第7話 またスミって呼んでくれた
夜の十一時半。僕はパジャマからシャツとジーンズに着替えた。
静かに部屋のドアを開け、金具が鳴らないようにノブを捻ったまま閉める。
マンガを入れた紙袋を脇に抱え、忍び足で両親の寝室の前に立つ。隙間から明かりは漏れ出ていない。ドアに耳を当てると中は一切の無音。ようやく寝静まったようだ。
深夜の外出は両親に知られないようにしよう。また詮索されたら面倒だ。息を殺して階段を下り、スニーカーを持って玄関の戸を開ける。冷えた夜気が僕の頬に触れた。
さあ今夜もスミに会いに行こう。
街灯も少ない暗い夜道を行く。
スミの所へ辿り着くまでが冒険だ。僕は囚われの姫を助けに向かう勇者、などと想像して一人で恥ずかしくなった。
バス停の所に自動販売機がぼんやり光を放っている。
今日も長く話をするつもりなので飲み物を買って行こう。肌寒いので温かい物が良い。ショート缶のコーヒーのボタンを押した。
カエルの鳴き声がうるさい田んぼの畦道を抜け、山側へ向かって川沿いの道を歩く。この先には田畑しかないので夜は人通りがない。僕の足音だけが鳴っている。
辺りに桜の花びらが舞い始めた。日に日に桜の花が減ってゆく気がする。もう今年の桜も時期を終えるのだろう。
スミの物置小屋が見えてきた。自然と僕の歩くペースが上がる。僕は堤を下って草むらを小走りに進み、物置小屋の裏手に回った。
僕は格子をノックする。コツコツ固い音が中に響いた。
「僕だよ。約束通りマンガ持ってきた」
暗闇の先に白い影が動く。
スミだ。
すると上擦った声が返って来る。
「タイチ君――ちょ、ちょっと待って」
格子窓からスミを見た僕は息を飲んだ。
下着をつまんだスミの指、前を隠して丸くなった白い背中。スミは裸だった。
「ご、ごめんっ!」
僕は土壁に背を張り付け、そのままずるずる下がって草の上にへたり込んだ。
「私こそごめんなさい。す、すぐ着替えるから――」
しゅる、しゅるしゅる。
生々しい衣擦れの音が聞こえる。
呼吸を整えようと胸を押さえる。鼓動が激しくなっているのに今気付いた。口から心臓が飛び出そうだ。
僕は見てしまった。
ミルク色の陶器みたいなすべすべの背中、膨らみかけている胸、あまり肉のついていない小さな尻。
鎮まれ、落ち着くんだ僕。
穏やかな小川の流れを眺めて呼吸を整えようと試みる。しゅるしゅる。格子窓から衣擦れの音がこぼれてきて僕の胸をかき乱す。スミはどんな姿をしているのだろう。余計な想像が頭の中を駆け廻った。
余計な事は考えずに落ち着け。僕は買ってきた缶コーヒーを開けて喉に流し込む。思わず「熱っ」と声を漏らした。
やがて頭上から細い声が降ってくる。
「お待たせしました……ごめんねタイチ君」
見上げると格子の向こうにスミの顔があった。真っ赤になっている。むぐむぐ口唇を擦り合わせて視線を泳がせていた。
「着替え中だったなんて知らなかったからさ。こっちこそ急に覗いて、ごめん――」
スミは「う、うん……」と相槌を打ったきり口籠った。僕も決まりが悪くて黙ったままだ。格子を挟んで斜めに立つ僕とスミ。気まずい沈黙を小川のせせらぎが埋めてゆく。
手持無沙汰になってコーヒーを一口飲む。まだ熱い。舌先にピリッと刺激が走る。さっき焦って飲んだ時に舌を火傷してしまったようだ。
「何飲んでるの」
スミは上目遣いに僕を見ている。僕と目が合うと「あ、あ……」と漏らして気まずそうに視線を僕の手元に滑らせた。
「コーヒーだよ。一日三本は飲まないと落ち着かないんだ」
「へえ。タイチ君って大人っぽい」
スミは感心したように頷いている。
嘘だ。本当はあまり飲まないし、苦いからそれほど好きでない。けれどもスミの前だから背伸びした。
「私、コーヒーって飲んだ事ないの」
ええっ、と僕は聞き返した。大げさな僕の反応を見て、スミは恥ずかしそうに続ける。
「おばさんがご飯と一緒に持って来るのはお
「そのままだと苦いけど、砂糖やミルクを入れると甘くなるんだ。僕はあまり甘くしない方なんだけど」
本当はカフェオレくらい甘いのでなければ飲めない。今の缶コーヒーも無理して微糖の物を選んでいる。
「砂糖にミルク? そんなのお茶には入れないのに。どんな味になるんだろう」
スミは顎に手を置いて首を傾げている。スミはコーヒーの味さえも知らない。スミの世界にはコーヒーは存在していない。
僕はスミに缶コーヒーを差し出す。
「良かったら飲んでみれば」
「え、良いの」
スミは嬉しそうに微笑んで格子の間から手を伸ばした。白い手に掴まれた缶は物置小屋の闇の中へと入ってゆく。スミは匂いを嗅いで不思議そうな顔になっていた。
スミの口唇が缶に近付く。
あっ、ちょっと――。
そのコーヒーは僕が口を付けている。同じ飲み口にスミも口を付けようとしている。
それって……。
スミもぴたりと動きを止め、弾かれたように僕の顔に目を向ける。目を丸くして無言で僕を見ている。どうやらスミも気付いたらしい。
「あ、ああ。それって僕の飲みさしだし、新しいの買ってくるよ。ちょっと行った所に自販機あるし――」
次の瞬間、僕の心臓が跳ねる。
スミは両手で包むように缶を持って、飲み口に口唇を付けた。
