abyss of unfair

久灘 結

episode1 1-1 子犬と桜餅の歩く港町

《本編・語り部 リアナ=クリステンセン。追記者・アウロラ=クリステンセン》


 小型動力艇が、町の水路を行く。

 機関の推進器が水の上に波紋を記し、動力機の立てる金属的な反響音が、水路の両側の壁に向かって、くぐもって聴こえる。

 ハーヴェス王国の内陸水路網でも軽快に航行できるほどに細身な船体は、船首側を起点に白と線状の赤色に塗り分けられており、船首側だけが青く塗装されている。

 一見すると、住処と道楽を兼ねた古めかしい外観だが、魔動機文明時代の部品を随所に使った、きわめて高性能な船だった。

 船の中に居ても、機関の音も気にならないほどで、あるいは船の外にいたとしても、煩いと感じることもないほどの静穏性は、いっそ道楽にすぎるほどだ。

 しかも、細っこい船の外観に反して、薄手で頑丈な船体の内側には十分な空間があった。

 設備がぎっしりと詰まった船内は、人が住むのには狭い空間であるが、調度の類はよく掃除されており、アンティークも採用した古めかしい家具は、それぞれ小粒だが品がいい。

 とはいえ、小型船舶という空間の都合上、すべての部屋が最低限の間取りで設計されているため、大柄な人間にはやや手狭といえる。

 海図の確認と連絡を行う海図室の中も、こぢんまりとしており、小柄な人がただ一人いるだけで満員になってしまうほどだった。


 そんな薄暗い海図室の中で、とても奇妙なことが起きていた。

 金具で床に固定された椅子に乗せた、緑の座布団の上が、まるで誰かが座っているように凹んでおり、座り直すたびにか、座布団のへこみの場所が変わる。

 しつらえられた海図机の上では、せわしなくつけペンが踊っていた。

 王国の水路図の上に模写するための紙がしかれ、ペンがすべってゆく。

 まるで、そこに誰かが座っているかのような、息遣いも聞こえる。

 これが、彼女の仕事だった。

 天候、風向き、気温、気圧、水流、時刻。船が計測した数値や、その時々に船首が向いた方角も、時間と共に記録する。

 机の前には、船首側の計測器と同期するように接続された航海計器が、壁に埋め込まれている。

 ちっちゃい灯に照らされた、針先の鈍く輝く光が、文字盤の上をふらふらと示す状態の変化を、ペン一つで記録する。

 ときに、外を覗ける潜望鏡で船の周りを確認しながら、町の地図に、景色も含めた、一つ一つを。

 一つ書きあがった頃合いには、こちらから作業の進捗を信号で連絡する。すると、有線信号の形で、町の番地を船長が教えてくれる。

 遊覧船のようにゆるゆるとした航行は、船長お得意の安全運転の一環だった。おかげで作業していても筆先がろくに揺れることもない。

 この部屋の中で聞こえるのは、ペンが紙にこすれる音と、自分のわずかな息づかいに、定規をあてるときの身じろぎの音。

 だけど、よく耳を済ませれば、魔力機関の響く音のむこうがわに、通風口を超えて、かすかに町の喧騒が聞こえてくる。

 家族と思しき談笑が聞こえたかと思えば、いずれかの番地に特有の市が立つ日なのか、客を呼び込む威勢のいい声が、数多く重なって聞こえる。

 あるいは、艀の漕ぎ手が声を張り上げ、互いの安全を気遣う声、威勢よくこちらの船にかける声。

 時折、どこかの料理店や野外劇場から音楽が聞こえてきたり、よく聞き取れない声が、海鳴りのように部屋に響いて、少しだけ怖くなったりする。

 仕事をしながらも、声に気を取られる。

 いったいいつの曜日の市がたって、どんなものが売られているのか、音楽にも似た歌声が、どんな物語を紡いでいるのか。

 でもそんな時ほど、インク染みで製図を台無しにするような失敗をして、あたふたするはめになった。


 このとても小さな部屋で、彼女が熱心に製図、模写しているのは、ハーヴェス王国の運河図だった。

 いや、厳密には、政府当局が発行した運河図に、追記しているのである。

 街中の水路でも、場所によっては気温や風向きが違う。

 街が入り組んでいるため、場所によっては気圧が変化するさいの揺らぎまでが違ってくる。水面下の構造が原因か、水流が図面と異なることもある。

 こういった精密な測量は、本来は王国の測量船が記録するような事柄だった。

 一方で、一般人を対象に、このような測量や計測などは有志を募って行われている。特に優秀とされれば、それなりの報奨金もでる。

 あとで別の地図に清書したものは、のちに政府の海運局に提出される予定だ。

 この仕事をしているのは、興味も手伝っているものの、頼み事のためだった。

 仕事がえりに、街の中の気温や気圧、風向きなどをできるだけ記録してほしいというお願いを引き受けたのだ。それは彼女の家族の仕事にも関わっているし、上手ならおこずかいもでるとのこと。

 そのことを頼んだのは、つい最近同居することになった女の子だった。

 かなり変わったお願いに違いないけれど、ほかの同居人も反対しなかったのと、作図に興味があったことで、引き受けることにした。

 なにより、往診のときに、移動中は引きこもっていられるのもうれしかった。

 リカントのお兄さんや姉さんたちを始めとして、艀の漕ぎ手の人々はなかなか荒っぽく、小柄な女がふらふらヨロヨロしながら船の上にいると、はやし立てることもあるからだ。

 落ちるなよとか、酔ったのかとか、リカント語での実に荒っぽい歓迎だった。言い方次第では、共通語に直訳すると、ちょっと下品な意味にもなる。

 そういう時は、親友や先生が言葉でやり返してくれるものの、そんな時ほど萎縮するたちなのが、自分だったから。


 ふと、ペンの動きが止まった。もうじき着くと、有線信号で連絡がきた。装置がカチカチ、カチカチと鳴らす音とともに、ベルが一回だけ叩かれる。

 もうじき、次のお仕事の時間だった。

 椅子のへこみが大きくなり、壁にぼんやりと、背伸びする影が映った。

 そのうち、くたびれたのか、小さな女の子のような姿が、もやもや、ゆらゆらと椅子の上に現れた。

 メガネをかけた、レプラカーンの少女だった。

 ハーヴェスの春先であるというのに、緑地の厚手の上着を着ている。レプラカーンが好む、作業服風の仕立てで、刺繍をのぞけば実用一辺倒の上着だ。紐でくくれる金属ボタンつきのポケットの中に、工具などをしまえるような造りになっている。

 踝まであるネズミ色のズボンは、裾をきちんとピンで留めているのに、着古してよれよれとした印象がある。ながらく新調しておらず、洗っては着まわしてるからだ。

 上着の前身ごろを、すっと通った白地に刺繍された、青い飾り模様が合わさるようにきっちりとボタンをつけて着込んでいるせいで、喉元がきつそうだった。

 自分でいじくるせいでほつれの目立つ茶色い三つ編みが、細く白いうなじの上を流れ、文字を書く時に右の利き腕をくすぐるぐらいの場所にぶら下がっている。リボンに付けた銀のアクセサリーが、すぐ手元に見えた。

 象嵌が施された、銀の三日月型の金具だった。

 恰好こそおしゃれな雰囲気もあるのだが、本人はいたって服装に気を配るたちではなかった。やや眠たそうなたれ目のせいで、頬周りが少し大きく見える。

 メガネ越しのその目は、かなり濃い灰色で、目の大きさの割に目つきが鋭い印象を受けた。

 特に印象深く見えるのは頭。茶色く毛深くてうちわのように大きい耳が、顎のあたりまで、もっさりとかぶさっている。

 この大きくて毛皮のついた耳は、レプラカーンという、珍しい種族の証の、その一つだった。

 そして、レプラカーンたちは、一人でくつろいでいるときなどは、その姿が薄れて消えたように見えるのだった。奇妙な力で、これは彼女らの技の一つであり、ほかにはまずない固有の力だ。


 そろそろ彼女は、先生たちの手伝いをしないといけなかった。

 呼び鈴の連絡はいつも、ちょっとだけ早くに来るから、あわてる必要はない。

 ペンをちゃんと箱に入れて、飛び出さないように蓋を固定した。

 それから、海図に机に付いた蓋をかぶせて、どこかに移動しないようにする。

 こういった小さな船にも、備品を固定するための金具や仕掛けは数多くあった。

 立ちあがろうとして、ほんの少しだけ目の疲れを感じて、座ったまま彼女は机から顔をあげた。

 機関室は薄暗い部屋で、大きい豆くらいの魔力光源しか光が無い。

 でも、レプラカーンの体にとっては、薄暗い部屋はちょうどよかった。

 あまりまぶしいほうが、光が目にちらついて仕事しづらい。夢中になりすぎて首が疲れてしまったのだった。

 何度か首を回してから、彼女は椅子に座り込んだ。目の前には、操舵室と同じ一通りの計器と、機関部の状態を知らせる複数の計器や、計器類の調整設備がある。

 計器の数値表示とグラフの表示しかできない、ちっちゃなディスプレイと操作盤もこちら側にあった。

 魔法機械〈マギテック〉の航海計器のほとんどは、機械式の計測装置を備えており、数日単位で記録の蓄積もできるために、人間がいちいち計測、記録してやる必要のあるものはかなり少ない。高性能な機器ならば、家に記録媒体を持ち帰り、その情報を記述することもできるのだ。

 だがそのなかでも、温度計や気圧計は、読み出しの自動化がされていなかった。予算のためだそうで、船主側の操舵室には、計測のための振り子式の書き出し装置もついていなかった。もし記録するなら、ディスプレイに数値とグラフを表示してから、手書きで書き出す必要がある。

 しかも、使用しているスフィア《魔法機械球体素子》は中型のものしか付けられないので、記憶容量に制限があるうえに、出力してからの情報の読み出しには煩雑な操作が必要と、手間がかかった。

