第20話 遅れて、すいません
数日後、週が空けての月曜日。
僕は制服に着替えて歯を磨く。途中、胃液が込み上げて何度か吐いた。身体の調子が変なのは緊張のせいだと思う。
僕は次の冒険に出る決心をした。
駆け足で階段を上がり部屋に戻って深呼吸。
八時ちょうど。まだ時間がある。僕は出しっ放しのマンガや、コードがぐしゃぐしゃになったゲームのコントローラーを片付けた。それでも時間が余っている。
ベッドに一冊の本が残っている。スミに借りている物だ。手に取ってパラパラめくる。
「スミ。僕にもう一度勇気を貸して」
僕は勉強机にスミの本を置いて部屋を出た。
学校に着いたのは九時前、いつもより少し早かった。この時間なら朝のホームルームの最中だ。
僕は震えて深く息を吐く。忍び足で廊下を進み、保健室の前で立ち止まる。中に人の気配はない。きっと保健の先生だけだ。今日も優しく「おはようタイチ君」と迎えてくれるに違いない。
僕はドアの取っ手に手を伸ばした。
ダメだろ――。
頭の中で誰かが怒鳴った。たぶんもう一人の僕って奴だ。
今朝から僕の中で、二人の僕が口げんかをしている。一人は「時間通り保健室に登校するんだ」と言っていて、もう一人は「新しい冒険に出ろ、世界を広げろ!」と叫んでいる。
僕の手はぴたりと止まる。
そうだ、お前の行くべき場所はそこじゃないだろ――。
保健室のドアに背を向け、僕は足を引き摺るように廊下を歩いてゆく。重い、身体が重い。
そして僕は階段の前に辿り着いた。ここから先は異世界だ。
いや、違う……。
かつては僕もいた場所だ。僕が逃げ出しただけで、知らない世界なんかじゃない。ただ目を背けただけの世界だ。
僕は手すりに掴まって階段を上り始める。二年一組の教室は二階へ上がってすぐだと聞いている。階段を半分上り踊り場に辿り着いた。埃と床ワックスの匂い、教室が近付いている証拠だ。
廊下に出ると、生徒の笑い声や先生の声も聞こえる。笑い声……。込み上げた胃液を無理矢理押し戻した。
頭上には二年一組のプレート。
いよいよ来てしまった。
僕は腰を屈めてドアににじり寄る。出席を取る先生の声。この無駄に大きい声は田島先生に間違いない。僕はドアの前で胸を押さえる。苦しい、吐き気がする、お腹も痛くなってきた。
がんばれタイチ――。
頭の中でもう一人の僕が叫んだ。
そうだ、行かなきゃ。
僕はスミと違って、病気でも何でもないくせに部屋に閉じ籠っていた。新しい世界に飛び込むための勇気はスミに貰ったじゃないか。こんなんじゃスミに会わす顔がない。
行けよ、僕!
僕はドアに手を掛ける。せーの、で僕はドアを引いた。
ガラガラガラ。僕は固く目を閉じたままだ。盛り上がっていたクラスがしんと静まった。どうした、誰もいないのか。僕はおずおず目を開く。
僕は絶句する。クラス全員の目が僕に向いていた。
やめろよ、そんな目で見ないでくれ。
「タ、タイチ――」
先生はぽそりと僕の名前を呼んだ。僕は肩を竦めて鞄を握り締める。逃げないぞ、絶対に逃げるもんか。
「遅れて、すいません……」
教壇で出席簿を開いたまま固まっていた先生。その表情が徐々に綻んでゆく。
「お前が教室に来てくれるの、みんな待ってたんだぞ」
僕はドアを握ったまま教室を見渡した。
知っている人もいれば知らない人もいる。二年生に上がる時にあったクラス替えで、上手い具合に五クラスの生徒が混ぜ合わさったらしい。
でも、速く走れと僕を罵倒した野球部の奴も、オカマ走りと馬鹿にしたサッカー部の奴もまた同じクラスだった。本人たちは何も分かっていない様子で僕を見てヘラヘラしている。どうせ僕に野次を飛ばした事も覚えていないんだろう。
「さあ、お前の席はあそこだ」
先生は手のひらを上に向けて示す。僕の席は廊下側の一番後。掃除用具箱の前にある。
僕は俯いたまま席に向かう。僕が歩くと、みんなが通路に置いた荷物を除けた。椅子を引いて席ごと下がる人もいる。
出来るだけ音を立てないように席に着いた。机の表面は綺麗だけれど、中には埃が溜まっている。
僕は肩をすぼめて小さくなる。先生が教壇で何か話し始めてもみんなの視線が僕の身体を掠めてゆく。コバエが大量に涌くようにうじゃうじゃ小声が飛び交っていた。
ぼそぼそぼそ。くすくすくす。
「誰だよ、あれ」
「一年の時から不登校だった奴だよ」
「なーんだ、生きてたんだ」
「タイチって奴だっけ、あんま知らないけど」
ぼそぼそぼそ。くすくすくす。
ぼそぼそぼそ。くすくすくす。
僕は何も聞かないように顔を伏せる。
本当は今すぐ逃げ出したい。トイレでも保健室でも物置小屋でもどこでも良い。誰にも見つからない場所に隠れたかった。
逃げてしまえばどれだけ楽になるだろう。しかし逃げてしまえば二度と戻って来られないと思う……。僕は机の脚の錆を爪で引っ掻いて奥歯を噛み締める。
耐えろ、耐えろ……。
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