缶を傾けてコーヒーを口に含む。細い喉がひくひく動いた。飲み方が下手なのか、口唇の横から少し漏れている。スミの顎から首筋へと、コーヒーの水滴が肌を舐めるように胸元へ滑り落ちていった。
缶を放した時、口唇から飲み口に唾液の糸が繋がり、月明かりに白く照らされていた。
「あったかい。ちょっと苦いけど、甘くておいしいね」
スミは目を細めて幸せそうに笑った。彼女は格子の間から缶を差し出し、僕はそろりと受け取る。僕の目はスミが口を付けた部分に釘付けになっていた。
僕の視線がどこに向いているか気付いたのか、スミは袖で口元を隠して黙り込む。また気まずい沈黙だ。
「あ、そうだ――。昨日言ってたマンガ持ってきたんだけど」
僕は土の上に缶コーヒーを置いて、マンガの入った紙袋を持ち上げた。
「ホントに持って来てくれたんだ。ありがとうタイチ君」
格子の隙間から手渡すとスミは早速ページをぱらぱら捲り始めた。「わあ、絵が多いね」と当然の事に感心している。
「あの。どういう順番で読めば良いの」
「右から左のコマへと進んでいくんだ。右のページを読み終えたら左のページに続いてる。たまに見開きのコマとかあるけど、だいたいの雰囲気で読めば良いと思う」
そう教えてあげるとスミの目が不器用そうに動く。コマを追っているらしい。セリフをぶつぶつ読んでいる。知っているマンガを声に出して読まれると何か恥ずかしい。
「これってどんなお話なのかな」
「ライジングサンって異世界の街に、色んな能力者が集まって来て戦うんだ」
「のうりょくしゃ?」
「炎を操ったり氷を操ったり、色んなタイプがいる。お互い相性とかもあって、駆け引きなんかも面白いよ」
へえぇ、と頷きながらページを捲り続けるスミ。興味を持ってもらえただろうか。スミはぱとりと本を閉じ表紙をじっと見ている。
「ライジングサンって何て意味だっけ」
「たしか朝日だったと思う。そのマンガの中にも出てきてた」
「朝日、か……」
ぽつりと呟くスミ。彼女は本を胸に抱いて星空を見上げる。濃紺の空には舐めて溶けたパイン飴みたいに欠けた月が浮かんでいた。
「タイチ君は朝日って見た事ある?」
「それは、まあ……」
どうせ学校なんて行かないし、夜更かししてゲームする事もある。気付けばカーテンの隙間から陽が入って来ていたりもした。
「朝日って綺麗なのかな。私、見た事ないんだよ。ほら、ここって北側にしか窓が付いてないでしょ。だから一日中太陽が見えないの」
スミは困ったように笑っていた。
太陽を見られない――。
そんな不自由な事ばかりなのに、スミはどうして笑っていられるのだろう。悲しい顔の一つでも見せてくれても良いのに。
「朝日、見たいの?」
「うん。でも私には無理。私と外を繋ぐのはこの格子窓だけ。扉なんてないんだもん」
スミは儚く微笑んで格子を握る。
牢屋を思わせるくらい太くて頑丈な木だ。僕は土壁を見上げた。二階に小さな窓がある。人ひとり通る事も出来なさそうな狭さ。通れたとしてもあの高さからは飛び下りられない。
「本で読んだよ。朝日ってキラキラしてるんだってね。いつか私がここから出られたら見てみたい――」
言葉の途中でスミは口元を押さえて咳込み出した。ケホケホ、ケホ。水気のない乾いた咳を何度も繰り返す。
「お、おい。大丈夫か」
スミは咳込みながら、僕から逃げるように物置小屋の奥へ退いた。
それでも白い素肌とワンピースだけが暗闇にぼうっと浮かんで見えた。
「スミ、どうしたんだよ!」
布団に蹲ったスミは激しい咳を繰り返す。
喉が裂けて血が出るんじゃないかと思った。スミは細い身体を折り畳んで布団に顔を埋める。
やがて咳は治まった。
スミは布団に膝をついたまま息を切らしている。スミは動こうとしない。僕は格子を握り締めてスミを見詰めていた。薄ら寒い冷気が物置小屋から漂い出て僕の首筋を触れてゆく。
「スミ……」
名前を呼ぶと、スミは辛そうに息を荒げて床板の上を這ってくる。その動きが幽霊みたいで怖くなった。
スミは窓際まで来ると壁に身を預けながら立ち上がる。
枯れ枝のような細い指が格子に絡まる。乱れた黒髪の間からマシュマロみたいな肌が覗いた。
「また、スミって呼んでくれたね。しかも今日は二回も」
良かった、いつものスミだ。スミは柔らかそうな頬に笑窪を作って微笑んでいる。嬉しそうなスミの顔を見て安心した。
「ひどい咳だったけど風邪?」
「うん。ちょっと調子悪い、かな」
にこにこしているスミだがまだ呼吸が荒れている。口元は笑っていても鼻からすぅすぅ息が漏れていた。
「でも大丈夫……ホントに大丈夫だもん」
スミは格子を掴んで身体を支えている。まだ小さい咳が何度か出ていた。
「もう今日は無理しないで寝た方が良いと思う。温かくしてたらすぐ治るから」
「そ、そうかな」
スミは寂しそうに僕を見てくる。
遊んでほしそうな子猫みたいな瞳。そうやって見詰められると僕はまた変な気持ちになってしまう。
「タイチ君。明日も来てくれる?」
「スミが風邪を治すならね」
するとスミは僕に顔を近付けてにんまり笑う。
「やった。またスミって呼んでくれた」
僕は咳払いして顔を逸らした。
川辺に並ぶ桜の樹。花は徐々に減り、桜の季節が終わろうとしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます