第26話 ごめんね、ホントにごめんね

 僕は毎晩欠かさずスミに会いに行った。

 もう、あんな悲しそうなスミを見たくない。スミも僕が行く頃には格子窓の前で待ってくれている。

 一人ぼっちのスミ。

 彼女には僕が必要なんだと思った。

 スミに会うには、ゲームを十時半で切り上げなければならない。

 リョウスケとケイタを残し、僕だけ先にオンライン上から離脱するのは悪い気がしていた。


 もう六月も終わりに差し掛かる。

 今夜も雨が降っていた。深夜の町には雨音だけが響く。僕はビニール傘を差してスミの所へ向かっていた。田んぼから雨音に混じって聞こえるカエルの声がうるさい。

 小川は長い雨のせいで増水して泥色になっていた。濁った水が激しく渦を巻く。僕が死のうとしていた、あの夜の川とよく似ている。

 僕は物置小屋のひさしに入りビニール傘を畳んだ。


「スミ、来たよ」

「あ、タイチ君」


 名前を呼ぶと、スミは子犬のように駆け寄って来た。窓辺にスミが立っただけで、冷凍庫を開けた時のように冷気が迫ってくる。

「今ね、縫物の練習してたんだよ。タイチ君のボタンが取れたら、また私が付けてあげるもん」

 物置小屋の隅っこに霜が降りている。本当に冷凍庫みたいだ。この部屋の中だけ冬が訪れている。


 ケホ、ケホケホ。

 スミはまた咳をした。


「大丈夫か、ホントに無理しちゃダメだぞ」

「心配しないで。タイチ君と会えたら私は超元気になるんだよ」


 ケホケホ。

 言っている事とは裏腹に、スミは空咳を繰り返す。口に両手を当てて背を丸めた。ケホケホ。咳の度に小さな背中が引き攣る。

「スミ――」

 スミは僕に手のひらを向けて言葉を遮る。「大丈夫だって」と言いたいのだろう。全然大丈夫じゃないのに……。


 ケホケホケホ。


 咳は激しさを増す。もう何十秒も止まらない。

 僕も小さな頃に気管支炎で苦しんだ事があるから気持ちが分かる。さすがに嫌な予感がしてきた。

 ついにスミは床板の上に膝をついて蹲った。


 ゲホゲホッゲホ。


 咳の質が変わった。喉を傷付けるような音。スミはぱたりと横に倒れる。それでも咳は止まらない。

 ゲホゲホ、ゲホゲホ。


 ぱらぱらぱら、ぱらぱらぱら。


 妙な音が混じってきた。床板に何かが散らばっている。何だろうと怪訝に思って、格子窓の下を覗き込む。それが何だか分かった僕は息を飲んだ。

「スミ、それって……」

 血だ。

 スミの口から血の氷粒が飛び散っていた。

 喉か肺を切ったのかもしれない。米粒ほどの黒い玉が床に散らばる。


 ゲホゲホ。ぱらぱらぱら。

 ゲホゲホ。ぱらぱらぱら。


 やがてスミの発作は治まる。その頃には床に無数の氷粒が散らばっていた。それは少しずつ溶け始め、赤黒い色を床に染み込ませてゆく。

 スミは喉をひゅうひゅう鳴らして仰向けに倒れていた。激しく苦しんだせいで服が乱れ、白い足が太腿の内側まで露わになっている。胸元も肌蹴て、痩せた鎖骨がうっすら見えていた。

「スミ、しっかりしろ……」

 僕の視線に気付いたスミは恥ずかしそうに肌を隠して体を起こした。ばさばさに乱れた髪を手櫛で整え、床板の上にちょこんと正座する。


 コホ、コホコホ。

 まだ小さな咳が残っていた。


 その口から小さな血の結晶が一粒、二粒と落ちる。スミはそれを拾い集めて胸の中に隠す。そして僕を見上げて悲しそうに呟いた。

「こんなの、タイチ君に見られたくなかったよ……」

 僕は何も返せない。ごめん、と言えば良いのだろうか。たぶん違う気がする。

 僕らが黙ったままでいると、雨音がまたうるさくなった気がした。

「変なところ見せてごめんね、血とかいっぱい出て気持ち悪かったよね。ごめんね、ホントにごめんね」

 どうしてスミが謝る……。


 スミは座ったまま物置小屋の暗闇へと引っ込んでいった。僕の目では見えない、光の届かない黒い世界へ。ごそごそ物音だけが聞こえる。

 衣擦れと、すんすん鼻をすする音。スミは泣いているのか。

「スミ、なあスミ」

 呼んでも返事はない。

 スミの容体は僕が思っていたよりずっと悪かった。

 僕はこんな病気を抱えたスミと友達で居続けられるのだろうか。僕なんかがスミに何を出来るんだ。


「スミ、もう今日はゆっくり休んだ方が良いよ」

 暗闇からは鼻をすする音しか返って来ない。スミはまだ泣いている。僕はスミの返事を待ち切れずに続けた。

「とりあえず僕はそろそろ帰るから、スミは安静にね、ね?」

 そう言い残して僕は逃げた。

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