第2話 もう関わらない方が良い
部屋のドアがノックされる。毎朝九時の恒例行事だ。
僕は無視して布団に包まる。十秒くらい無視し続けると、ゆっくりノブが回りドアを開けられた。
勝手に開けるんだったら最初からノックなんてするなよ。
「タイチちゃん。今日も具合良くないの?」
母さんだ。
弱々しい声で呼びかけてきた母さん。僕は頭まで布団を被る。
「あ、良いのよ。別に無理しなくて。具合が悪いなら仕方ないし……。昨日の夜、担任の先生から電話があったの。今度先生が家にいらっしゃるかもしれないって。タイチちゃんとお話ししたいって――」
「うるさい」
僕が遮ると母さんはぴたりと黙り、ごめんねと繰り返した。
「じゃあ母さんはパートに行って来るから、ご飯は冷蔵庫に入れておくね。何かあったら携帯に電話して。夕方には帰るけど、何か買って来て欲しい物ある?」
無視した。母さんは「あぁ……」と一人で力のない相槌を打つ。
「タイチちゃん一人でお留守番だけどお願いね」
ドアが閉まる。階段を下りてゆく足音。
玄関のドアが閉まり、鍵も掛かった。僕は大きく背伸びしてから深い溜息を吐いた。
ここからは僕の時間だ。
午前九時。
学校では一時間目が始まった所だ。僕には関係ない。ベッドから降りた僕は部屋を出て、忍び足で階段を下りてキッチンの冷蔵庫を開ける。ラップを被せおにぎりと焼鮭とみそ汁。ラップに水滴が付いていて食欲が失せる。
僕は冷蔵庫を閉じ、脚立に登って食品棚を開ける。
カップ麺があったはずだ。とんこつ味のビニールを破いてフタをあけ、ポットから湯を注ぐ。
粉末スープを混ぜると白っぽく濁った。昨夜見た川みたいだ。
母さんは僕に逆らわない。
何か言っても、ちょっと怒鳴れば溜息を吐いて黙る。父さんは僕が学校へ行っていなくても何も言わない。仕事の方が楽しいのか知らないけれど、僕に興味がないみたいだ。
この前、夜中に父さんと母さんが口げんかしていた。
「あなたからもタイチちゃんに何とか言って!」
「お前が甘やかし過ぎなんだ!」
僕は部屋で怒鳴り声を聞いていた。どうでも良かった。
カップ麺を持って自分の部屋に戻った。
テレビを点けて朝のワイドショーを見る。ワイドショーが好きなわけではない。学校でみんなが勉強している時間に、家でテレビを見るのが気持ち良いだけだ。他人が頑張っている時に楽をするのは快感だ。
カップ麺を食べ終えテレビを消す。冷蔵庫からペットボトルごと麦茶を持って来てパソコンを点けた。
オンラインゲームからダイレクトメールが届いている。
新しいアイテムを入手出来るようになったらしい。ただし一〇〇〇ポイント必要なようだ。僕はアイコンをクリックしてポイントを購入する。いくら課金しても僕には関係ない。父さんの口座だし。
ゲームしてネットしてスナック菓子を食べて昼寝する。
また起きてゲームしてマンガを読んで眠たくなったら寝る。僕の一日はだいたいこんな感じだ。
時計の針がすいすい進んでゆく。それで良い。時間なんて早く過ぎてしまえば良いんだ。もしそのまま時間そのものが終わってしまえばどれだけ嬉しいだろう。
こんな世界なら早く消えてくれても良いのに。
「くっそ。どいつもこいつも僕の足ばっか引っ張りやがって」
僕はコントローラーをベッドに投げ捨てる。現在のオンライン上にはレベルの高いプレイヤーがいなかった。溜息をつき、ベッドに寝転んで時計を見て納得する。午前十一時過ぎ。みんな学校や会社に行っている時間だ。ゲームしているのなんて僕だけだろう。
カップ麺の残り汁が薄く膜を張っていた。
(ギャハハハ、気持ちわりぃ!)
僕が学校へ行かなくなったのはその一言が始まりだった。
僕は運動が苦手だ。だから体育が一番嫌いだ。冬になるとマラソンの授業が始まる。僕にとっては地獄以外の何でもなかった。
(うわぁ気色悪ぅ)
(出たーオカマ走りだー)
走る時、腕の振り方をみんなに笑われた。
しかも僕は走るのが遅い。
冬の体育の授業には『5・4・3・2・1』という地獄のメニューがある。グラウンドをまず五周走って次に四周という順に走るのだが、一人でも制限時間に間に合わないとクラス全員五周からやり直しになる。
野球部の顧問が考えたメニューらしいが、余計な事は本当にしないでほしい。体力バカの物差しで全生徒を測るのはおかしいと思う。
僕のせいで最後の一から五に戻った事もあった。
(ふざけんなよオカマ!)
