第28話 さよならタイチ君

 地主の屋敷に入ったのは初めてだ。

 子供の頃、塀を眺めながらどれだけ広い家なのか想像していた。実際に門をくぐってみると、中は思っていたよりもずっと広い。大きな母屋があって、離れが二つもある。時代劇で見るような蔵もあった。


 僕は母屋の応接間らしい部屋に通され、濡れた身体を拭くようにとバスタオルを渡された。

 地主は別の部屋へ行ったらしい。ドアの前で作業服の男が見張っている。これじゃ逃げられない。

 身体を拭き終わるとソファーに座るよう促された。

 そのまま待つ、待つ、待つ……。

 無言と嫌な緊張が時間を長く感じさせる。


 やがてドアが開く。

 地主だ。

 雨で濡れた和服を着替えていたようだ。

 地主が目で合図すると作業着の男は部屋から出て行った。僕と地主の二人。近くで見ると本当に怖そうなおじさんだ。

 僕は肩を竦めて俯いていた。

「タイチ君と言ったね」

 太くて迫力のある声。

 僕はぴくりと引き攣って反射的に「はい」と返事した。顔を上げると、眉間にしわを寄せた地主がテーブルを挟んだ向かいに座っている。


「君は、何をしていた」

 地主の声が責める。何をって言われても……。適当に誤魔化せば何事もなく帰られるかもしれない。


「別に……ただ散歩していただけです」

「嘘をつくな」


 地主の語気が強まる。

 思わず僕は悲鳴を漏らしそうになった。そして続く息苦しい沈黙。冷たい汗が脇に滲む。


「君が毎晩あの物置小屋の周りをうろついていたのは知っている。あそこで何をしていたのか聞いているんだ」

「川を見てただけですよ」

「もう一度忠告しよう。嘘はつかない方が良いぞ……」


 地主の目つきが鋭くなる。僕はごくりと生唾を飲んだ。

「あそこで君の声も聞いている。誰かと話していたんじゃないのか。答えなさい、誰と喋っていたんだ」

 別に何も、と誤魔化そうとした。けれども射殺いころすような地主の視線がそうさせてくれない。

 僕の口は嘘をつけなかった。

「白いワンピースの女の子……スミです」

 そう答えると地主はしばらく黙り込んだ後、唸るように溜息を吐いた。

「あの娘と、会っていたのか」


 地主は目を伏せてまた黙る。初めて僕から目を放した。

 さっきまでの迫力はどこへ行ったのか、諦めたかのように勢いを失くした。

「あ、あの……。スミはどうして物置小屋なんかにいるんですか」

 腕を組んだまま口を結んでいる地主。この人はスミを閉じ込めている張本人だ。

 本当は恐いけれど、僕は勇気を振り絞ってさらに尋ねる。

「僕、スミに聞きました……。身体が冷たくなる病気なんですよね。病気なのに、どうしてあんな所に一人なんですか……」

 地主は再び溜息を吐く。「そこまで知っていたのか――」地主は鋭い目つきを取り戻して僕を睨む。

 僕はまた逃げるように体を退いた。

「まったく。厄介な娘を渡されたものだ」

 吐き捨てるように呟いた地主。憎らしげな口調だった。

「あれはこの家の遠い親戚にあたる娘だ。両親が事故で死んだとか何とか知らんが、親戚中たらい回しにされて最後にここへ来たのだ。しかも妙な病気を持っている。厄介者とはこの事だ」

 酷い。

 スミはあんなに苦しんでいるのに、地主は心配すらしていない。それどころか厄介者と言った。


「だからって、あんな狭い所に閉じ込めなくても――」

「黙れ!」


 地主が怒鳴った。

 僕の全身が凍ったように固まって、背筋を伸ばしたまま動けなくなった。

「子供のくせに口出しするな。原因不明の奇病だぞ。家の者に伝染したらどうする。そのために隔離しておるのだ」

 そうだとしても、あんな物置小屋なんかに隔離しなくても……。

「それに、うちは歴史のある由緒正しい家だ。それが、どこの子供かも知らん病気持ちの者がいるなど、あってはならんのだ」

 こっちが本音なんだと思う。

「体温が氷点下だと。それでどうして生きている。まったく、化け物ではないか。あんなものが同じ血縁にいるなど、世間様に顔向け出来んわ」


 きっと世間体とかいうやつだろう。

 僕が学校へ行かず部屋に閉じ籠っていた時も、父さんがそんな事を言っていた気がする。それで父さんと母さんはよく口げんかになっていた。一部の大人は子供の事を荷物としか見ていない。