 だから、急な温度変化が起こったときのように、機械からの読み出しがより煩雑になりやすい状態などでは、計器を目視し、細かい範囲を手書きで記録しておく必要もあった。近頃は、測量船や大型船には、魔法機械製のスフィア式大容量記録装置や自動化された書き出し装置があるもので、船主は申し訳なさそうにしていた。

 ただ、先生ならば、実地で記録する価値の方を強調するだろうけれど。あの人は科学の〈手触り〉を重視するから。

 誇る実力と行われる実践を取り違えて判断してはいけない。

 倫理に基づく実践が伴わなければ実学とて飾りだと。

 そのため、もともと細かい記録を取るのは彼女の仕事の一つだった。

 このような経緯があり、船主の友人の意向もあって、彼女は船に乗るたびに、船の計測情報を読みだして、記録することになっている。そのほかに、計器類の確認整備も任されていた。こういう細かい仕事は大好きだったので、苦ではなかった。

 今後は、船のその他の仕事も、任せてもらえるかもしれない。そう思うと、今からワクワクする。

 海図室のものがすべて固定されていることを、指でさしつつ確認してから、よっと立ち上がり、彼女はゆっくり部屋を出た。


 細長くて軽い小さな扉をきちんと閉めて、すぐ目の前にある船尾側の梯子を握りこみ、周りを見回す。

 梯子を上る時は、きちんとしがみついてから、周囲を見て、それから船の上に上がるのだと、口を酸っぱくして言われている。

 三点支持を意識しながら梯子を上り、金具を天井の手すりに固定して、跳ね上げ戸を叩いた。

 上に人がいないかどうか、物が載っていたりしないか、戸を開けるさいに常に確認しないといけない。船では覚えることと決まりごとがたくさんあった。

「リアナ、作業終わりました。先生、これから上にのぼります」

 通風口沿いの伝声管に声をかけると、きびきびとした返事がした。くぐもって反響する女性の声。

「リアナ。もうじき着くから、接舷準備のために、まず後ろを確認して。そのあと、私が船尾船室の確認と、海図室の確認をするから。それじゃ、保安索を確認して出ること、いいね?」

「わかりました。先生。そのあと船首側で接舷の準備をします」

 この船の船主であり、彼女の先生でもある女性は、船乗りの立場を徹底していた。

 いざ事故が起こるようなときに頼りになるのは、甘えでなくて、備えと訓練と、生きるための根性でしかない。

 そのため、言葉遣いもあるていどちゃんと覚えるようにと言われていた。きっぱりとした物言いに、不満を覚えるようなことがあってはいけないからだ。

 油断は常に、命に関わるのだから。


 革帯に金具付きの縄を固定したことを報告し、跳ね上げ戸を持ち上げ、よいしょと身体を出すと、船尾側の景色が見えた。

 ようやく家のあたりに帰ってきたという感じがする。

 とりあえず、船尾側には船の姿も艀の影もない。先生がすでに船の中から確認しているだろうから、あまり心配はしていなかった。

 風がちょっと気持ちいい。船尾にたっていると日差しが強く、仕事しているうちに汗ばんでしまいそうだ。

 どこか遠くから、料理の仕込みの匂いがする。ドワーフの仕出し弁当屋が、じっくりと肉と香味野菜を煮詰めるような、鼻腔をくすぐる楽しくなる匂い。

 ほんのりとしたおいしそうな匂いのほかに、タールと木材のにおいに混ざって、潮風のもったりとしたにおいがする。まだ日差しが強く、海側から風が吹いている。

 もし落水したらあっさり気づかれず流されるかも、と考えて足元がなんとなく縮み上がった。いつものように気持ちを引き締める。

 ちかごろ、先生が往診している北側城壁のあたりは、中央運河沿いに船で移動して、まっすぐにたどり着くことができる場所にある。

 今日の診察での出来事はお薬の質問くらいで、急患が出た日とくらべれば、何事もない日だった。北側街区の教会病院の助っ人としての仕事だったけれど、つつがなく終わってよかった。

 重い基礎疾患の患者さんが相手だと、いろいろと雑事も引き受けて働かないといけないし、なによりも患者さんとのおしゃべりは、とても神経を使うお仕事だった。

 ちょっとした言葉のあやでも、関係が悪くなったり、具合を悪くしてしまうことがあると、先生にはよく教えられている。仮に相手の問題があるにせよ、医者の本分や人情は尽くす必要があるのだと。皮肉交じりにそういっていた。素直じゃない。

 往診の後、帰り道は逆に、運河をくねくねと移動して帰ってくる。

 新しい同居人のお願いに従って、船長があちこちを巡って回るのだ。たまに市場の近くに泊めて、通りすがりにおやつを買ってくれることもある。

 そういえば、今日はおやつがなかったなと考えつつ、どうにか今日も事故もなく帰ってこれたと、ちょっとだけ安心した。船長はいつも安全運転だけど、万が一の可能性はいつだってあるのだから。

 周りを見ると、中央運河の自宅そばの馴染みある風景が、舵輪の付いた船尾の足場のむこうがわにはあった。

 運河に沿って背の高い建物が並び、だいたいの家の前には艀が繋がれている。桟橋は家ごとに形が違い、水が染み出そうなほど粗い木造のものもあれば、石造りの基礎に桟橋が作られた場所もある。

 これらの建物のほとんどは、交易商の倉庫兼事務所である。運河に面する道の反対側には、商店が立ち並ぶ形になっている。

 商店街沿いには商人と付き合いのある料理人がまばらに店を開き、仕出し専門で仕事をしているし、艀で商売するリカントの運送業者は、頻繁にあちこちの倉庫に出入りしている。かれらが軽食を片手に、櫂をたくみに操る姿をここらでよく見る。

 繋がれた船も、魔法機械を乗せた金属部品の小型船から、大昔からリカントたちがこの地で漕いでいる、動力のない木造の艀までいろいろだ。

 

 あちこち眺めてみたが、船の背後に問題はなく、ごみ一つ浮いてもいない。運河の清掃は徹底していて、ゴンドラ組合の人たちが日に二回も清掃を行なっている。

 もし丸太や大きいゴミが浮かんでいると、最悪の事故に発展することがありうるからだった。なにより、城塞都市国家という立地ゆえ、不審物には厳しいものがある。

 ぼんやりと景色を眺めたかどうかという間に、すぐに上の方から声がした。

「リアナ! そろそろ着くよ。ほらほら!」

 自分を呼ぶ親友の声に返事しつつ、伝声管に声をかける。

「わかってるよ! あっ、先生。背後確認しました。異常なし!」

 先生の返事はすぐに来た。友人のやつとじゃれていると誤認されないか心配した。

「わかったわ。それじゃあ、ルウムと一緒に周りの確認を怠らずにね」

 船枠の手すりに金具をかけて、綱に手をのせて船尾の梯子を登り、親友のところへ行く。金具をつなぎ直すときは、かならず手すりをつかんで。

 親友はとっくに船首側にいた。彼女はいつだって、船のへさきで調子よく過ごすことを望んでいる。誰彼かまわず挨拶するせいで、ここらの運送業者には顔をすっかり覚えられてしまった。

 桃色の髪の毛が、水跳ねを防ぐ外套の上に、無造作に翻っている。こっちを眺めるその瞳は、琥珀色に輝いて見える。たぶんドワーフだけど、実は彼女から種族のことを聞いた覚えがない。

 自分より背が高いことを引き合いに出すのが近頃わりと腹立たしい。なにせレプラカーンはドワーフよりもチビだから、からかいがいでもみつけたんだろう。

 合羽の下は自分と大差ない作業服姿で、おしゃれでないことについては割としょっちゅう文句を言っている。

 その無邪気で気楽そうな童顔を横目に、船首側に障害物が無いか確認する。

「ルウム。先生たちの補佐をしないと。ほら、手伝って。いつもの、もやい縄と船首錨の確認のあいだ、四方向の確認」

 船首側には船を係留するための綱や縄を格納する倉庫と、錨を収納する場所がある。錨の具合はちゃんと確認しておかないと、錨の食い込みが悪くなったりして走錨事故になりうるため、ともすれば大惨事になる。

