第14話 お腹痛い、です

 こんな時間から外へ出たのは久しぶりだ。

 涼しい空気が寝惚けた頭を覚ましてくれる。電線にはスズメがとまって高い声で鳴いていた。

 こんな爽やかな空間に、僕は場違いだろう。


 周りの目を気にするように進む。鞄を持ち替えると取手の痕が付いていた。僕は角を曲がる度に身を低く構える。誰にも見られたくなかった。


 郵便局の角を曲がると、田んぼに挟まれただだっ広い一本道に差し掛かる。ポストの影からそろりと覗き、僕は息を飲んで立ち止まった。

 セーラー服の女子が三人、その先にスポーツバッグを肩に掛けた男子が二人いる。うちの中学の生徒だ。


 僕を知っている人だったらどうしよう……。


 学校に近付けば近付くほど、同じ中学の生徒が集まって来るだろう。そうなればきっと僕は注目に晒される。最初は見慣れない奴がいるぞと好奇の目で見られる、そのうちオカマ走りのタイチだと指を差される。

 そんなの耐えられないよ。


 ちょっと遅れて行こう。僕は来た道を退き返した。

 僕は人通りの少ない山の方へ歩いて行った。田植えをしているおばちゃんが僕をじろじろ見ている。僕は顔を隠して小走りで逃げた。やがて溜池の前に辿り着く。対岸には長い石段が山に伸びていて、その先に神社の鳥居がある。

 あの神社で時間を潰そうか。


 溜池を迂回して石段の前に着いた。

 石段を取り囲む樹が青々とした葉を広げて太陽を遮っている。ここなら誰とも会わないだろう。僕は周りを確認してから石段に足を掛けた。一歩踏み込む度に汗が滴る。もう夏が近い。


 鳥居まで上り切った頃には息が切れていた。

 振り返って町を見下ろすと、線路沿いに中学校が見えた。同じ制服を着た人達が色んな方向から集まっている。ここから見るとお菓子に群がる蟻みたいにちっぽけだ。僕はあんな小さな人々に恐れをなして逃げ出したのか。


 この神社へ来るのはいつも夜だったから気付かなかったけれど、それにしても小さな町だ。

 暗闇は世界を見えなくする。だから広くて果てがなくて恐ろしいものに見える。光を当てて正体を暴くと何てちっぽけなんだろう。

 道を歩く中学生なんて小さい小さい。僕がここから手を伸ばせば簡単に握り潰せそうだ。僕はこんな狭い世界に怯えていたのか。今まで見えていなかった世界が見えた。

 僕は山の麓を見下ろす。小川が流れ、地主の屋敷が見える。その傍らに小さな物置小屋がひっそり佇んでいた。

 ――タイチ君が元気になりますように!

 僕はスミに元気をもらった。だから僕は頑張れるんだ。


 僕が中学校の正門前に着いた時、ちょうど一時間目の予鈴が鳴った。

 八時五十五分。あと五分で授業が始まる。この時間なら生徒は教室で大人しくしているだろう。

 泥棒みたいにコソコソ正門を潜り、木陰に隠れて校舎に入った。ロビーのガラスケースには運動部の賞状やトロフィーが並んでいて、壁掛け時計がコチコチと秒を刻む。

 僕は二年一組らしい。階段で二階に上がってすぐだ。

 僕は急に金縛りに遭ったように体が動かなくなった。霧が掛かったように廊下の先を見通せない。この建物は僕の世界と繋がっていないのか。


「お、タイチ!」


 誰かが僕を呼ぶ。肩が震えた。廊下の向こうから小走りの足音が聞こえてくる。

 おずおず顔を向けると、担任の田島先生がいた。

「来てくれたか。先生は嬉しいぞ!」

 朝から声が大きい。体育会系らしいジャージを着て、脇に出席簿と教科書を抱えている。英語の先生だったのか。先生は僕の肩に腕を回して笑っている。暑苦しいし、馴れ馴れしい。


「さっきホームルームでみんなに言っといたぞ。今日こそタイチが来てくれる、これで二年一組が勢揃いだってな!」

「え……」


 何だよそれ。勝手にハードル上げんなよ。

 僕の膝が震え出した。手も冷たくなって感覚が抜けてゆく。先生の無神経な笑い声も遠くに霞んできた。

「よーし、先生と一緒に教室へ行こう。きっとみんなびっくりするぞ」

 先生は僕の肩を抱いたまま歩き出そうとする。僕は反射的に踏ん張って拒絶した。先生は意外そうに僕を見下ろす。


「ちょっと、待ってください……」

「ん、どうかしたか」


 どうかしたか、じゃない。こんなの晒し者じゃないか。

 きっと僕は別の世界から来た珍しい動物みたいに観察される。その内、誰かの笑い声がくすくす聞こえてきて、それで、それで――。


「お腹痛い、です。トイレ……」

「あ、そうか。じゃあ先生は先に行ってるぞ。一時間目は英語だからな。レッツスタディイングリッシュだ」


 先生は上機嫌で鼻歌まじりに階段を上がって行った。

 僕はトイレに駆け込む。

 個室に鍵を掛けて頭を抱えた。気持ち悪くなって吐いた。吐いた物が僕のスニーカーに撥ねる。朝食べた物が全部出た。胃液と鼻水、それに混じって涙も出てきた。


 水を流してよろよろ個室を出た。

 トイレの隣に階段がある。見上げると真っ黒な霧がもうもうと立ち込めて行く手を遮っていた。ここから先はどうなっているんだ、行くと僕はどうなってしまうんだ……。この先に僕の知っている世界はない。


 僕は階段に背を向け一階の廊下をさまよう。

 その時、一時間目開始のチャイムが鳴って心臓が飛び出そうになった。教室に上がるのがこわい。

 ふと職員室の隣にある部屋のプレートが目に入った。僕はその部屋にとぼとぼ歩み寄ってゆく。


 今の僕にはこれが限界だ。

 僕は保健室の前で立ち止まり、扉に手を掛けた。

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