

 その前に――勉強机を整理しよう。

 こんなに散らかっていたら勉強に集中できない。

 机の上に散乱していたペンや消しゴム、マンガやお菓子の袋を片付けてゆく。要らない物はゴミ箱へ、使わない物は引き出しの中へ。ああ、引き出しの中もごちゃごちゃしているな。ついでに片付けてしまおう。

 BB弾、スナック菓子のおまけステッカー、マンガ本の帯、どこで買ったか忘れたキーホルダー。

 僕は処分に困った物を勉強机の引き出しにしまう習慣がある。

 困った物だ。

 上から二段片付けただけでゴミ箱が半分埋まった。机の整理だけで三十分も経っている。

 この際だから徹底的に掃除してやろうと、僕は三段目の引き出しに指を掛けた。


 あ――。

 古い本が一冊出てきた。

 これはスミに借りていた本だ。


 三分の二ほどのところにしおりを挟んだまま全く進んでいない。僕の中で物語は止まっていた。

 いや、むしろ忘れつつあった。


 もうスミとは何日も会っていない。

 物置小屋に通わなくなって一週間は経った。前までなら、スミの顔をいつでも鮮明に思い出せた、けれども今は少しぼやける。僕の中から少しずつスミが消えてゆく。

 この本、やっぱり返しに行くべきだろうか……。

 でも、スミにはもう会わない方が良いと言われたし、それに地主に見つかったら今度は怒られるだけでは済みそうにない。けれども借りた物はちゃんと返さないといけないし……。

 うーん、どうしよう。


 その時、僕のスマホが鳴った。リョウスケからの着信だ。

『もしもしタイチ。今、何してるんだ』

「えっと、勉強しようと思ってたんだけど、いつの間にか大掃除になってた」

 僕のスマホの電話帳にも少しずつ友達の番号が増えてきた。着信履歴もリョウスケとケイタが母さんを追い抜いた。

『何だ、まだ勉強してるんじゃなかったのか。ちょうど良いや。ちょっとだけディープダンジョンやろうぜ』

「え、待てよ。テスト前だろ」

『そんなの俺だって分かってるって。限定ダンジョンをちょっと覗くだけだってば。俺とケイタはもうログインしてるから、早くタイチも入ってくれよ』

 それだけ言ってリョウスケは電話を切った。僕は本を持ったまま迷っていた。どうしようか……。

 まあ少しくらい良いか、勉強は後でしよう。

 僕はパソコンを起動し、スミの本を引き出しの奥深くへしまった。


 期末テストを目前に控えて、リョウスケ達もさすがに焦ったのか、その日以来オンラインゲームも一時休戦していた。

 それから一週間。

 僕は死に物狂いで勉強した。一つの事に一生懸命打ち込んだのは人生で初めてかもしれない。

 夏休みに塾で勉強漬けにされるのは嫌だ。その一心で頑張った。友達も出来て外の世界での楽しみ方を覚えてきたのに、今度は塾に閉じ込められるなんてまっぴらだった。

 そして三日間に渡る期末テストが始まった。

 国語はもともと得意だったからそれなりに手ごたえがある。理科と社会はほぼ一夜漬けの丸暗記で挑んだ。数学と英語はあまり自信がない。他の実技科目に関してはかなり危ないかもしれない。


 三日目。

 最後のテストが終わった教室には解放感が溢れていた。

「うわぁ。ワケ分かんなかった」

 机に突っ伏すリョウスケ。満足のいく出来ではなかったらしい。彼もテストの点が悪かった時にはペナルティが課せられると言っていた。リョウスケの気持ちも分かる。結果が出るまで僕も不安で仕方がない。

 そんな中、後ろの方の席が盛り上がっていた。サッカー部の騒がしい奴に彼女ができたらしい。相手は三組のバレー部の女子のようだ。テストが終わったので、今日の昼から街へデートに行くという。

 デート、か。聞いただけで小恥ずかしくなる言葉だ。

「俺達には縁のない話だよな」

 リョウスケは鼻で笑ってみせた。僕らは遠くからサッカー部の奴の人だかりをぼんやり眺めていた。

「やっぱスポーツマンは人気だな。運動が出来るってだけで、どうしてあんなに女子からチヤホヤされるんだろう。俺なんて女子の携帯番号とか一人も知らないし、二年になってから男子としか喋ってないぞ」

 そう言えば僕も女子とは喋っていない、最近は。

「どうしたんだよタイチ」

「いや、何も……」

 ぼーっとしていた、ある人の事を思い出して。その僕の様子をリョウスケは怪訝そうに見上げていた。

「まさかタイチも彼女いるってワケじゃないだろうな」

「そんなワケないって」

 ふんと鼻を鳴らした僕は窓の外を見た。七月の青空に薄い白雲がかかっている。もう梅雨は明けたかな。

「明日、休みだろ。タイチは用事とかあるのか」

「ううん。特に何もないけど」

 リョウスケはばっと顔を上げて僕の顔を指差した。

「ケイタと電気屋街に行ってみようって話してたんだ。タイチも行かないか。ゲームもマンガも大量に揃ってるらしいぜ」

「え、良いの。じゃあ僕も行くよ」


 スミはどうしているんだろう……。

 一瞬スミを思い出しかけたけれど、すぐ忘れた。あの子にはもう会えない、会ってはいけない、会わなくても良い。

 リョウスケとケイタ、学校の友達と遊んでいる方が楽しかった。

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