第4話 ゆーび切った

 散る桜が月明かりに揺れる。

 石段を下り、溜池を迂回し、小川沿いに歩いていると物置小屋が見えてきた。


 草むらを踏み分けて裏手へ回る。僕は物置小屋を見上げた。改めて頑丈な作りだと思う。時代劇に出て来る土蔵みたいだ。

 すると二階の窓から声が聞こえた。


「あ、タイチ君!」


 スミがいた。

 彼女は小声で僕の名前を叫んだ。窓を閉めたスミは下に降りてきて、格子窓から顔を見せた。


「今日も来てくれたんだ」

 スミは今夜も物置小屋にいた。僕の顔を見るなり花が咲いたように微笑む。

 僕は逃げるように顔を伏せた。スミの顔を真っ直ぐ見られない。目を見ようと思っても勝手に顔が下を向く。

 どうしてだろう。


 僕は土壁に背を預けて立った。

「いつも物置小屋にいるの?」

「うん。私はここに住んでるから」

 住んでる。

 その言葉に驚いた僕ははっと格子窓に向く。


 目の前にスミの顔があった。呼吸が当たりそうなくらい近い。僕は「あっ」と漏らして顔を伏せた。

 いつの間にかスミが僕の方へ寄って来ていた。土壁越しだけれどスミと僕の距離は三十センチもない。女子とこんなに近くで話すのなんて生まれて初めてだ。


 それより――。

「ここに住んでるって、どういう意味だよ」


「そのままだよ。私の家はこの物置小屋。ここで暮らしてるの」


 扉に鍵を掛けられ一人で暮らしているというスミ。しかし監禁されている様子でもなさそうだ。

「何か、色々不便そうだね」

「ううん。ここでの生活も良いよ。本だってたくさんあるし、ご飯はおばさんが持って来てくれるし」

 おばさんとは地主の家の人だろうか。とにかく母親ではないようだ。


 昨日、荒れていた川は嘘みたいに静まっている。桜の花びらを浮かべて薄桃色の水玉模様を描いていた。

 もしかして――、とスミは小声で続ける。

「私に、会いに来てくれたの……かな」

 僕はわざとらしいほど首を横に振った。

「違うよ、散歩のついでだって。帰りに物置小屋が見えたから寄ってみただけ」

 激しく否定するとスミは「そっか」と呟く。僕の腹もキリキリ痛んだ。すごく悪い事をしてしまった気がした。

 沈黙を嫌うようにスミが不自然に明るい声で会話を繋ぐ。


「散歩ってさ、どこに行ってたの」

「あ、ああ。神社だよ。ここからでも見えるかな」


 僕は山の方を指差した。スミは格子に顔を押し付けて限界まで右を向く。木の格子に押され頬が柔らかく潰れていた。


「うーん、見えないなあ。それってここから近いの」

「歩いて二十分ぐらい。最後の石段がキツイけど」


 僕からは神社が見えていた。溜池の向こうの山の中に、木々の間から鳥居が頭を出している。


「神社って事はお参り?」

「ううん。あの神社からはこの町が見下ろせるんだ」


 そう言った瞬間スミの瞳が輝いた。僕は得意になって神社からの眺めを説明する。

「駅だって家だって学校だって何もかもが小さく見えるんだ。地主さんの屋敷だって上から見たらマッチ箱より小さかったよ。それに家の明かりが綺麗なんだ。きらきら光って星みたいだった」

 話を聞いていたスミは窓枠に肘を置いてうっとり夜空を見上げる。黒い瞳が月光を反射して淡い銀色の光を蓄えていた。


「きっと綺麗なんだろうな。私も見てみたいな」

「行ってみれば良いじゃん。神社だってすぐ近くなんだし」


 僕がそう言うと、スミは口唇を尖らせて下を向く。薄い口唇がぽそぽそ動いた。


「ダメなの。私、ここから出ちゃいけないから」


 スミは顔を上げて儚げに微笑んだ。夜風に踊る花びらが格子を抜け、物置小屋の闇へと溶けて消える。

 どうしてだよ、とさえ聞けなかった。スミが聞いて欲しくなさそうにしていたから。

 僕はスミの向こう側に広がる薄闇に目を凝らした。七畳ほどの板の間に布団が敷いてある。奥の棚に本がみっしり詰まっていた。

 世界とは地球の事ではない。

 目で見え、手で触れられる範囲だけが世界だ。この物置小屋がスミにとっての世界なのか。

 あまりに狭い。

 これでは籠の鳥だ。


 ふと気付いた。

 なんだ、それなら僕も一緒じゃないか。

 テレビとマンガとパソコンのある部屋。あれが僕の世界だ。僕にあれ以外の世界は必要ない。


 それにしても寒い。

 物置小屋の中から冷気が漂ってくる。冷房を効かせてあるのか。まだ四月になったばかりで、日によってはヒーターをつけたくなる時もある。スミは暑がりなのだろうか。そういう風には見えないけれど。