 こういった船具の確認は先生や船長が最後にやるのだけど、かならず二度は別の船員が確認するようにと言われていた。

 相棒はややおどけて、片腕だけで船体の手すりにつかまりながら返事した。

「うえー。ノリが悪いなぁ。最初のころは何を見ても喜んでたのに」

 場所が悪かったのか、先生の耳に入った。

「ルウム! 接岸前! わかってるね? 私語を止めて、はやくやれ!」

 伝声管から先生に怒られて、唇を尖らせながら、相棒は船に刻まれた段差に片足をかけた。なんとも子供っぽく反抗的である。

「ちぇー、アウロラってば、人使い荒いなぁ。さっき前を見たばっかりじゃん」

 ルウムはリアナが道具を確認する間、首を伸ばして、やや時間をおいて四方向を確認した。ついでに、リアナが教えた縄などの状態を伝声管に伝える。

「錨も縄も大丈夫だよっと。リアナが言ってるから問題なし。バルドルにも伝えといて、サボってなんかないってさ」

「まったく。調子がいいんだから。前の時みたいに、運河に落ちるようなことはしないでよ、ルウム」

「へーいへいへい、ヘのカッパですよっと」

 先生のお小言を彼女は聞き流し、伝声管のふたを閉じて、鼻唄を歌っていた。

 レストランのマギテック製オルゴールの曲で、ご近所の店で流れているものだ。

 たしか、エルフの舟歌をハーヴェスに似合うように作り直したものだったか。

「まったくさ。アウロラはいろいろ気にしすぎだよ。すくなくとも、見張りの仕事はしくじったことないのにさ」

 親友はなんとも不満そうだが、こういう調子のよい所は昔からである。

「船の事故が危ないってこともわかったの。だからちゃんと見ててよ、ルウム」

「へいがってん。あたしにまかしてよ」

 ニカっと笑う彼女は、いつもどおりなんのくったくもない。

 事故といえば、衝突が原因の横転事故に、投錨の失敗に基づく沿岸での不幸な転覆、船員の落水、不適切なロープの使用で絡みついての受傷事故。

 それに蛮族たちの帝国軍の海賊行為。船長がとっている海事新聞を見ていると、イヤでも海難事故の現実を理解せざるを得ない。

 しかもしかも、ギルマンの海賊行為はハーヴェスの沿岸で現に起きており、市内でも遭遇する可能性があるから気が気じゃないのだ。

 先生と船長がしっかりしているから落ち着いてできるだけで、自分一人で何とかしないといけないなら、この船をどうにかする自信はなかった。

 だから、安全についてはちゃんと、自主的に努力するようにしている。

「そだ! 時間を見ないと、時計塔!」

「え? あっ、忘れてた」

 努力しているけど、どうにも体を動かすのは得意でなくて、忘れることも多い。

 もともと、こういうことは親友の方が得意なのだ。

 ルウムが指差す先に、いまも基準時を示す第3区所在の時計塔がそびえている。

 かなり古めかしい石造りで、旧王制ごろの南部都市国家連合時代のものを補修して使っているそうだ。120年も前のドワーフ建築である。

 鐘で時報を鳴らすため、いまでもドワーフの時計番が世襲して管理している。

 ハーヴェス王国は海洋都市でもあるので、時計塔の時刻は極めて正確だった。

 一時間おきに、時計塔に置かれたマギテック製のクロノメーターと、王政府の気象観測所のクロノメーターをつき合わせて調整を辞さないという徹底ぶりだった。実際には、ほぼ24時間にわたって、交代しつつ、時計番の手で、時計の狂いが無いか観察しているらしい。

 そのため、船着き場に着いた時刻と、出発時刻は、これらの時計塔の時刻を基準にしている。そのため、秒針まで確認するために、片眼鏡が必須だ。

 鎖で腰に付けた、小さな片眼鏡で時計をじっくり見てから、 船首の伝声管に向けて、時間を報告する。

「午後4時32分42秒確認。港前到着です」

 伝声管を通じて、呑気そうな男性の声が返事した。

「あいよ。こっちも確認したが、クロノメーターと狂いなしだ。このまま、管理人のじいさんに連絡して停泊するから、周りの確認よろしく。今、アウロラのやつが操舵室に戻るから、二人は分担して前後を見ていてくれよな! 頑張ってくれい」

 船長が無線信号の連絡を出す間、この船が停泊準備に入ったことを知らせるために、操舵室から船の頭に付いた照明をチカチカと照らした。停泊準備を知らせる信号方式だ。いまも手動式なので、先生が担当しているはず。

 照明が光ったとたんに、伝声管から小言が聞こえた。

「船体の手すりにちゃんと金具を留めてって、バルドル。あんたが言わなきゃだめでしょうに。接岸前には確認するでしょう?」

「二人ともやってるって。四方に船影なしとのことだし、まあそんな心配しなさんな。そんじゃ、オレは操舵室の確認の後に、船尾の舵を動かすから、おおまかな操舵はよろしく」

「はいはい。もう舵輪を握ったから、安心して行ってきて」

 伝声管越しに、船長に向けた先生の小言と、船長の返事を聞きつつ、安全確認を怠らずにした。

 ふと気づくと、船長がすでに船尾に居た。先生に操舵室を任せて、船尾の動力装置を直接動かしているのだ。

 舷側右から、舵取りと操作に苦労して、額に汗を浮かべ、黒い髪が汗で頬に張り付くほどに頑張っている船長の姿が見える。今日はちょっと風が強いから、なおさら神経質にやっているんだろう。

 青白く逞しい顔が踏ん張りのお陰でほんのり赤く見える。

 ハーヴェスの船乗りがよく着る、襟の緩い作業着の首もとにも汗が浮いて、だいぶ辛そうだった。

 停泊作業は、いつ見てもはらはらする仕事だった。石造りの小さな埠頭に横付けするために、そろそろと前進、ときに後退する。

 リアナたちも怠けることは無く、船が近づいてくるたびに声を上げて注意を促した。船乗りの人たちが、ルウムには陽気に声をかけるのに、自分に声をかけるのは遠慮がちなのがちょっと不満だった。やっぱりネアカとネクラの性格の差もあるのと、日ごろ引きこもって珍しいからだろうか。

 そんな時、すっかりなじみになった、大声が聞こえてきた。

「バルドル! 踏ん張り弱ぇぞ! てめえヘタれて嫁に娘とまとめて心中するんかぃこのヤロコラァ! 根性入れろ! 桟橋を傷つけたって承知しねぇぞ!」

「ういっすゥ! おやっさん!」

 その、とんでもなくものすごい声はこっちのほうまで飛んできた。

「おい! 嬢ちゃん! 接舷側で絶対手ぇ離すなよ! 転げ落ちたら、潰れて死ぬぞぉォ!!」

 まるでゆでダコみたいに迫力のある赤ら顔のドワーフのお爺さんが、接岸用意がてらに物凄い声で怒鳴っている。

 この辺りは動力船向けの埠頭で、船乗りを引退したというドワーフのお爺さんが、基本は大声で、時には怒鳴り声をあげて、彼がいうところの、船の面倒を見ている。

 船をつける前は必ず船首と船尾側に分かれて、重たい方が常に運河側に立てよと指図したり、ウチの船長に向けて檄を飛ばしたりと忙しい。

 ドワーフ風の古式の前掛けに黒ずんだ作業着の服を着たお爺さんが、赤毛のおヒゲと同じくらい顔を真っ赤にしている。

 港湾事故はこれまた大変なことになりうるから、普段からこれだけ怒るのも無理もない。船員、あるいは客の不注意から挟まれて死ぬ人もいるのは事実だ。

 横づけが終わって、ようやく接舷作業が終わり、船首側の動力設備が止まった。船尾の動力を止めて、バルドルが錨をおろして作業している間、お爺さんが縄を船にかけている。横付けと停泊作業、確認が終わったところで、操舵室にいた先生が船から出てきた。

 きつく結い上げただけの金色の髪が、いつ通りゴワゴワしてる。着込んだよれよれの白衣と耳の長さも相まって、遠目からは厳格で仕事熱心なエルフの医者に見える。

 でも、その油断のなく鋭い目付きの青い目は、知っているエルフよりもずっときつい印象を与える。

 手ぶらで外に出てくると、くたびれた船長をねぎらってから、お爺さんの方に挨拶に行くようせかした。

「これで大丈夫ね。今日もありがとう。それじゃあ、おやじさんに挨拶してきて」

「ハァ、おやっさんの怒鳴り声は、シケの潮風よりこたえるぜ」

 聞こえないようにそうつぶやくと、船長はおじいさんが乗せた板に足をのせて、悠々と船を降りた。


 神経を使う作業だけど、接岸時間はそれほどかからなかった。

 船が固定されてから、いったん船室へ荷物を取りに戻ると、外ではバルドルがいつものように怒られる声がくぐもって聞こえてくる。

「暑ィからって接岸でへばんな! オメェと俺が命預かっているってこと、忘れんなよ!」

「はい! 親父さん! 精進します!」

 ようやく縄を全部埠頭に固定して、錨の再度の確認が終わるころだ。お爺さんの厳しい点検と、頭を下げる船長へのお叱りとウンチクが終わる頃あいをみて、先生について荷物を持って外に出ると、お爺さんがリアナに近づいてきた。

 先生がリアナのすぐ後ろに立ち、おじいさんの手元を見た。白衣の前に両手を組んでしおらしく伏せた顔の下、その眼差しは鋭い。先生はいつもマギテック拳銃を持ち歩いていて、この姿勢からでも撃てるのだった。警戒しすぎである。

 一方、ルウムは興味津々にお爺さんを見ている。こっちはなにかいいことがあるかと期待しすぎだった。ドワーフつながりでこのおじいさんもルウムには甘い所があるように思う。

「かみさんからだ」

 すんごくぶっきらぼうに、自分の手元に差し出されたのは、分厚く紙包みにされた、とても甘い匂いのなにか。

 花のような、香草のような、ふんわりとした美味しそうな匂いがする。

 働き者らしい傷だらけの手に、傷にそって消えないタールの染みついた、お爺さんのすごく大きい手と相まって、なんだかとても可愛らしい。

「腰痛の薬、おまえさんたちが作ったんだってな。かみさんが、礼がしたいってよ」

 そういえば、このお爺さんに、先生と一緒に生薬の製剤を処方したことがあった。あの時は、おかみさんが駆け込んできて、あれよあれよと捲し立てられながら作ったのだった。

 あの時は、船大工の仕事をしていたお爺さんの腰が抜けて立てなくなったそうで、船は使わずに済ませていたときの出来事だった。おじいさんがやせ我慢していたせいで、治療がちょっと遅れたのだった。

