ボーナストラック③

「……お願いだから、ちょっと落ち着いてくれないかな。僕に君を傷付けるつもりはないんだ」

『きゃんっ! きゃうっ、ぐるぅ!』


 北方のフィールドワークに行ったときに、山岳地帯の中腹でその炎狐ファイアフォックスとは出会った。

 やや橙がかった茶色の毛。黒い尾の先端は靄のようにかすんで揺れている。かすみ方からしてどうやらオスらしい。

 フィールドワーク中、基本的に野生生物の生活には干渉しない。にもかかわらず僕が彼に近寄ろうとしたのには理由があった。


「僕はただ、その傷の手当てをさせてほしいんだ。そのまま放置しておくと致命傷になるよ」『けぇええぇぇんっ! ぎゃんっ!』


 後ろ足の付け根あたりに、折れた矢が刺さったままになっている。おそらく現地の狩猟者から射られたあと、逃げ切ることに成功のだろう。


 まだ射られてから時間は経っていないらしく、すぐに治療すれば死ぬような傷ではない。僕なら手持ちの道具だけで彼を治療することも可能だった。


 だが問題がひとつ。

 山は燃えていた。本物ではなく、幻の炎によって。


 『幻燈』。熱くもなく燃やしもしない、見せかけだけの炎。それは炎狐ファイアフォックスの自衛手段であり、強い警戒を示すサインだ。

 こんな状況なのに……いや、こんな状況だからと言うべきか。炎狐ファイアフォックスは僕に対して、きわめて強い警戒心を見せていた。


「……。まずいな。これ以上近寄れば、間違いなく本物の炎で迎撃してくる。そうなったら……」


 僕自身の身に危険はない。当時の僕は今と比べると圧倒的に未熟だったけれど、炎狐ファイアフォックスが放つ炎から身を守ることくらいはできた。

 問題は炎狐ファイアフォックス自身だ。この種族は自分が放つ炎に対して耐性を持たない。彼が放つ炎魔法は、すなわち自らの体をも燃やす自爆攻撃なのだ。


 これ以上近寄れば、彼は自分が出した炎で死んでしまう。かといって放置すれば、今度は矢傷で死んでしまう。

 まさに八方塞がりだった。


『ぐるるぅ……』


 炎狐ファイアフォックスのうなり声がさらに一段低くなる。

 幻燈を見てもいつまでも立ち去らない僕に、警戒を強めているらしい。まずい兆候だった。おそらくこのままだと、近寄らなくても本物の炎の攻撃が発動してしまう。


 そんなときだった。

 その音楽が、鳴り響いたのは。


~~~~

~~ ~~ ~~~~~


 ……やっぱり、『歌声』だったとは思えない。あんな言語は聞いたこともない。

 かといって。あれほど霊妙で神秘的な音色を奏でる楽器があるとも、また考えづらいのだけれど。

 ともかく、やけに心の落ち着く音色だった。


『けぇん……』


 炎が、消えていく。

 山を覆っていた熱を持たない炎が。まるで雨にでも降られたかのように、ひとつ、またひとつと消えていく。


 やがて幻の炎がすべて消え失せたあと。

 そこに残っていたのは、幸せそうに音楽に聴き入る炎狐ファイアフォックスだけだった。


 炎狐ファイアフォックスは、僕が近寄っても、脚から矢を抜いても、傷を治療しても、もはや警戒のうなり声を上げなかった。

 やがて僕が治療を終えたとき、音楽は鳴り止んだ。


 僕は振り返って演奏していた人物を探す。感謝と、その美しい音楽への賞賛を述べたかった。

 でもそこには誰もいなかった。


 ……そういえば昔、ルークから『狐につままれたよう』というイディオムの存在を教えてもらったっけ。そんなことを当時の僕は思い出していた。

 僕を化かしたはずの当の狐は、僕の膝の上で満足げにすやすやと眠りこけている。僕にできたのは、その首元を柔らかく撫でることだけだった。





「よ。なにぼーっとしてんの、フィート」

「え? ……あ、ああ。ロナか」

「ロナでーす。久しぶりにちょっと忙しいロナですよー」


 早朝、カフェの開店前。

 店先ではるか昔の回想にふけっていた僕は、いきなりやってきたロナによって現実に引き戻された。


「忙しい? ……ああ、今日の音楽祭がらみか」

「正解! なんか今年、やたらと音楽祭の警備が厳重でねー。戦争も政争も終わったんだから、もっとのんびりさせてほしいものだよ……」


 珍しくぐちぐちとつぶやくロナに僕は苦笑する。

 そう、今日はまさに王都音楽祭当日だ。

 結局炎狐ファイアフォックスの秘密はわからなかった。いちおうメインステージの舞台は滞りなく行われるようなので、メルフィさんはなんとか代わりを見付けたのだろう。


 音楽祭の警備が厳重な理由はまあ、なんとなくわかる。

 たぶん、勢力がいるのだ。


