第17話 見られちゃった、ね

「英語ってアメリカとかイギリスの言葉だよね」

 難しそう……、とスミは眉を寄せた。白い顔に格子の影が落ちている。

「難しいなんてモンじゃないってば。学校なんて何か月も休んでたから、勉強もさっぱり分からないよ」


 窓枠に顔を乗せるスミ。柔らかそうな頬がぺたんと崩れる。

 スミは僕の話を楽しそうに聞く。保健室での何気ない事なのに、スミからすればどれもが新鮮らしい。


「そうだ。タイチ君、こないだの本どこまで読んだ?」

「朽木の国で王様と会った所だよ。今からオアシスを探しに行く」

「ちょうど半分くらいだね」


 僕は字を読むのが遅い。

 マンガなら二十分もあれば一冊読み終えるけれど、字だけの本だとかなり時間がかかる。

 もう借りてから一ヶ月くらい経っている。それでもスミは文句も言わず、僕の感想に耳を傾けていた。


「あ、タイチ君。その服――」

 スミは格子を握って僕の胸元に目を向ける。

「ほら、取れかけてるよ」

 シャツのボタンが取れかけていた。糸がほつれてボタンがぶら下がって、今にも落ちてしまいそう。


 するとスミが格子窓から手を伸ばした。

「貸してタイチ君。私が付けるから」

 え、そんな……。


 僕は言葉が出て来なかった。

 スミはにこにこ笑って白い手を僕に近付ける。女子にボタンを付けてもらうなんて恥ずかしかった。

「大丈夫だって。私、お裁縫ならちょっと出来るんだよ」

 ほらほら、と促すスミ。

 僕は観念してシャツを脱いで渡し、夜風に触れた腕をさする。Tシャツ一枚だと夜はまだ肌寒い。


 シャツを手にしたスミは「針と糸取ってくる」と残して梯子を登って行く。ごそごそ物音が聞こえた後、スミは小箱を脇に抱えて戻ってきた。

「なんか、ごめんな……」

「どうして謝るの。良いんだよ、タイチ君はいつも私に会いに来てくれる。そのお礼だよ。私もタイチ君の役に立ちたいし」

 スミは床に裁縫箱を広げ、窓際に立って月明かりで手元を照らした。糸の先を舐めて濡らし、慣れた手つきで針に糸を通す。

 スミの湿った舌先を見て変な気分になった。


「それに何かしてもらった時は『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だよ」

「う、うん。ありがとう」


 どういたしまして、と僕を見上げて柔らかく微笑むスミ。その笑顔が僕の胸の内側をくすぐった。

 僕の着ていたシャツをスミが胸に抱いている。

 シャツにスミの匂いが移ってしまいそう。僕はあれを着て帰るのか。考えただけで歯茎が浮くように痒くなる。

 スミは目を細めて針を操ってゆく。頼りない月明かりだけだと薄暗く、手元が見え難そうだ。スミは何度も角度を変えながら糸を通していた。

 すると――。


「痛っ」


 スミの顔が歪んだ。片目を固く瞑り、歯の隙間から息を吸って、左手をぷらぷら振っている。

「大丈夫か!」

 僕も声を荒げた。いたたた、と左手を押さえるスミ。

「血が出てるじゃないか……」

 親指の腹から血が出ている。血の雫は白い指先でぷくりと膨らみ、スミの指を伝って床に落ちていった。


 かつん。


 ん、何だ今の音は。

 小石やBB弾を落とした音みたいだ。

 スミは悪戯を見つかった子供のように青くなって僕を見ていた。胸に抱える左手。親指からまた赤い雫が膨らむ。

「貸してみろ」

 僕はスミの手首を掴んだ。


 スミの血を見て目を疑う。

 常識では考えられない事が目の前で起こっていた。

 僕は恐る恐るスミの傷口に指を添える。どうなっているんだ、これは……。信じられないけれど、スミの血に触れて分かった。


 血が凍っている。


 膨らみ切った血の雫は小粒の赤い真珠のようになって床にこぼれる。

 かつん、ぱらぱら。

 跳ねて固い音を鳴らした。


 僕は弾かれたようにスミの手を放した。

 一歩二歩と後ずさるスミの足音。

 川のにおいを孕んだ生温かい夜風が僕の首筋に触れてゆく。息を切らして顔を伏せるスミ。

 僕は引き攣った笑顔でスミの傷口を凝視していた。

「それって……どうなってるんだよ」

 僕の声に反応してスミは肩を震わせた。口をへの字に結んで左手を胸に抱いて隠している。それでも指から落ちる血の雫がまた床に転がった。

 かつん、ぱらぱら。

「あ、あぁあ」

 俯いて溜息をついたスミはぽつりと言った。


「見られちゃった、ね」

 

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