物置小屋のスミ

可本波人

第1話 もう死のう

「もう死のう……」


 雲の隙間から欠けた月。桜の花びらがひらひら舞い落ちてくる。

 僕はパジャマにカーディガンを羽織っただけの格好で、町外れの川辺までやってきた。増水した川を見下ろして呟いた。


 昨日降った雨のせいで、大人しい小川は泥色の濁流へと姿を変えている。落ちた花びらはくしゃくしゃになって飲み込まれていった。

 ここに飛び込めば、僕なんてコーヒーに入れた角砂糖みたいに消えてしまうと思う。

 僕は川辺に立って濁流を見詰める。騒がしく泡立ち、僕を呼ぶように茶色い渦を回していた。


 家とか学校とか、親とか先生とか友達とか。

 全部もう面倒臭いよ――。


 僕は去年の冬くらいから学校を休みがちになり、不登校のまま中学二年になっていた。

 クラスも変わったらしいけれど、今さら学校なんて行きたくない。しんどいだけだし。


 川辺の物置小屋にもたれる。土壁がひんやりと背中を冷やした。

 顔を上げて物置小屋を見上げる。

 これは、物置小屋と言うより倉だな。

 入口は固い鉄扉に閉ざされていて、格子窓の向こうは真っ黒い暗闇に包まれている。確か地主の家の物置小屋だったはず。きっと高価な壺や古い掛軸がたくさん眠っているのだろう。


 道を挟んだ向かいには、僕の家が十個以上入りそうな敷地の中に大きな母屋がある。この辺りの大地主の屋敷だ。

 こんな家の子供に生まれていれば何の苦労もしなかったんだろうな。羨ましくて悔しくて溜息が出る。


 また川に目を向け直す。濁流は激しくうねり、僕が飛び込むのを待っているようだ。


 僕が死ねば誰か悲しむだろうか。

 きっと母さんは悲しむだろうな。ギャーギャー泣いて頭がおかしくなるだろう。父さんは悲しむというより困ると思う。仕事仕事で忙しいらしいから、僕が死んだら葬式とかもあるし面倒だろうな。


 学校の連中はどうだろう。

 たぶん何日かは僕の話題で持ち切りになると思う。きっとひと月もすれば流行も去る。僕の事なんてゴールデンウィーク明けにはみんな忘れるに決まっている。


 僕は物置小屋の壁から背を離す。

 湿気混じりの夜風が僕の肩を押した。

 夜の川はおっかない。黒く深くどこまでも沈んでしまいそうだ。激しい流れは月の光さえも反射させずに飲み込んでいる。


 もう良い。さっさと死のう――。


 僕は草むらを踏み分け、川辺の石の上に立つ。

 桜の幹に掴まって川を見下ろした。荒れ狂った流れがスニーカーの先を濡らす。胸に手を置き深呼吸した。


「さよなら。つまんない世界」


 僕は濁流に飛び込もうと膝を曲げた。

 その時――。

 