 かなりしぶとい腰痛だったものの、お薬とおかみさんのお料理のおかげで完治したのは、わりと最近の話だった。

「あ、ありがとうございます」

 受け取ると、紙越しにもわかるもちもちっとした感触がした。

「うめぇぞ。食いもんにうるさくてわがままな孫もな、それは食うんだ」

 鞄の上に抱え込むと、いつも怒っているような顔をしているお爺さんが、厳つい頬をほんのりとだけ緩めた気がした。

「やったー。お菓子貰っちゃった!」

 さっそく覗き込んでくるルウムの頭が邪魔で見えなくなった。食べられないようにさっと鞄に隠す。すぐにこっちを見つめる親友のまなざしは恨めし気だ。

 バルドルとアウロラが頭を下げると、お爺さんはろくに見ない感じで、船の面倒を見に行った。

 船の面倒見に命をかける人だった。


 もう慣れた家路を、バルドルとアウロラ二人の間にルウムと挟まって、とことこ足早に歩く。二人は二人なりにゆっくり歩いている

 船長も先生も、リアナよりよっぽど歩幅が大きくてしかも速く、普通に歩くとリアナが遅れがちになるからだ。

 なにせ、船長も先生も、精一杯背伸びして肩車したリアナとルウムくらい、背が高いのだ。

 仕事の話をしている二人を尻目に、お菓子をもぎ取ろうとするルウムをあしらいつつ、なんとなく気が向いて、周りを観察した。

 この辺りは有名な商店街があり、リアナたちの家もそこにある。のんきに歩いても、船着場から時間にして十分ほどといったところだ。

 足元の舗装はしっかりしている。内陸の都市の端にある往来には、ぬかるんで歩くのに苦労する場所もあるのだけど、この辺はちゃんと石畳になっている。

 この道ではたまに郵便局の人や、駆け足の荷運び人と行き違う。

 そのほかの路地裏の気配は、子供たちの声に、井戸端から聞こえるおばちゃんたちの声。それに路地をうろつく犬猫くらいだった。

 家に帰る途中の人は、大工と思しき人や船乗りたちに見える。

 そうやって周りを見ていても、まったくなんの遠慮もなくにルウムがリアナに絡みついてきた。

「ねえねえ! 減るもんじゃないんだし、あたしにそのお菓子を見せてよー」

 指でこっちの腕や体をつついたりしてくるのはやめてほしいと常々思っているけれど、親友にはなんの遠慮もない。

「ダメ。ルウムはなんでもすぐに口に入れるから」

 お菓子の包みの匂いを嗅いでみると、ふんわりと柔らかく花のような匂いがして、触り心地は紙越しにモチモチしている。

「うわー、犬みたいなことしてる」

 ムッとした。リカントやレプラカーンをわざわざ犬扱いするのは、親しい間でもご法度である。

「なにさ。ルウムとちゃーんと半分こしようと思ったのに」

「えー! あたしだって食べたいもん! ごめんよぉ〜。ドワーフの上生菓子でしょ、イジワルしないで食べさせてよー!」

 そういいつつも絡みついてくるので、やっぱり押しのける。

 左手の方で、くっくと笑いを噛み殺す様子がした。バルドルだ。

「家に帰ったら、だな。舌噛みそうに勢い込んでちゃ、こいつはなおさら心配だ。つーかよ、オレたちだって食べたいんだから、二人占めはよしてくれや」

 先生も、苦笑まじりにこう言った。

「こんなところで窒息患者なんか出したら、みっともなくて恥ずかしいわ」

 ルウムはリアナにそっぽを向いて、アウロラに今日の往診の内訳でおしゃべりすることにした。

「ああ、そうだ、そうそう。リアナさんの仕事、聞かなきゃいけないな」

 船長の方を向こうとすると、なおも桃色の髪を頬の下に押し込もうと絡んでくる親友に、餅を取られないように抱えて、返事した。

「バルドルさん。計器の変化を表にしておきました。これでたしか、ふたつき分です。ちょっと、ルウム、危ないからやめて」

 差し出した書類鞄ごと桃色の頭を押し退ける姿を、人の良さそうな表情のまま、バルドルは苦笑混じりに眺めている。

「おっ、ありがとう。あのポンコツ船のために悪いね。仕事の合間だろ? 気が利いてる」

 はにかむリアナとは違い、アウロラは考え事でもするみたいに顔をしかめている。

「船長がズボラすぎるのよ。あんたが計測をしくじって記録がバラバラで、国の統計と照らし合わせなきゃいけない有様。このポンコツから出力して統計を取るのは一手間あるのよ。なのに失敗して。細かい作業はリアナがいなけりゃおぼつかない有様なのに、またもや迷惑かけてさ」

 船長の記録違いがあったので、作業のついでに、計測情報のいくつかを出力しなおしたのだった。

「へへ、悪いね。内陸航行そのものにはあまり必要ないから、最初のころは設定まわりをしくじってな。ま、今の債務を返し終わったら、自動化を考えるさ。リアナさんにも、そろそろ機関の面倒でも見てほしいからな。アウロラ、ついでにルウムにも何か任せないか?」

 先生はどこか呆れたように肩をすくめた。

「ルウムには見張りをやってもらっているからダメ。役割は私が決めると言ったでしょう。そもそも、人手だって欲しいのよ。なんでも役割を増やして問題が起きたら考えものなのに、なんで、なんでも考えなしにそう言うわけ?」

 キビキビと文句を付けられて、船長はなんとも決まり悪そうだ。船主である先生と船長の力関係がハッキリわかる。こういうとき、船長は決して逆らわない。あとがいろいろ怖いからだろう。

「もう少しマギスフィアカメラを増やせば、難所以外は船内からいけるけどな」

「まーた借金か。嬉しい副収入もないならあと15年。月賦で払い続ける状態なのに?」

「まあまあ、イザというときはすぐに決済できるって組織から言われているから」

「決済、ね。修繕費以外は、できれば遠慮したいところよ。出所があんなじゃね」

 そういえば、二人の船は、言葉を借りればオンボロドロ船で、月賦と修理費で沈没しかねないものだと聞いた。借金そのものは、二人が所属している《組織》とやらの受け持ちだそうだけど、なぜか二人とも、借金の建て替えには消極的だ。

 たしか、今はハーヴェスの船大工と契約しており、バルドルがたまにくたびれた様子で帰ってくる。お金のやりくりが大変なんだろうし、お爺さんたちにいろいろ注文を付けられるのも大変なんだろう。 

「あの爺さんの兄貴も、大工の腕は確かだが、船のこだわりがすごいんだよ。一体なんべん怒られたか。オレたちが壊したわけじゃないのにさ。あれじゃあ、肉体派の人も竜も大差ないな」

 ふっと息を抜くように、先生が微笑んだ。

「今のうちに、身内に船を貸すときの手間賃、増やす頃合いかもね」

「手間賃と釣り合うかが問題だぜ。だいたいの場合、大工にワビを入れるのはオレなんだもの」

「確かに。艤装を半壊させられた時にはもっと取り立てればよかった。あとあと、バルドルの世話は私がしないといけないわけだし」

「ふてくされるようなことしてないぞ」

「そう? 船と同じね。聞いてもわからないことあるから」

「中古のオッサンだからな、しかたないさ」

 二人の会話は慣れたもので、しょっちゅうこんなふうに言い合いしては笑ってる。

 そうこう話を聞いたり、お餅を取られまいとするうちに、気付けば家の前に着いていた。

 倉庫兼住居の自宅は借家である。

 船宿も兼ねていた築70年の古建築だった。三階建てで、一階は日常用の動力付きの艀がつないである。水没防止のため、高床の上に作ったかまどなども一階にある。

 家の右側にはドワーフ夫婦が経営する仕出し料理店がある。こちらの夫婦がこの家の権利者でもある。船着き場の船大工一家のおじいさんたちとは親戚関係にある。

 家の左側はエルフのおかみさんが経営する民宿で、この辺りのリカントや人魚たちが集まる、割烹も兼ねた、小さな船宿だ。旦那さんは素潜りの達人で、漁船に乗り込んでは、いろいろな海の幸を取ってくる。

 どちらも、いい人たちが住んでいることには違いなかったが、この二つの料理店は宿敵のようにいがみあっており、道で顔を合わせるたびに、エルフとドワーフらしいライバル心をむき出しにしている。朝方の掃除のときなんて、エルフのおかみさんとドワーフのとっつぁんの間では、黒点海域の風よりも冷え切って会話が無い。そのわりには、ごみのポイ捨てや酔っ払いの徘徊などの対処や、自治会の仕事などには、どちらも断固として働くせいで、まるで協力しているみたいに見えるのだった。


 リアナたちは玄関口に集まると、バルドルが懐のどこからか鍵を引っ張り出し、錠を外した。鍵をどこにしまっているのか、そういえば教えてもらったことが無い。

「やれやれ、うちは落ち着くね、まったく」

「バルドルってばオッサンみたいだわー、場末のオヤジみたいだわー」

 鞄を担ぎながらルウムがせっかちにも一番乗りに家の中に潜り込んだ。

「オッサンで場末のオヤジだっての。じゃ、オレは家の見回りしてくるから、茶でも飲んでな」

 頭を掻きかき、のっそりとした動きでバルドルが家の中に入っていく。腰に下げた長剣の鯉口をわずかに緩めて、見回りに行ってしまった。彼はいつも用心しており、まるで強盗が先に居るかのように徹底して調べる。

 彼の長剣は、冒険者が好むような形式で、軍人のものよりも短めだった。狭い室内でも扱えるように、鍔元と刀身の付け根に、握りこむための工夫がある。鞘までもが、どつき合いを想定した実戦的な物だ。短剣ではないのは、まずどつき倒すのが前提であるかららしい。抜刀と共に、柄と鍔元で格闘に持ち込む独特な動き方をする。

 これを鞘ごと武術の練習に使う姿を見たことがあるけれど、たとえ強盗相手でも後れを取らないんじゃないかというくらい、見事な技だった。

 バルドルとルウムが先に行ってしまったせいで、あとに残された二人は、いつも通りに鞄を押し付ける口実を逃した。

「ああ、もう。合図もあるし、居るんだからユリウスに任せればいいでしょう? あっ、行ったか。あとで風呂に入れなきゃいかんのに」

 ユリウスは不思議な同居人で、初対面の時から親切だったけれど、彼女の仕事との時間が合わないせいで、あんまり話をしたことがなかった。もう少し、ちゃんと話してみたいのだけど。

 オーガスタとマリアの夫婦とともに、この三人はリアナにとって不思議な人だったのだ。浮世離れしたところと、一枚布挟んだような丁寧さも。

 荷物を持って、もごもご愚痴る先生と一緒に家に入った。石張りの玄関に靴をそろえる。

 玄関の風景画は先生がこの街で買ったもので、ハーヴェスのどこかの海岸からの景色だ。上がり框そばの花瓶には花が生けており、瓶の背が高いせいで花がリアナの頭の上にある。