「帝国のスパイとか、革命を起こしたがってる過激派とか、レイアード王太子の政権が盤石じゃない方が嬉しい人はそれなりにいるだろうからね。そういう人たちが騒ぎを起こすのを取り締まらなきゃいけないわけだ」

「そうそう! ……あ、いや。警備態勢に関わることは話せないですね、うん」


 ギリギリ間に合っていないタイミングで天馬部隊隊員としての職責を思い出したらしいロナが、いかめしい顔をして僕をにらみ付ける。


「失礼しました」

「うむ。……で、まあ。今日は早朝からメインステージのほうに行かなきゃいけなくてさ。通勤ルートでたまたまカフェの上空を通ることになったわけだけど、ふと暗い顔で店の前に立ってる不審者を見付けたから、職務質問のために降りてきたわけ」

『ぎゅるおぉぉ~~~ん!』

「なるほど」


 たとえ業務時間外でも王都の治安を守らんとする、素晴らしい意識の高さだ。頭が下がるぜ。

 ロナのうしろで尻尾を振るシルフィードはに手を振りながら、僕は苦笑した。


「今日は誰が出勤してるの? サニーいる?」

「いるよ。呼んでこようか?」

「いやいいよ。これ以上お店の邪魔できないし、今度ちゃんとお金払ってくるからさ」

「優良顧客だなぁ」


 ロナは新生『desert & feed』の常連だった。

 ちゃんとツイスタで発表している魔法生物たちの出勤リストをチェックして、お気に入りの子がいる時を狙って来店するタイプの常連だ。


 そういえば以前、この出勤リストについてロナから文句を言われたことがあった。


『前に来たときの出勤リスト? なんだよ。ちゃんと出勤してる魔法生物は全部書いてあるだろ』

『書いてないよ。人間のフィートさんの出勤状況も書いといてくれないと困る。休みだったでしょ、この日のフィート』

『……えーと』

『あたしはサニーとかデザートムーンとかだけじゃなくて、フィートにも会いに来てるんだからさぁ』

『厄介客すぎるって』


 ……こういうやり取りの時に自分が抱く感情の正体について、僕はいまだにわからないでいる。もういっそのこと、この感情を恋愛感情と名付けてロナと交際してみてもいいのではないか、とたまに思わなくもない。

 でもまあ、そうするとロナはけっこう怒りそうだ。そのくらいのことがわかる程度には、僕も人間の感情の機微がわかるようになってきている。


「フィート、またぼーっとしてる」

「あ、ごめんごめん」

「もー。じゃあもう行くからね。あたし、忙しいからさ」

「不審者への職務質問はもういいの?」

「いいよ。よく見たらお店のためにがんばる良い不審者だったから」


 それはよかった。今日も王都が平和そうでなによりだぜ。


 良い不審者こと僕が手を振って見送る中、ロナを乗せたシルフィードは急浮上してメインステージのほうへ飛んでいった。

 ……相変わらずすごいスピードだ。あれならここからメインステージまで、10秒もかからず着くことだろう。


 大きく伸びをして、僕は店内に戻ることにした。そろそろフードメニューの最終準備をしておかないと。


 そんなことを考えながら店の扉を開けた僕は、だから直前まで扉のすぐそばに立っている魔法生物に気付かなかった。


「……え」

『――――――――』


 ニャア。

 いや、僕が鳴いたわけじゃない。それが彼の名前なんだ。

 キリンのニャア……黒い体毛と金色のたてがみを持つ『霊獣』は、鳴き声ひとつ発することなく一点を見つめていた。

 ロナとシルフィードが飛び去っていった、音楽祭メインステージの方向を。


「……ニャア。どうかしたかい?」

『―――――』


 問いかける僕にちらりと視線をやって、しかしキリンはなにも答えなかった。

 いやまあ、いつものことだ。普段の『desert & feed』でも、生物兵器『蠅の女王ベルゼマム』で暴走状態になっていたときでも、ニャアは一切鳴き声を発さなかった。そもそもキリンという生き物がそうなのだ。


 一切声を発さない、野生生物とは思えない静けさ。加えて天候すらも操る絶大な魔力に、翼もなしに空を駆ける神秘性。

 それゆえにキリンは、北方では『霊獣』と呼ばれ信仰の対象になっている。


「……あれ? でも、じゃあどうして」

「店長! すいません、ちょっとソース見てくれませんか!」

「あ、うん。今行くよ!」


 結局、ニャアがじっと扉のそばに立っていた理由は分からないまま。

 日々の業務に追われて、僕はその場を後にしたのだった。

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