「タイチ君。学校ってどんなの?」

「え、スミは学校行ってないの?」


 思わず僕は聞き返した。

 スミの頭がこくりと振れる。

 ここから出ちゃいけない――。

 スミの言葉を思い出す。学校へ行く事さえ許されていないのか。


 僕は中学校の事をスミに説明した。

 三十人くらいのクラスで勉強して、春の宿泊学習や秋の体育大会なんかもある。去年の文化祭では合唱の発表があった。行事を通じでクラスメイトと仲良くなる場合が多い。

 当たり障りのない事を並べておいた。スミは窓枠に頬を乗せて「わぁ楽しそう」と呟く。


 僕は言葉に詰まった。

 学校なんて全然楽しくない。けれどもスミの無邪気な瞳に見詰められると、僕も本当の事を言えなくなる。


「学校で友達とどんな話するの」

「そうだな。マンガとかゲームの話かな」


 嘘だ、全部嘘だ。


 僕に友達なんていない。

 オカマ走りと馬鹿にされてみんなの笑い者になり、学校という世界から逃げ出して部屋に閉じ籠っているんだ。学校が楽しいだなんてとんでもない。


 僕は横目にスミを見る。

 いいなあ、とスミはうっとりした目で夜空を見ていた。新雪のように白く柔らかそうな頬。スミの顔が手を伸ばせば届く距離にある。触れるとどんな感じなんだろう、と頭を過った途端に胸の中がざわめく。


「ねえタイチ君。もし良かったら、私と友達になってください」


 えっ、と声を漏らした僕。スミは恥ずかしそうに顔を伏せる。白い頬が桜色に染まっていた。

 それを見て僕も恥ずかしくなってきた。

「僕なんかと友達になっても、つまんないと思うよ……」

 ふるふる顔を振るスミ。小さな子供みたいな仕草だ。

「私はこうしているだけでも楽しいもん」

 スミはにこりと微笑んで顔を伏せた。

「タイチ君、さっき一度だけ私の事をスミって名前で呼んでくれた。友達っぽくて、すごく嬉しかったんだよ」

 ぽそりぽそりと言葉を繋ぐスミ。両手で頬を押さえて身体をもぞもぞ揺らす。

 僕が何も答えずにいるとスミの笑顔が消えそうになる。

 彼女は捨て犬のような不安げな目で僕を見上げていた。僕は咳払いして土壁に背を預ける。


「分かった。また明日も来るよ」


 横目に見ると、スミは格子を握ったまま顔をくしゃりと崩して笑っていた。

「スミは知らない事が多そうだもんね。面白いマンガとか持って来てあげる」

 するとスミの顔がぱっと明るくなった。

「またスミって呼んでくれた」

 僕は弾かれたようにスミから顔を背ける。何だよこの感じ。呼吸のリズムを上手に取りにくい。


「嬉しいな嬉しいな。もう私とタイチ君は友達って事だよね」

「そ、そうだよ」


 きっと僕の顔は火照っている。こんなのスミに見せられない。もし見られたら、どう思われるだろう。

 小さな声が耳元で聞こえた。

「あのね――」スミは囁く。


「一つだけお願いがあるの」

「お願いって……何」

「私とここで会った事、誰にも言わないでね。怒られちゃうから」


 怒られるってどうして、と尋ねたけれどスミは言い難そうに口唇を震わせる。

 僕はスミの返事を待たずに「分かった。誰にも言わないよ」と答えた。スミの表情がまた明るくなる。


「約束だよ――」


 スミの真っ白な手が格子の間から這い出て来る。

 女子の手だ。僕より一回り小さいし、指も細い。それにしっとりしているように見える。その手が小指を伸ばした。


「指切り、しよ」

「え、ああ。うん……」


 僕は、スミに触れるのか……。

 胸が熱くなって、舌の上が乾いてゆく。どうしよう、どうしよう。戸惑ったが僕も手を差し出し、スミと小指を絡ませる。僕は生まれて初めて女子の手に触れた。


 え、何だこれは……。


 スミの手に触れた瞬間、僕は声を上げそうになった。

「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます」

 満面の笑顔を見せるスミ。

「ゆーび切った」


 その手は氷のように冷たかった。

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