 おかげで 玄関脇の花に頭をぶつけて耳に黄色い花粉がついた。

「あっ、やったか。リアナも後でお風呂に入ってね。服につかなくてよかった」

 柔らかい懐紙で耳を擦られると、くすぐったくて身を捩りたくなる。

「先生、その紙、なんかそわそわするよ」

「そう? いい紙なんだけど。だからか」

 靴を脱いで、二人は家に上がった

「ね、先生。これって、模写の裏書なんだけども」

 鞄から今日の製図の写しを出すと、先生は仄かに微笑んで受け取った。

「へえ、いいね。良く書けてる。いっそ製図士の資格でも取る? 測量って、きついけれどかなり給料がいいからね」

 そう言う先生はちょっと悪戯っぽい。どこまで本気で言っているんだろう。

「どうかな。ほかにも勉強しないといけないことが多いし、先生の宿題もあるから」

 このたび大陸都市連合の試験を通過した錬金術師は、とかく知らないといけないことが多かった。

 マギテック・コンツェルン所属の一流の錬金術師と違い、大陸都市連合公認の錬金術師は、その箔付に反して民間人に近い立場だった。キングスフォールに存在する都市連合大学は魔術大学よりも歴史の浅い機関であるから、資格の存在もあんまり知られてもいない。

 冒険者協会傘下の組合への出向資格や、公務への出向資格を除けば、その業務はお医者さんの相棒である調剤師と大差ない。

 街住まいの錬金術師は、ありていに言えば、機械文明ごろの技術に因って活動する薬剤の専門家で、冒険者協会や五剣教会にとっては、身近でありながら関わりは薄い。これらの組織はコンツェルンの出向者が業務のほとんどを占めているからだ。

 薬師としての街の錬金術師は伝統も短く、エルフの薬草師の評判とは雲泥の差だった。錬金術師の処方する貼り薬は、どうも効き目は薄いとみなされるきらいがある。

 これも仕方のないことで、知られる限り一万年の伝統と技量の蓄積のあるエルフの医術は、薬剤と魔術のみを用いて厄介な創傷から内部疾患の根治までこなしてしまう。対症療法ありきの錬金術師の医術は、事故と戦争でしか役に立たないと言われる始末。

 なので、資格があるからと言って安心はできず、錬金術の成果である元素札〈マテリアルカード〉による治療以外のやり方をいろいろ勉強する必要があった。

 そのための宿題が、がたつきのある勉強机の上で、今日も元気に机を傾けている。

 機械文明の魔法科学に必要な参考書に教科書。古典的な薬草書や医学書。錬金術の教科書。基礎をようやく終えたけれど、まだまだたくさんある。

 そんなことを思い出していると、先生はニヤつきながら、こう言ってのけた。

「無理することはないよ。ただ、錬金術師になる上でも、製図のカンは必要だ。マギテックの勉強なら尚更にね。ま、リアナなら心配ない」

 犬歯を見せるように、なんか悪そうに先生は笑う。

 自称エルフだけど、どう見てもそうは見えない。エルフはふつうおなかや背中に刺青をしないし、バルドルと同じで、きっと人族じゃないんだろうと、けっこう前から思っている。

 でも、そうしていつだって信頼してくれるのが、リアナの元気の源だった。


 うちのお風呂はシャワーだけで、後から増築したものだった。狭い部屋が二つ、蛇口が二つあって、機械の調子のせいでお湯が少なく、節水しないと水が止まる。水の管理がズボラで、バルドルはよくアウロラに怒られていた。水は天水桶を濾過して使っている。

 汚れる仕事のために往診の途中に体を洗う必要があるときは、そういったお客を引き受ける浴場をさっと利用するし、お湯に浸かる場合はタライ浴だった。

 釜風呂なんかだと、この辺りではもらい湯をしにいく他になかった。うちの両隣にはそれぞれお風呂があるけれど、貸してもらおうとする日に限って両家の予定がかち合って、なんかどっちの家のお風呂を借りるかで、ウチではなく両家がもめたりしてちょっと時間がかかったりする。お風呂の融通まで好敵手みたいに争うのはいっそヘンかもしれない。

 かわりばんこにシャワーで汗を流してから、最後に台所に向かうと、ルウムが湯沸かし器を動かして、お湯を沸かしていた。

 その傍ら、先生がお餅を綺麗に切り分けて、ひとつずつを葉に包んでいる。山ぎわのリカントの氏族が好む葉っぱで、共通語では包の木と呼んでいる。

 この葉っぱは、食中毒を起こす病気の種に効き、香りが神経にも良いと聞くけれど、実感の程はわからない。でも匂いは好きだった。

 リカントたちはこの葉で包んで、魚も肉も、味噌も焼き、おかずにご飯が進むのだと言って、使いすぎては土蔵を潰すと冗談めかして言うのだそうだ。

 かまどの横に据えられた湯沸かし器は、旧コンツェルン製造の発掘品で、先生が修理して使っている。シャワー用の機材よりさらにポンコツだった。

 自分たちみたいに小柄でも使えるのだが、操作が煩雑で目を離せず、四等魔晶石を燃料にしているせいで、家の外の排気口からは独特の粉臭い臭いがする。

 そのため、空気濾過装置がちゃんと動かないと危険だった。しかも、構造的に内部の温度が上がりやすいため、外殻温度が水準点を超えると自分から停止する。

 バルドルの言葉を借りれば、『死にかけの働き詰め』と言えるほど、元々の状態も良くない。爆発の危険がまったくないから今も使えるといった塩梅で、愛着はあるけれど、動かすたびに故障するんじゃないかとハラハラさせられる。

「手伝うよ」

 定規まで当てて切り分けている先生は返事をせず、ルウムが手を振って指図した。

「うん、そこの棚のお茶っ葉をお願い。ドワーフのお菓子って、エルフのお茶の方が合うんだよねぇ」

 ドワーフ菓子の中でも、生菓子にはエルフの作った渋い緑のお茶が合う。揚げ菓子なら発酵茶一択だ。一方、エルフのチーズ菓子には、ドワーフの発酵茶がことさらに合う。二つの種族は、ときに奇妙なほど相性がいい。息が合うことを認めはしないだろうけれど。

 お隣さんからいつか譲り受けた古めかしいドワーフ陶器の急須を洗い、これまた洗った茶漉しをはめる。

 お茶の葉を入れたあと、湯沸かしのボタンを押してお湯を入れる。

 お湯は、濾過器の炭の香りがほんの少しだけ匂うのだった。

「よし。切った。湯呑みが用意できたら食べようか。楊枝もいいのを用意してと」

 アウロラは細いしなやかな楊枝を、餅のそばへと寝かせるようにしてあしらう。

 そのほかにも、かまどに据え付けた魔動力コンロで何かを煮ており、それを薬湯用のガラスの急須に入れ替え、濾し取った。柑橘系の爽やかな香りに、樹脂の匂いが混ざっている。なんだか変わったお茶だ。

「あれぇ? バルドルはどこよ? 風呂入ったんだよね? あたしに断りもなくなんで遊んでんの?」

「居間からラジオをいじっているような、なんか音が聞こえるけど、あー、あいつ、お先にお休みかね? まったく調子がいい」

 ルウムの言葉に、アウロラが返事した。たいそう冗談めかしてご立腹である。

 バルドルは料理当番をふだんから引き受けているが、こういうときはさっさとくつろぐフシがあった。料理が大変なのはわかるけれど、一言もないのだ。

「先にくつろいでるの? んじゃ とっちめようか。餅をおあずけしつつ」

「自分だけ先に休むんだから、あいつったらばまったく。旦那様ってわけね」

 ぶつくさ言いながら二人が行ってしまったので、湯沸かし器と火元をもう一度確認してから、安全装置をダメ押しにきちんと押し込んで、確認を終えた。

 居間にはバルドルが座り込んで、ラジオを弄っている。しっかり浴衣を着込んでステテコ姿で、いろいろまったく見えないとはいえ、スネとかが目のやり場に困る。

 部屋のつくりはドワーフ式で、板張りの部屋の中、ござの上で靴を履かないでくつろぐ部屋だ。

「なんだ、繋がらないな。海事日報社さん、しっかりしてくれよ」

「しっかりするのはあんたのほう。なんで動力器も入れないでいるわけ? いくら旧式のラジオとはいえ、ノイズでの動作確認くらいはしてよ。」

「なぬ? ああ、こりゃ動かんわけだ。慣れないもんだわ。よいっと」

 ラジオに括り付けた、外付けの動力装置を大儀そうに動かした。

 しばらく雑音が入った後、検波器が遅れて動き、電波がつながった。

 じじじ、とスピーカーから音が聞こえてきた。

「新型と旧式、取り違えるのもそろそろ慣れてね、おじさん」

 ルウムがめちゃくちゃイジワルそうな顔でそんなことを言う。

「やかましいわ。オレはもともと機械がダメなんだよ。中古オヤジだからな」

「中年と古希って?」

「まだジジイじゃねえや」

 つまみをひねって、彼は微妙なノイズを調節する。

『本日は快晴。黒点海域風の影響はなし。本日の潮汐の・・・』

「よし」

「よしじゃない。はやくこれ食べて。急患が入ると忙しいから。今日は夜間の往診も受け付けているもの。そのかわり、明日からはしばらく休めるわ」

「ここんとこ10日は働いているぞ。やっと北区の医者さんのイッちまった腰も治ったし、これでようやく骨休めができるねぇ」

 四人で座布団越しに机を囲み、さっそくお菓子に手を伸ばした。楊枝からほんのりといい匂いがして、お菓子にも期待してしまう。

「リアナに感謝ね。いただきます。あっ、これすごくいいお品」

 大きめに切り分けたお餅をわざわざ楊枝でさらに切り分けて、口元を俯かせて食べているところに、先生の育ちの良さが伺える。でも手は一番早かった。

 リアナもさっそく、手を伸ばして食べてみる。

「あ、美味しい」

 食べると、鼻の奥を抜けるような、爽やかでピリリ、キリリとした香りに、舌触りの良いほのかな甘み。餡子はとてもねっとりした感覚でありながら口の中でトロッとするほどよく練ってある。