 ぱさっ。

 すぐ後ろの草むらで物音がした。


 誰だ。慌てて僕は振り返る。誰もいない。虫だろうか。せっかく死のうとしていたのに気が散った。


 何だあれは。

 草むらに何か落ちている。

 近付いて屈むと一冊の本があった。

 難しそうで高そうな革表紙の本だ。中を開くと英語で文章が書いてある。挿絵はどこかで見た事があるような気がする。

 ずいぶん古そうだ。

 タイトルは――英語だから読めない。


 次の瞬間、僕の肩が引き攣った。

「あの、ごめんなさい……」

 どこかから声がした。女の人の声だ。僕は本を握り締めて辺りを見回す。

「ここです」

 物置小屋の方からだ。

 濁流の水音にかき消されそうな弱い声。

 見上げると、二階の窓から誰かが身を乗り出している。屋根のひさしが月明かりを遮って姿まではよく見えない。

「すぐ、降りますね」

 物置小屋の中から梯子を踏みしめるような音がギィギィ聞こえた。床板を滑る足音が格子窓の先から聞こえてくる。

「ひいっ――」僕は思わず声を上げる。


 一階の格子窓の向こうに真っ白な顔が現れた。

 暗闇から溶け出すように浮かび上がった白い顔。

 二つの丸い瞳がじっと僕を見ている。肩までの黒髪に白のワンピース。まるで幽霊だ。

 物置小屋の真っ暗な世界に白い肌がぼんやり浮かんでいる。


「その、あの……。本――」

 僕が硬直していたら、女の人の口唇が動いた。

「ご、ごめんなさい」

 僕はかくかく頭を下げて革表紙の本を差し出す。格子窓の隙間から雪みたいに白い手が伸びて本を掴んだ。

「あ、あ、ありがとうございます」

 女の人もぺこりと礼をした。


 落ち着いて声を聞くと思ったより幼い。

 それに顔を見る限りまだ子供で、齢も僕と近そうだ。

 中学生くらいか。


 格子を挟んで僕らは沈黙する。

 僕は俯きながら上目遣いに女の子の顔を見た。女の子も格子の向こうに立ったまま俯いている。

 白い……。

 学校の女子にこんな白い人はいない。まるで太陽の光を避けて生きてきたみたいだ。

 こんな子、初めて見た。

 ここは小さい田舎町だし、近くに住んでいるなら見覚えがあるはずだ。しかし小学校にもこんな子はいなかった。


 女の子の口から遠慮がちな細い声が発せられる。

「こんな所で、何してたの」

「いや別に……」

 自殺しに来たとは言えない。

「ほら、昨日雨が降っただろ。それで川が増水してたから見に来たんだよ」

 警戒と緊張で僕の声は引き攣っていた。

 人と話すのは苦手だし、しかも相手は女子だ。彼女は「そっか」と二度繰り返す。二度目の「そっか」は消えそうなくらい弱々しかった。


 何か言いたそうにふるふる震える薄い口唇。

 上目遣いにチラチラ見てくる。僕の胸の辺りがじんわりそわそわ落ち着かなくなった。なんか変な気分。

「ええと、何歳?」

「あ、あの。十三歳」

 女の子はたどたどしく答える。僕と同い年だ。

「上で本読んでたの。あ、ほら。中、暗いから窓際でしか字が見えないし」

 女の子はちらりと視線を上に遣った。観音開きの窓がある。戸が分厚い割に枠が小さい。換気用の窓だろうか。

「そしたら、本を落としちゃって」

 女の子は照れ臭そうに口元を綻ばせた。

「英語、読めるの? その本、全部英語だった」

 ううん、と女の子は首を横に振った。髪が口に掛かったのを小指で払う。

「私も英語は読めない。挿絵だけ見てたの。『不思議の国のアリス』の英語版。知ってるお話だったから」


 中一の英語の教科書に載っていた気がする。

 確かウサギが時計を持って走っている挿絵があった。それで挿絵に見覚えがあったんだ。

「ここ、本はいっぱいあるの。難しくて読めないのばっかりだけど」

 僕は適当な相槌を打つ。とうとう会話が止まってしまった。


 もう限界だ……。

 女子と喋るのがこんなに苦しいだなんて知らなかった。これ以上は耐えられない。靴の中で足の指をぎゅっと握る。僕は格子窓に背を向けた。

「あ、あの。待って」

 振り返ると、彼女は困ったような顔で髪を触っている。

「えっと、その……あなたの、名前は?」

「あ、ああ。僕はタイチって言うよ」

 君の名前は? とは聞けなかった。

 僕にそんな勇気はない。すると彼女は振り絞るように口を開いて言う。


「私はスミって言うの」


 会話の中断した僕と彼女の間に、桜の花びらがはらりと降る。

 スミ、か――。

 僕は心の中で彼女の名前を呟いた。彼女は花びらの通過を待つように間を空けてから続ける。


「その……。また、来る?」


 寂しげな目で見てくる。

 格子の向こうのスミは檻に入れられた猫のように悲しそうだ。僕は唾を飲み込んで小さく息を吸って吐いた。

「さあ、ちょっと分かんないな」

 そう言うと彼女は顔を伏せて僕を覗く。

 その姿を見ると僕の心臓が熱くなった。お腹の方まで変なじわじわが広まって喉も乾く。

「そっか。でもまた来るかもしれないんだよね。じゃあその時は、またお話しようね」

 彼女は柔らかく弱々しい笑顔を見せた。

 僕は何も返事できずに俯く。そのまま背を向け「じゃあ」と残し、逃げるような早足で立ち去った。


「またね。バイバイ」


 彼女の声が追いかけてきた。

 僕は振り返らない。振り返ると格好悪い気がしたから。


 湿ったコンクリートを歩き、田んぼのあぜ道を抜けて家へ帰る。

 かなり離れてから振り返った。地主の屋敷の横に物置小屋がぽつんと佇んでいる。僕はぼんやり物置小屋を眺めていた。


 そう言えば今日、僕は死のうと思っていたんだっけ。

 どうしよう……。


 僕は考えたが、やがて考えるのも面倒になってきた。

 死ぬのは、また今度で良いや。


 川辺にある土壁の物置小屋。

 あの中に一人の女の子がいた。彼女の目を見た途端、胸が締め付けられて緊張した。まともに人と話す事なんて何か月も無かったから。


 これが僕とスミとの出会いだった。

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