 スミも荷物として見られている。

 そっか、荷物だから物置小屋なのか。


「まあ。あの娘を置いておくのも、もう少しの辛抱だ」

 どういう意味だ。はっと僕は顔を上げる。

「見ていて分からんか。さっきも発作で血を吐いていたのだろう。それに今の体温はマイナス十五度だ」

「じゅうご――」

 僕は目を見開いて繰り返す。冷凍庫の中くらい冷たいじゃないか。

「内臓もほとんど凍って使い物にならない。もうすぐ心臓も凍りつくだろう。あれはもうすぐ死ぬ」


 死――。

 その言葉で僕の目の前が真っ白になった。

 死ぬって誰が……。

 スミが死ぬだって。


「言いたい事は二つある。タイチ君、あの娘の事は絶対に誰にも言うな。それから、もう物置小屋には二度と近付くな」

「そんな……スミは僕の友達なのに」


 僕は口唇を噛んで地主を見ていた。すると地主は癇癪を起したようにテーブルを叩いて怒鳴る。

「ならばあの娘をどこか連れて行け。君ならあの奇病を治せるのか、友達というだけで一緒に生活していけるのか、飯を食べていく金はあるのか、親は許してくれるのか。ええ、どうなんだ」

 地主は言葉を発する度にテーブルを叩く。その音に合わせて僕の背中がぴくりぴくりと引き攣っていた。


「そ、それは――」


 僕にはお金なんてない。だから病気も治せないし、親がいないとご飯を食べる事も出来ない。

 何も出来ない。

 僕は無力過ぎる。

 僕にスミを支えていくのは重過ぎる。


 地主は、僕が項垂れている様を満足そうに見て頷いている。悔しいが何も言えない。地主は僅かに目を細めて笑った。

「君もまだ十三歳だろう。友達なんてこの先いくらでも出来る。一人いなくなったくらい、どうと言う事はない」

 でも――、と小声を溢すのが限界だった。

 でも――の先がどうしても出て来ない。

「わざわざ夜中に物置小屋に来なくても、学校の友達と遊べば良いじゃないか。うん、そっちの方がよほど健全だ」

 そして地主は厳格な表情に戻り、最後に一言だけ念を押すように言った。

「もう、あの娘の事は忘れなさい」

 僕は首を縦に振らなかった。でも、横にも振らなかった。ただ俯いたまま、それを受け入れようとしていた。

 地主は一度もスミを名前で呼ばなかった。


 雨はまだ止んでいない。

 作業服の男に連れられて屋敷の外に出された。

 激しさを増した雨はビニール傘を破りそうな勢いで降る。雷がカメラのフラッシュみたいに夜道を照らしては轟音を鳴らして地面を震わせた。


 堤の下に物置小屋が見える。

 屋根から雨水を滴らせ、ぽつんと寂しそうに川辺に佇んでいる。増水した川に飲み込まれてしまいそうに頼りない。

 スミはどうしているだろう。発作は大丈夫かな。もう会うなと言われたところだが、スミの様子は気になっていた。周りに誰もいない事を確認して、僕は物置小屋の裏に回り込んだ。

 格子窓から覗いても中は暗くて何も見えない。スミはどこだ。

「あ、タイチ君……」

 スミの声。

 その時、また空が光った。雷は一瞬だけ中を照らす。スミがいた。スミは布団を肩に掛けて座っている。僕に目を向け悲しそうに微笑んだ。

 少し遅れて雷が轟音を立てて落ちる。

 僕は肩を竦めたのにスミはぴくりとも反応しないで薄く笑んでいる。人形みたいだ。


「咳、酷かったけど、もう落ち着いたのか」

「うん、もう平気だよ。心配してくれてありがとう」


 窓から入った雨は氷の粒になって床に転がっている。喉の奥で言葉がつかえる。この中の温度はどうなっているんだ。

「それより、タイチ君さっき帰ったんじゃなかったっけ」

 そうだった。

 僕は発作で苦しむスミを置いて帰ろうとした。髪を振り乱して凍った血を吐くスミを見て、こわくなって逃げたんだ。

「そこの堤防で、屋敷の人に捕まってたんだ。地主さんにスミの事で話をされた」

 え……。スミの驚いた声が届いた。再び稲光。僅かな間だけ照らされたスミの顔は思った通り不安そうだった。

「もうスミと会うなって言われた」

 雷の轟音が土壁を震わせる。近くに落ちた音だ。雨音に混じって衣擦れが聞こえる。

 スミが床を這ってくる。

 スミは壁に手を添えて立ち上がった。格子を掴む白い指。僕の肩が震えた。スミが目の前に来ただけで寒くなる。

 スミは笑っていない。静かに口唇が動く。

「そっか。おじさんに見つかっちゃったんだね。それで……タイチ君はどうしたいの」

 口が動かない、声が出ない。

 僕はスミの問い掛けに何も答えられず俯いていた。スミは僕の答えを待って見詰めている。こわくて顔を上げられなかった。

 するとスミは薄く笑った。


「私もそう思う。もう来ない方が良いよ」


 僕は跳ね上げられたように顔を上げる。それでも何も言えないから、スミが消えそうなかすれ声を続けてきた。

「私が弱っていくところ、タイチ君に見られたくないもん」

「スミ……」

 ようやく声が出た。でも、もう遅かった。

 スミは小さくお辞儀して身を退いた。奥の暗闇に溶けて見えなくなる。


「短い間だったけど、友達でいてくれてありがとう。さよならタイチ君」


 僕は暗闇に向かっていつまでも立ち尽くしていた。

 その日を境に、僕とスミは会わなくなった。

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