 香辛料が効いていながらその味わいは仄かで、甘みを引き立てており、いくらでも食べられそうだった。

「んまい! 何これんまい! お店よりすごいよ!」

「この餅は美味いな。オレでも飽きもせず食えそうだ」

 お二人は大口開けて、楊枝をときに舐めつつむしゃむしゃ食べている。アウロラはその姿にあきれながらも、餅をつつきながらこう言った。

「ほんと、ふっくらしていい味。なにか香草でも入れてる? ドワーフ料理では何を入れたか、覚えてないわね」

「ふぃー。なんかの香草の葉を、蒸す時に敷いているんだぜ、たしか」

 バルドルはもう平らげて、アウロラの淹れた茶に手を伸ばした。

「この茶、うがい薬みたいな味だな。ん、さっぱりするな。なんだこれ?」

「炎症止めと降圧剤になるのよ。民間薬だけど、悪くない趣向でしょ? 楊枝につかった枝で淹れたの。もちろん、ちゃんとお茶にも使える物でね」

「へぇ、いいね。体にもいいなんて最高だ」

 バルドルよりも早く平らげたルウムが、物欲しそうにこちらを見ている。

「んー、もっとあればいいのに」

 こっそりルウムが伸ばしてきた手をはねのけ、自分のお餅を守る。

「ちょっと、それは私のだから」

 バルドルがニヤりと笑い、茶を勧める。

「あとでまた小腹が空いた時を楽しみにすりゃいいさ。茶でも飲めよ。歯の間にあんこが詰まってんぞ。嗜みがねえな」

「ふぁっ!? 口の中なんか見ないでよ! つーか嗜みなんぞバルドルにもねーだろ!」

 リアナも見た。お餅はおいしいけれど、あんこも歯にくっつきやすい。

「大口あけてるからそうなるんだ。ほれ、こっちの茶もなかなかだぜ」

「口臭にも効くから。さて、このあともゆっくりできるといいけど。たいていの相談を受け付けるせいで、二日に一回はお客が来るからねぇ。ここじゃなくて、一度は診療所のほうに回してほしいのだけど」

 ずずず、とお茶をすすりながら、アウロラがぼそぼそとつぶやいた。

 口臭云々については、ルウムはお気に召さなかった。

「口臭!? ちょっと、まるであたしが」

 最後まで言い終えないうちに、玄関で呼び鈴を鳴らす音がした。切羽詰まったような響きがある。

「ああ、はいはい。こりゃ行くしかないか。バルドル。お湯を沸かして」

「へいよ。何事も、とりあえず湯だな。ここで使わないなら、いつもどおりに魔法瓶の中にいれとくぜ」

 扉を開けると、アウロラの前には近所で何度も見かけた少年が立っていた。

 人間である。長袖長ズボンの服装だが、上着無しでも、その丸い顔を赤くして、なんとも元気そうだった。どことなく、その面影に親族の姿が見える。

「先生! うちのばあちゃんを診てください!」

「わかったわ。容体は?」

 そのおばあさんにも覚えがある。夏ごろに食べ過ぎで担ぎ込まれたことがあった。

 元気のいいひとだったが、やや調子のよいところのある人だった。こんどはいったいどうしたのか。

「体が冷えて、具合が悪いって言うんです。確かに冷たくて、心配になっちまって」

「すぐに来てくれてありがとう。患者はどこに?」

「お隣です。七色貝殻亭。診療所に行くほどじゃないっておもったから、そっちに」

 自宅隣の船宿には、玄関前に広い場所をとってあるため、重病人や伝染病の患者でもない限りは、ここに集まってくることがある。疫学的にあんまりよいことではないのだが、お客の聞き分けや付き合いが良いこともあって、おかげさまで受け持ち地区では診療所の勤務と、急患の対応しかしたことがない。

「わかったわ。お隣さんに行くって伝えて、準備するから」

「はい!」

 少年が駆けだしたのを見て、アウロラはいったん扉を閉めて、仕事の準備に取り掛かった。

 すべてを想定するとなると、仕事道具はそれなりの荷物になる。


 アウロラの準備は早く、自分の鞄一つで済むリアナが、先に靴を履いている内にも外に飛び出しそうだった。

 ドタバタと準備したせいですこし汗ばんだ額に、海風がひんやりと触れて、気持ちいいどころか寒い。

 四月ごろにもなると、ハーヴェス市内を歩き回るのに上着を着る必要はあまりなかった。ただ、レプラカーンはほかの小柄な種族よりも寒いのも暑いのも苦手だった。

 とくに、リアナは背が低いほうなので、ハーヴェス王国のような暖かい土地でも、上着を必要とするときもあった。

「うーん、風が冷たいわね。お婆ちゃんが心配だから、急がないといけないわ。薬湯だけで改善するようならいいんだけど」

 アウロラは鞄の中身を反芻しつつ、バルドルのことを思い浮かべた。彼はいま、どこにでも買い出しにいけるように準備している。

「どーせお隣でしょ?  忘れ物があっても近くっていいわー」

 ルウムはいつもどおりに呑気で、とても手伝いに行くような感じでなく、遊びに行くような気楽さだ。

「腰痛か。黒色潮風熱だと、教会の医者を呼ばないといけないな。手持ちで応急処置出来るだけならいいけれど。脳梗塞とかだとマズいから、行きましょう」

 家を出てすぐに、アウロラは早足で歩きだした。

「ね、先生。ただの冷え性なら、蜂蜜のほかにどんな甘味が必要かな?」

「蜂蜜でいいわ。ただ、刺激の少ない生薬でないと、お腹に良くないわね」

 相談を始める二人に無視されて、ルウムはふてくされた。

「聞いてねーし。ま、あたしも空気読まないとね」

 いろんな状況を想定する二人の後ろを、のそのそとついていった。


 店の中は暖炉の熱がこもって、風通しが良いのにちょっと暑かった。

 海鮮鍋がぐつぐつととろ火で煮えており、乾いていぶされた香草や香辛料の香りが店の中に漂っている。お味噌仕立ての料理で、この店の看板の一つだ。

 エルフらしい瀟洒なたたずまいのお店で、床に敷かれた茣蓙からはいつもほんのりといい匂いがする。木製の調度も品が良く、幾何学的な水色模様の織物で装飾された壁の雰囲気が、船宿のしっとりとした雰囲気をより強く演出している。

 入り口前の換気口の空気の流れが、ほんの少しひんやりと感じる。

 おばあちゃんは孫息子の手を握って、玄関前の椅子に座り込んでいる。どうやら、お茶をしているときに、お孫さんが冷えを意識したらしい。

 ご家族と食事を楽しんだようで、机の上の皿はすべて空っぽだ。ご家族はいったん帰宅して、重病だった場合に備えているらしい。

「あ、ああ。先生。ごめんなさいね、孫が」

 人間のおばあちゃんは、なにやら申し訳なさそうにしている。リアナは初めて会ったが、なるほど、いまは具合が優れなさそうだが、生来元気そうな人に見える。

 ふっくらとした印象の老婦人で、髪の毛はほとんど白い。ただ、意外に寒がりなのか、服装は厚着だった。厚着なんて考えられないという印象のお孫さんとは、ある意味で好対照だった。

「いえ、あまり冷えがひどいと、心配ですから。ではさっそく、おかげんを聞いてよろしいですか?」

「どうも冷えて、苦しくてね。ハーヴェスの春先にこんな塩梅じゃ、ハーヴェス育ちの名が廃るよ。こんなこと、気にしてもいなかったのに」

 了解を取り、それから失礼してアウロラが触診すると、手足も冷たく、腹回りも冷えている。

 脈や瞳孔の調子、肌の具合から、危険な病気や症状の兆候はないが、冷えそのものは看過できない水準だった。

 これは病気ではなく、おそらくはお年を召していることと、疲労などの内的な問題が原因だと考えられるが、とにかくすぐ対処する必要があった。

 過剰な冷えのせいで内臓が痛むと、本当に病気が出ることになる。そうなるとえらいことになる。地区の内科医の一人としては、見過ごせない。

 おばあちゃんはアウロラを見て、ずいぶん心配そうに言った。

「まさか、アビス海風病じゃない?  それとも、心臓が?」

 魔界に由来する疫病や蓄積毒による病気には、冷え性にしても異常なほど体が冷える病気もあるが、これはそうではないとアウロラは考えていた。あちらは指先のすさまじい激痛を伴うが、そんな様子はない。

 心臓病や脳の問題でも冷えが出ることもあるが、おばあちゃんの心臓はこれといって問題もなく、歳の割に元気そのものだった。

 アウロラは首を振ると、こう言った。

「いいえ、冷えが原因の腰痛が、お腹の方にも響いています。これは普通の対処でちゃんと治ります。ただ、冷えが強いので、通常の処方でなく、加えていくつかの生薬を使って対処しようと思います」

 孫の方を見て、彼女は不安そうに言った。

「それは、その、いくらぐらいですか?」

「あとで結構。とりあえず一回分の処方が、あなたには必要です。そのあとで」

 この割烹の女主人とは噂話を交わす仲で、料理もたまに食べにくる。自分たちは清潔なので厨房を借りたいと言うと、快く貸し出してくれた。お湯の用意などもやってくれるという。

 とりあえずバルドルに探させて持ってきた果物をごろんと取り出して、吟味する。

 組織の関係者から送られてくるものの残りだ。果物は、病気と言えないような軽い症状への、簡単な処置に使いやすいのだ。薬を処方せずに自腹で対処できるのは、こういう場合やりやすくて助かる。ハーヴェスはそのあたりは柔軟なのだ。

 準備する間に、手洗いも済ませて、口元を布で覆った。

「りんご、みかん。これだけあれば薬湯を煎じるまでにお茶を濁せそうね」

 みかんの果肉を磨り潰したものはとりあえずお孫さんに出すことにして、りんごをリアナは手に取った。みかんの果皮は刻んで、お湯につけて香りをかいでもらうことにする。民間療法的なやり方に近いが、多少の効果が認められている処方の一つだ。