(お前のせいで今日の体育走ってばっかだったじゃん)
そう罵るのは決まって体力バカだ。
いつも大声を出して大騒ぎしている騒音公害ども。学校では騒がしい奴ほど権力がある。あと足が速い奴もなぜか発言権が大きい。どちらにしろ体力バカの脳筋だ。
体育の先生も体力バカどもを止める事なく、彼らと同じように僕を罵った。もっと頑張れよタイキ、だってさ。そんな事言われても僕だって必死で頑張ったよ、すごく嫌だったけど。それに僕の名前はタイチだ。
四キロマラソンの平均タイムも僕のクラスが最下位。それも僕が悪いらしい。体育の先生は授業が終わっても僕だけずっと走らせる。昼休みも走らされて弁当を食べられない事もあった。みんなは校舎の窓から僕を見て笑っていた。
(きゃははホントだオカマ走りじゃん)
(キモいだろ、ムービー撮ろうぜ)
(何やってんの、その映像あとで私にもちょうだい)
(良いよ。タイムラインに上げとくわ)
別のクラスの知らない女子も僕を見て笑っている。みんなが僕を見て笑っている。男子も女子も、二年生も三年生も、先生も。
笑い声に殺される……。
僕は逃げ出した。体育がある日は学校へ行かないようにした。
それでも僕を観察するようなみんなの目線が嫌で、僕は全く学校へ行かなくなった。マラソン大会も僕が休んだおかげで最下位ではなかったそうだ。良かったね、本当に良かったね。
僕は家の中で生きている。自分だけの世界で生きていれば良い。誰とも関わらず、自分一人だけで命を完結させる。何も生み出さずに、何の役にも立たずに……。
じゃあ何のために生きているんだろう。生きていたって、この先きっと辛い事だってたくさんある。誰かと会えば、また貶される、また笑われる。こわい……。
もう死のう。
気が付けばパソコンで自殺の方法を調べている。ここ最近ずっとだ。
睡眠薬自殺――。茶碗一杯分の風邪薬をすり潰して飲む。吐き戻さないようハチミツやヨーグルトを和えるのがおすすめ。ウイスキーなどの高度数の酒と同時に飲むと酩酊状態に陥って効果が増す。
飛び降り自殺――。高所から飛び降りると地面に落ちる直前に気絶する、というのは間違い。むしろ激突の瞬間に目を覚ます事が多い。高さと打ち所によっては即死できずに数日間苦しむケースも少なくない。
リストカット自殺――。カミソリ程度の刃物で手首を切って自殺するのはまず不可能。湯船に浸かって体を温め、傷口が塞がらないようシャワーを当て続ける。そして手首を切断するほど深く傷つける必要がある。
風邪薬は一度にたくさん売ってくれないらしいし、話を聞けば飛び降りも恐くなってきた。リストカットに関しては論外だ。僕が考えていた入水は自殺の中でもかなりの苦しみがあるらしい。死ぬのにもエネルギーが要るようだ。
玄関の戸が開く音。ビニール袋を置く音もする。母さんがパートから帰って来たらしい。もう夕方の五時を回っていた。何もしないと時間の経つのも早い。
カーテンを閉め切った部屋で僕は仰向けに寝転んだ。
僕の頭の中を占めるのは昨夜の女の子、スミの事だ。
地主の家の物置小屋にいたのだから、地主に聞けば何か分かるだろうか。
そもそもスミはなぜ物置小屋にいたのか。物置小屋は外から鍵が閉まっている。つまりスミは外へ出られない。
まさか監禁……。
とんでもない秘密に触れたような気がして薄ら寒くなった。
もう関わらない方が良い……。
自分にそう言い聞かせた。
スミを見た事が知られると、きっと良くない事が起こる。怒られるだけでは済まないような、もっと恐ろしい事が。
それでも僕の頭からスミが離れない。雪みたいに白い肌、それを引き立たせる黒い髪、小さく澄んだ声、最後に見せた笑顔。
――またね。バイバイ。
スミの声が耳の奥に貼り付いて離れない。
布団を頭まで被っても、スミの言葉が何度も再生された。歯の奥がむずむずする。何だろうこの感じ。
やがて日が沈み、夜が更けた。
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