第18話 死んだらいけませんよ
スミは諦めたように顔を上げて笑った。
爽やかさの奥に後悔の潜む表情。無理に笑っている。僕はスミをじっと見ているだけで、声を掛ける事さえ出来ない。
「この前、タイチ君も秘密を話してくれたよね」
学校へ行ってなかった事か。僕はスミの顔を上目遣いに確認して小さく二度頷いた。
「私も、秘密を教えるね」
スミの手が格子の隙間から伸びて来る。その真っ白な両手が僕の顔に触れた。その瞬間、僕の呼吸が止まった。
スミの手は氷のように冷たかった。
「私の体温。さっき計ったらまた下がってた。マイナス2℃だってさ」
「マイナスって――」
スミは両手を放す。
触れられていた僕の頬は霜焼けになったように痒かった。
「笑っちゃうでしょ。私ね、病気なんだ。体温がどんどん下がって、そのうち全身が凍っちゃうの。とうとう血まで凍るようになっちゃったんだね」
ウソだろ……。
僕はぽそりと溢した。
スミは口元に不自然な笑みを蓄えたまま首を横に振る。
「ホントだよ。もう肺だってシャーベットみたいだもん。だから上手く息が出来なくて咳が出ちゃう」
スミの笑顔はいつもより儚く見えた。目の前にいるのにとても遠くにいるような、手を伸ばしても決して届かないような。
そんな気がした。
「病院は、行ったのかよ」
「色んなお医者さんに診てもらった。でも治療法が分かる人は誰もいない。原因だって分からないの。だから私はどんどん冷たくなる」
「待てよ、病気なんだろ。だったら普通は入院したりするんじゃないのか。どうしてこんな物置小屋に閉じ込められてるんだ」
まあ色々ありまして、とスミは静かに語り始めた。
「私が生まれたのは、ずっと北の小さな町。冬には何メートルも雪が積もる、寒さの厳しい所。小さい頃はお母さんとお父さんと一緒に暮らしていたの。で、私が病気になったのは六歳になった頃だったかな」
六歳と言えばちょうど小学校へ上がる齢だ。スミは初めから学校という世界から切り離されていた。
「今でも覚えてる。風邪をひいて熱を測ってもらったら、体温が31.0℃しかなかったの。それからずっと体温が下がり続ける。お母さんとお父さんは色んなお医者さんに私を診せに行った。ヨーロッパの最新の薬や、アジアの漢方薬も試した。でも何をやっても効かなかった」
スミは窓際で頬杖をつく。辛い話なのに懐かしそうな顔をしていた。
僕は格子窓の側の土壁に背を預ける。
「母さんと父さんはどこにいるんだ」
スミは淡泊に答える。
「死んじゃった」
僕は言葉を失った。
スミは懐かしげな表情のままでいる。
見ているこっちが辛い。
「私が九歳の頃だと思う。あの時はまだ体温も10℃はあったかな。寒い冬の日だった。お母さんとお父さんの乗った車が雪で滑ってね、谷底に落ちちゃったの。それで二人とも死んじゃったの。私は一人になった」
僕はスミの話をじっと聞いていた。壁にもたれたまま、夜の小川と花の散った桜に目を向け続ける。
どうしてもスミの顔を見る事は出来なかった。
「それから私は色んな親戚の家を回った。でもどこも生活に余裕がなくて、長く住む事は出来なかったよ。変わった病気も持ってたしね。それで最後はこの町の地主さんに引き取られた。ここの地主さんね、遠い遠い親戚なの」
「待てよ。地主さんとは血が繋がった親戚なんだろ。どうしてこんな所に閉じ込められるんだ」
「ホントに遠い親戚なの、ほとんど他人みたいなモノ。で、ここは地主さんの家でしょ。変な病気を持った子がいたら地主さんの評判が悪くなる。だから私は隠れて生活しなさいって言われた。そりゃそうだよね、私がいたら家中が寒くなっちゃうもん。だから私は物置小屋で暮らしてるんだよ」
何だよそれ……。
スミは何も悪い事なんてしていないのに、どうしてこんな酷い仕打ちを受けるんだ。