「りんごは皮をとった方がいいね。腸を刺激する、だったよね?」

 皮には腸を刺激する物質が含まれている。ほんの微量とはいえ、取り除いた方がいいだろう。腹痛を誘発するのはよくない。

「ええ、そうしてもらえる?」

「あ、じゃああたしが皮もらうし!」

 ルウムはみかんを分解しながら、いつからもっていたのか、自分の箸でつまんで房とリンゴの皮をむしゃむしゃ食べている。口布ごしとはいえ行儀が悪すぎる。

 アウロラはため息をつき、薬箱から密閉した薬包を取り出した。小型のマテリアルカードで内部の状態を封印してある。こういった完全密閉を可能とする術は、錬金術の技法のひとつだ。

「ひとまずこれで」

 アウロラが清潔な湯飲みに粉を入れ、ハチミツと湯を入れて解く。

「ほら、ルウムはみかんを潰して。お孫さんが待っているでしょ。リアナ、あなたがこれを持って行って、そのほうがいいだろうから。生薬の葛のことは説明できるでしょう?」

 蜂蜜にほんのり色づいたとろりとした飲み物を受け取り、うなずく。

 お待ちかねのおばあちゃんに湯飲みをそろそろと持っていき、目の前の机に置く。

「はい、おばあちゃん。蜂蜜入りの葛湯です」

「ああ、こりゃいい。そういや、この頃あまり見ないね。どこに売っているんだか」

 この飲み物はリカントたちがよく作るもので、北方の交易路が凍結と雪解けを繰り返す時期には輸入がされない。黒点海域の冷風のせいで、ディガット山脈南端の通商路は三月ごろでも凍結することがある。いまは品薄の時期だ。

 お薬というよりある種の食品といったほうがいい代物だが、効果は期待できる。

「すりおろしたりんごも入れました、どうぞ」

「ありがたいねぇ。うん、こりゃうまい。けっこうなお手前だね」

 おばあちゃんに微笑みかけられ、はにかむ。そのまま辞して厨房に戻ると、コップに入れたみかんのジュースを物欲しそうに眺めるルウムとすれ違った。となりの湯気を立てる椀の中にはみかんの皮が浮かんでおり、良い香りがしている。

 厨房では、アウロラが生薬を取り出して調合していた。

「先生が見るには、おばあちゃん、調子はどんななの? そんなに具合悪そうに見えないけど」

 先生の脇に立って、こういった。先生は小さな薬缶に沸いたお湯を、薬湯を入れる器に入れて、その器を温めつつ、返事する。

「見たところ頭も内臓も大丈夫だけど、冷えがひどいのよ。今年の冬はだいぶ寒かったから、春先に体調を崩したのかもね。とりあえず、いまは薬草で対処するわ。私は薬湯を淹れるから、二人でおばあちゃんの相手をしてて」

 薬の処方に興味があったので、立ち去り際にリアナはアウロラに質問した。

「このお薬ってどんな症状に効くの?」

「葛湯でお腹を温めて、お茶で凝りをほぐすって感じかな。葛湯は血管にも骨にもいいから。あのおばあちゃんが飲んだことあってよかった。好き嫌いがどうしてもあるから」

 生薬はマギテック社が売り出す精製薬と異なり、その味わいに独特な癖があることも多い。もっとも、苦くてまずい精製薬も数多いが。いずれにせよ、原料はいずれも薬草の類である。

 生薬と精製薬の違いは、保存期間や品質の均一性の差異にすぎない。

「お茶の方は?」

「いろいろ。家に戻ったら教えるわ。一番の目的は体を温めることと、温めてから凝った体の痛みが出るから、その抑制と治療。ああ、そうだ。薬問屋に処方箋を書かないとね。これ、効いてくるのに少し時間がかかるし、深刻な冷えだとしばらく飲み続ける必要があるから。あのおばあちゃんは頑丈な人だから、春先の治療だけでおおよそ快癒すると思う」

 先生の仕事を手伝ってまだひと月。

 リアナはまだ薬の勉強をして間もないものの、そんなにたくさんのことを考えなければならないことに、いっそ気おくれさえ覚えた。

「じゃ、おばあちゃんとおしゃべりしてきます」

「うん。ルウムだけだと煩いだろうから。いってらっしゃい」

 アウロラが生薬を薬研で磨り潰している間に、おばあちゃんの相手をするために戻った。

 戻ると、お孫さんがジュースを飲んでいる傍ら、おばあちゃんがなぜかチーズを食べていた。みかんの皮のいい匂いには似合っている。

 いつの間にどこからもってきたんだろう? ルウムは椅子に腰かけて、おしゃべりしながらけらけら笑っている。 

「チーズ、うまいでしょ?」

「うまい、うまい。茶腹も一時と言えども、まるでなにも食べないなんて物足りなかったね」

 おばあちゃんの、食いしん坊という評判は事実らしい。

 さっき、ご家族と食事したばっかりじゃないのだろうか。

「あの、チーズを食べても大丈夫なんですか?」

 いったいぜんたいどこから持ってきたのかが一番に気になる。チーズも、練りこんであるハーブ次第では薬との相性を考えないといけないのに。

「ラージャハのチーズは子供の頃から食べているよ。平気、平気」

「まあ、ごはんと一緒でも大丈夫なお薬ですけど」

「それならもっと食べないとね! あはは!」

 顔色が良くなっていて、楽しそうだ。

 こちらとしても、健康に問題が無いなら文句はない。

「ええと、そのチーズ、どこから?」

 ふと見ると、ルウムまでチーズを食べている。親友はさっきから食べてばかりのような気もする。

「ユリウスが持ってきてくれたんだよ。香辛料は使ってないってさ」

 ユリウス。最近一緒に住み始めた不思議な同居人。

 いまはもうどこにも姿が見えないけど、どこから聞きつけてやってきたんだろう?

「ほら、お嬢ちゃんも食べて。あたしはこんなに食べきれないよ」

 机の上には、きちんと切り分けられた赤いチーズが並ぶ。

 市場でもよく見かける、赤みがかかった熟成チーズだ。

「ばあちゃん。食べすぎだよ。また秋みたいにハラ壊したらどうすんのさ」

「先生のおかげで治ったから、平気だよ。あのときも食べ過ぎたねぇ」

 どうやら夏ごろに担ぎ込まれたあとも、食欲の旺盛さは衰えなかったらしい。秋にも食がすすんだようだ。

 自分もチーズをつつくお孫さんに苦笑してみせつつ、チーズを口の中にいれる。

 赤いチーズは、ふんわりとまろやかで、甘みと塩辛さがちょうどいい。美味しいチーズだった。ナッツみたいに香ばしくて、とろりとしている。

 結局のところ、薬湯を飲んだおばあちゃんはすぐに調子を戻し、処方箋を小脇に抱え、お孫さんを連れてさっそうと帰っていったのだった。先生は呆れていたものの、治ったこと自体は嬉しそうだった。

 自分たちは割烹の女主人に挨拶してから、家に帰ったのだった。

 

 

 その日の夜。

 その後は急患もなく、夜ごはんもお風呂も終わって、リアナは自分の部屋に引っ込んで、勉強机の前で日記を書いていた。

 バルドルの作った海鮮スープは今日も美味しかった。野菜もハーブも魚も貝もたっぷり入った贅沢かつ料理法の簡素な品で、時間をかけて煮るだけで作れる。

 これに、生野菜のサラダとドワーフ風のお漬物、田舎風のずっしりパンを添えて食事をとったのだった。朝方に市場で買ったパンは少し堅くなったけれど、焼いてからスープに浸すと絶品だった。

 サラダも旬の野菜が活きていて、茹でたサヤマメとタマネギに、単純なオイルと海塩、酢仕立てのドレッシングの味が鮮烈な、おいしいサラダだった。

 日記を書きながらでも、柔らかな野菜と歯ごたえのある海鮮の鼻へ抜けるような味が思い出される。漬物は酸っぱすぎて、歯が浮きそうだった。

 机はすこしがたつきがあって、座り込んでペンを走らせると、日記帳への力の込め具合でたまに揺れる。

 おばあちゃんはお茶を飲んだらすっかり良くなったように見えた。先生は処方箋と薬の処方についていろいろとくぎを刺していた。絶対に用量以上を飲んではいけません。毒になることがまれでも、むしろ心臓に障りがありますなどと、丁寧に説明していた。などなど。

「リアナ?  あ、日記書いてるんだ。マジメ〜」

 ルウムは先に寝台の上で丸くなっていて、本を読んではニヤニヤしている。そういえば、貸本屋から借りた海洋冒険物語を読んでいると聞いた。

「起きたことは覚えておきたいの。そうすれば、いつか読み返して勇気が出るかもしれないでしょ?」

 日記も書き始めてずいぶん経つ。もう五年は続けている。

 そう、覚えていない昔のことも、日記を残すうちにもしかすると思い出すかもしれない。

「ねえねえ、リアナ。お勉強もいいけど、こっちでいっしょに本を読まない? 面白いんだよー、読んだげるよ」

「あとでね。それと、隣の家に聞こえちゃうからあんまり大声出さないで」

「もー、まるでお姉ちゃんみたい。まあいいや。あたしは眠くなるまでここで読んでるから。寝る時はいっしょだよ」

「はいはい」

 日記帳も、これで五冊目。

 明日からはいったい、楽しいことも、そうでないことも、どんなことが起きるのだろう?