僕は何とも言えない嫌悪を覚えた。するとスミは察したように両手を振る。
「あ、地主さんを悪く思わないで。私を引き取ってくれただけでもありがたい事なんだから。だからタイチ君は怒らないで」
くそっ――。
この怒りをどこにぶつければ良い。肺の中の空気が濁ってゆく。
せめてスミも世界を、人生を、運命を呪っていてくれれば気持ちが楽だった。それなのにスミは全てを受け入れるように優しく微笑んでいる。
僕なんかよりも、ずっと辛い境遇だったのに……。
「スミ……」
僕の口からぽつりとこぼれた言葉。それを耳で拾ったスミは、ぱっと花が咲いたように笑顔になる。
「やった。今日も名前で呼んでくれた」
スミの声が生命感を帯びて明るくなる。格子窓を掴んだスミは僕に目を向け、白い歯を見せて笑っていた。
この笑顔を見ていると無条件で胸が熱くなる。
「スミっていうのは、お母さんとお父さんが付けてくれた大切な名前。私の宝物」
そう言い切るとスミは窓の縁に白い頬を乗せ、僕の顔を下から覗き込む。
「私をスミって呼んでくれるタイチ君は私の友達。私の世界を広げてくれたのはタイチ君なんだよ。とってもとっても大切な友達」
大切、か。
僕を必要としてくれている人がいたなんて初めて知った。
「私の周りには誰もいなかった。病気のせいで気味悪がられて、ずっと一人ぼっちだった。そこにタイチ君が現れたの。タイチ君はね、私の初めての友達なんだよ」
僕の胸はみるみる熱くなってゆく。血が沸騰して肌を破って出てきそうだ。
「タイチ君。初めて会った夜の事、覚えてる?」
「うん。あの夜は川が増水していて――」
僕はあの夜を思い返した。前日の雨で増水した濁流がうねり、桜の花びら達を飲み込んでいた。
僕の思考の隙間に、スミの透明な声が滑り込む。
「あの時、死のうとしてたんだよね」
冷たい呼吸が耳に掛かった。
どうしてそれを……。
僕は何も返せない。言葉も思考も停止し、凍ったように体が固まる。
「私ね、知ってたんだよ。タイチ君が川辺にぼーっと立ってるの、二階の窓から見てたから。タイチ君はあの時、死のうとしていた」
僕は黙るしかなかった。でもスミは返答を求めない。問い質さず、優しい声で続けてゆく。
「私が本を落としたのも偶然なんかじゃない。ワザとなんだよ。タイチ君に気付いてほしかったから、自分から死ぬなんてダメだと思ったから」
ふとスミを見る。彼女は僕に顔を近付けて目を細めた。
「死んだらいけませんよ。生きてたら良い事は必ず起こるんだから。だって私みたいな物置小屋暮らしでも良い事あったもん」
スミは不意に僕から視線を外して俯いたかと思うと、またゆっくり顔を上げて僕を見据えた。
少しだけ頬が赤らんだように見える。
「私はタイチ君に出会えた。私に友達が出来るなんて思ってもなかったもん」
スミはそう言って格子の間から夜空を見た。
「私は夜が大好き。タイチ君が会いに来てくれるから。こんなに楽しくて嬉しくて幸せな事ってないよ」
僕は死んでも良い人間だと思っていた。誰も悲しまないと思っていた。
でも、スミは悲しむのだろうか。スミだけは悲しんでほしくない。だったらやっぱり、死ぬのは良くないかも。
「ねえねえ。タイチ君は私の事どう思ってるの」
「僕にとっても大切な、友達だよ」
それ以上の事、言えるはずがない。
恥かし過ぎるから――。
僕はスミに友情とは別の気持ちを抱いていたと思う。でもそれが何だか分からないし、簡単に口に出来るような事でもない気がした。
嬉しそうに床を踏み鳴らすスミ。「すぐにボタン付け直すから待ってて」と言って再び針と糸を取った。
時々スミの小さな咳が聞こえる。
ケホケホ、ケホ。
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