 いまからそれが楽しみで、少しだけ覚悟がいる。

 忘れたいと思えることがありませんように。

 忘れたいこと、イヤなことににぶつかったら、どうか乗り越えることができますように。

 そうやって信じることが、より良い明日と向き合う勇気になる。

 ペンをおいて、ルウムの方を向いた。

「ところで、その本、どんな話なんだっけ? もうそろそろ、わたしも寝ようと思うから、ちょっと聞いてもいいかな」

「おー、いいよいいよ。話したげるよ」

 それから、眠くなるまで、日記を書きつつ、リアナはルウムの話を聞いた。

 海辺の町から、海のかなたを夢見る少年。

 悪漢のたむろする騒々しい酒場。

 宝を求めて冒険する船。

 蛮族の恐ろしい海賊。

 宝の発見と、同行者の裏切り。

 港町で聞くに面白い話だったけれど、ルウムは適当に話して、あとは自分で読んでと放り出すような感じだった。いつもこうなのだ。

 話を聞いてから、日記帳を閉じ、マギテックの明かりを消して寝床に潜り込んだ。

 相棒と寝転ぶと柔らかくて温かいが、耳に触ってこようとする。

「ちょっと、耳はやめてよ」

「いいじゃんかー。てゆか、リアナってちょっとつべたいよ。おばあちゃんのお薬、リアナも飲んでみたら」

 犬のにおいがするなどというわりに、いつも一緒に寝るのがルウムのやっかいなところだった。だけど、それが安心できてしょうがなかったころもあった。

「余計なお世話。明日は港の方に往診するから、はやく寝てよ」

「へいへーい。明日も面白いこと、あるといいね」

 ルウムの髪の毛を撫でて、リアナは微笑んだ。

「うん。そうだね」

 明日という日が、またつつがなく過ぎますように。

 そう願って、彼女は目をつぶった。


                      《第一話 終》

【magitec server library】


・解説

 ブルライト地方ハーヴェス王国について。

 平和維持活動に対する報告義務を履行する。

 惑星ラクシア北半球にて、一号計画執行騎士が記録。

 下書き。執行騎士Aが清書を行う。


 座標はアルフレイム大陸西域南方。ハーヴェス王国。

《政治》

 大陸の南端に存在する、有力者による合議制を採用した王政国家。

 内政は、先代王と議会の確執により、利権が錯綜した状況。庶民生活にただちの影響こそないものの、実業家と旧貴族との対立はかなり根深いものがある。

 調整役を担っていた王国政府の内部の問題もあって、鉄道建設計画は都市国家間で紛糾し、最終的に内陸部の通行計画が指定されたものの、鉄道計画に絡んでの政治的暗闘はいまだ存在する。結果としては、王室の牽引によって決着を見たのであり、かつての旧王制時代の弊害が多々残留していることが浮き彫りとなった。

 とはいえ、帝国軍の妨害をのぞけば、ただちに王政府に影響するような深刻な問題は見受けられない。

 帝国がらみの暴力沙汰の対処および、鉄道計画の執行についで権力闘争をしでかす連中の対処については、執行騎士C夫妻に対応を一任。

 結果、C夫妻により、帝国軍先遣隊の排除および、珍妙な活動を行っていた貴族崩れの《説得》に成功した。

 先遣隊については、夫妻が国軍とともに迎撃して撃退。

 あの貴族崩れについては、駅馬車などの交通関係の利権にかかわりが深く、スラムにおける商売にも関わっている人物だったが、戦闘分子の排除と、不正行為のすっぱ抜きのみで排除することができたそうだ。これでようやく、外野の妙な動きのせいでスラムが動揺することは少なくなるだろう。

 まったく。東部地域の人々に対する政府関係者の冷遇には目に余るものがある。助けるような面をして、あげつらっては馬鹿にしているだけなのだ。あんな連中には、王国議会選挙のさいに投票せずに、参加費用を没収した方がマシというものだ。

 とはいえ、鉄道建設の計画において、当初の懸念である冒険者協会の反発はなかったものの、駅馬車組合の反対はいまだに根強く、交易人足の失業問題、スラムの鉄道横断問題なども相まって、鉄道建設はまだまだ難航しそうだ。

 鉄道問題の方向性においては、最終的には駅馬車と鉄道の同時運営を行うことで決着するように騎士団は誘導している。

 鉄道の利便性と安全性、雇用を両立するための措置であり、帝国がらみの労働面の危険性が保持されるとはいえ、帝国との対立と国内の雇用事情がある以上やむなし。

 機械文明のころにも、肉体労働と〈専門的業務〉の争いが起きたものだが、いちいち諍いにまで持ち上げるのは勘弁してほしい。結局のところ、弱みや痛みを背負わされるのは扇動された人間だのに。

 一号計画については、引き続き潜伏及び監察を行う。


《地理概略 その1》

 ハーヴェス王国について。

 大災厄後、機械文明時代のシェルター周囲に成立した小規模な都市が、周辺諸国との交易の要衝として発展したもの。いまも王城の地下には、旧文明の機械装置が存在しており、王家の霊廟のさらに深い地点に秘匿されているという。

 王国周囲は、亜熱帯を思わせるほど温暖かつ湿潤な環境だが、黒点海域と呼ばれるアビス〈魔界〉の領域から、零下を下回る冷たい風が吹き、冬季には意外なほどに気温が下がる。夏季においても、風向きしだいではアビスの影響を受け、寒冷となる。

 民俗学的には、海に向き合う漁師たちの舟歌が、この海に吹きすさぶ冷たい風をよく表している。歌詞を部分的に抜粋する。

 原語はリカントの言葉であり、共通語に訳すだけでは、雰囲気を伝える上でもよくないのだが、つたないながらに翻訳をする。原語資料については同封の資料集にて閲覧されたし。

『足つきの家に はるかな明かり

 重い水棹に 黒い風 

 こんな寒さじゃ 魚の尾っぽもあがりもしない

 網ばかり重く 荷も軽いのに 喜ばせられるか

 ああ 女の恨み節さ 寂しがりのため息

 期待を裏切る男に 月が冷たくなじるもの』

 これは、漁業の成果がよくないことがアビスの黒点海域によるものという、古い漁師たちの感覚に基づき、不漁で妻に責められることを憂えるような、どうしようもない哀愁に満ちた舟歌である。男性が歌う民謡だ。

 月はリカントたちにとって、女性と邪視を象徴するものの一つ。

 期待と希望。妬みと誹りという、古典的な二面性を表す。

 機械文明のころでは批判されかねない歌詞の内容であるが、諍いで自己の価値を求め、高めたがるような連中に関わりのないことなので、そのまま記載する。

 責める理由を求めるなぞ、道義もなにもない。所詮は古典である。

 比較的赤道に近いとはいえ、海上では零下を下回ることも珍しくないため、冬の不漁はとりわけ身に染みるものだった。  

 学術的には、鏡像座標上においてこの領域は、北方の巨大な魔界に照応する場所になる。

 北部の大深界の拡大が停止してしばらくたつが、黒点海域での活動はいまだに活発であり、大深界の内部ではいまだに活動が起きているという学説を補填している。


《地理概略 その2》

 植生には独特なものがあり、いまだ《見えぬケルディオン大陸》に見られるような、アビスの寒冷帯に適応した熱帯植物が数多く生える。

 そのため、熱帯域と温帯域の植生を生かした、多彩な食材が存在する。

 食材については、温帯域の都市国家の輸入品から、熱帯の珍味にいたるまで、多種多様なものが含まれる。

 鉄道の建造計画前にも、大規模な陸上貿易の要衝として栄えており、ブルライト地方全域との通商関係が存在する。

 貿易立国というのは伊達ではなく、大陸で一、二を争う大規模な港湾都市である。

 船舶の利用は市民にもなじみ深く、市内に網の目のように走る水路網が有名。

 また、リカントたちが操船する装飾性の強い小舟による市内観光は、ブルライト地方でも有名な娯楽の一つ。

 産業においては、アルフレイム大陸全土への貿易の中継地としての立場と、豊富な海産物、農産物の輸出拠点としての役割を、ブルライト地方において担っており、周辺の都市国家にとって重要な経済拠点でもある。

 テラスティア大陸への遠洋長距離航路も確立されており、やや南西に所在するレーゼルドーン大陸照葉域との海峡部にはハーヴェスの商会が存在する。

 また、かつての国家統一後、数多くの人族系種族の共存関係と、人魚たちとの友好関係が今も維持されている。

 人口比こそおおよそ決まっているが、多様な人族が存在し、これまた多様な産業を支えている形となっている。

 

《政治 その2》

 一方で、近年は帝国軍傘下のギルマンたちの襲撃が多発しており、捕縛された者の主張から鑑みるに、大陸南部に発する何かしらの汚染が原因とされている。

 かれらの対処についても、C夫妻に対応を一任。ほとんどが話の通じない集団だったらしく、正当防衛の根拠のもと、《執行》を下したという。

 二人が対話できないとは、敵対組織の作為が疑われる。

 かつての同盟者に黙祷する。

 鉄道建設にせよ、スラムについての問題にせよ、執行騎士Aの調査によれば、深刻な汚染の痕跡はなかった。とはいえ、このあたりは機械文明時代の遺物が多数埋没しているので確証は得られず、軽度の魔力汚染ならばスラム周辺に沈殿している。

 今後、極秘裏に港湾部や都市北部の河川域の調査を履行する予定。

 地上部に異常が無いのなら、海底や河川上流に異常があるはず。

 調査の際は彼女にも助力をお願いしようか。R女史については能力になんの問題もない。優秀すぎて肩身が狭い。

 頭が痛いことに、政界に怪しい動きがある。

 貴族の一人が、これまた妙な挙動をしているのだが、まるで人が変わったような行動であり、こちらもC夫妻と連携して、貴族家の調査を行っている。

 医学博士である執行騎士Aのツテで社交界に探りを入れる必要もあるだろう。自分も教会の事務局方面で調べをする必要があるか。貴族の身内を探るなら、出家した貴族を探すのが一番いい。

 現在、殉教団の活動が懸念されるため、ギルマンたちの派閥については、調停騎士団による要監察対象。C夫妻の遭遇した集団は、控えめに言って正気を失っていたらしい。連中の手口に近い。

 報告は以上。覚書は手元に残し、後進の教育に用いる。

 今後も、一号計画の完結のために、執行騎士Aとともに任務を遂行する。】


 収蔵。調停騎士団付き編纂室、執行騎士報告の分冊資料より。

ハーヴェス王国について概要を記す。 執行騎士B. 執行騎士A.

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abyss of unfair 久灘 結 @hisanadayui335

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