第26話 地上10メートルの雨雲

 フィート・ベガパークがペンダントを外す。

 それは僕、ハルトール・クラウゼルが最も恐れていたことだった。


 だがまさかいま、このタイミングで外すとは。


「……ぐ、っ。何を、考えているんだい。フィート君。今になってペンダントを外す、なんて」

「…………」


 フィート君から吹き出す圧倒的な魔力に僕の体が竦む。

 いい。これは生物としての自然な反応だ。それでも頭は回し続けろ。


 ペンダントを外して魔力量で僕を圧倒する。フィート君にそれができるなら、これまでにいくらでもそうすべき場面はあったはずだ。

 今この状況において、フィート自身の戦闘能力が強化されることは何の意味も持たない……はずだが。


「……いや、そうか。君はこう思っているんだな。『賢者の石』としての実力を完全に発揮すれば、すぐさま僕を制圧できると。そして通信が遮断されている状態を生かして、魔力による急加速で冒険者ギルドとカフェにも急襲を仕掛けようと」

「…………」

「させないよ! その状態の君は、僕にとっても圧倒的格上だ。だが格上相手の戦い方を知らないわけじゃない。逃げに徹すれば時間は稼げるはずだ。僕とデザートムーン君を残したままこの場を去ることはできないだろう?」


 額を銀嘴鶴スカーアイズの感覚器官に変形させ、脚を縮めていつでも飛び出せるように姿勢を整える。

 どこからでもかかってくるがいいよ、フィート君。すぐにランバーン兄様が統制を取り戻す。君がいくら強くとも、人質を取られていれば逆らえないはずだ。


 1秒。

 2秒。

 ……3秒。


「……? フィート君、どうしたんだい? そのままじっとしているつもりかい?」

「…………」


 フィート君は動かない。

 ……いや、それだけじゃない。


 魔力を探知する銀嘴鶴スカーアイズの感覚器官が告げていた。

 フィート君から感じる魔力が、どんどん弱まっている。


 魔力量の減少は止まらない。恐怖すら感じるような魔力の奔流は収まり、今ではそよ風のようなわずかな力を感じるのみだ。

 見える魔力の量が減ったことで、魔力の流れもよく見えるようになった。どうやら網目状になった魔力が、フィート君からどんどん流れ出しているようだ。


 やがてフィート君から流れ出す魔力は完全に尽きた。

 どさり、と。フィート君が崩れ落ちるように床に座り込む。

 フィート君自身から感じる魔力量も、いまはごくわずかなものにすぎない。


「……は。ははっ。暴走したエネルギーを君は抑えきれず、魔力は空中に霧散した。どうやらそういうことみたいだね」

「…………」

「フィート君。君の最後の切り札は空振りだったみたいだ」


 ……しかし僕としてもちょっと困ったことになったな。フィート君のエネルギーが一時的に枯渇してしまったらしい現状、すぐにエンペリオを蘇生することはできなくなった。

 仕方ないな。一度フィート君を監禁してエネルギーの回復を待とう。人質のみんなには悪いけど、もう少し我慢してもらうしかないだろう。


「……本来」

「ん?」

「本来、僕がこういう感情を抱くべきじゃない。なぜかそういう意識が強烈にあるんです」

「……? なんの話だ、フィートく」


 瞬間。ぞわりとした寒気が僕の背筋を走った。


 本来、フィート・ベガパークは絶望に打ちひしがれているべきだ。

 自分の命は絶望的で、友人たちは自分のために命を危険にさらし、状況を打開する切り札も空振ったのだから。

 それなのに。


「みんなバカですよね。この状況で抵抗したって状況が良くなるはずもないのに、僕なんかのために。その行動が僕の邪魔になってるってわからないんでしょうか」

「……何をした、フィート君」

「それなのに。どうしてでしょうね。僕はいま……」

「何をしたって聞いてるんだ!」


 フィート君は笑っていた。

 とても幸せそうに。


「……僕はいま、とても嬉しいんです」





「ぐっ……くそぉ……!」

「奇襲してきた天馬部隊隊員とペガサスの確保が完了しました、ランバーン王子」

「よし」


 ランバーン・クラウゼルはうなずいて立ち上がった。

 先ほど頭部を殴打されたことによるダメージは、傭兵のひとりによる強力な治癒魔法ですでにほとんどかき消されている。


 愚かな娘だ、と内心でランバーンはつぶやく。

 選りすぐりの傭兵部隊なのだ。当然ひとりで殴り込んでもすぐに取り押さえられるし、多少ダメージを与えても優秀な治癒魔法使いがすぐに治療してしまう。水晶玉を壊したようだが、時間稼ぎにもならない。傭兵部隊の小隊長クラスは全員水晶玉を常備している。


『にゃ~~』

「く、くそ、この! すみません王子、こいつなかなか捕まえられなくて……」


 ガラス瓶の中にスライムキャットを詰め込もうとする傭兵に、ランバーンは苦笑した。


「放っておきなさい。どうせそんな生き物に何もできやしない」

「は……はい!」

「……む。雨が降ってきたな。やれやれ、誰か水晶玉を貸してくれ。フィート君との交渉を手早くやり直させてもらおう」


 頬をぬらす水の感覚に顔をしかめながら、ランバーンは傭兵のひとりから水晶玉を受け取った。

 まったく。無意味な抵抗で余計な手間が増えた。風邪を引く前にケリをつけなければ……


「……雨?」


 逆説的ではあるが。事態の異常さに気付くのが遅れたのは、それがあまりにも異常な事態だったからだ。

 『desert & feed』店内に、雨が降っている。


『――――――』

「き、キリン! キリンが目を覚ましています! あいつが雨を降らしてるんだ!」

「バカな。睡眠魔法は十分に……いや、今はいい。再確保しろ。殺しても構わん」


 眠っていたはずのキリンがカフェの森林地帯入り口付近に立ち、静かながらどこか怒りをたたえたような瞳でじっとこちらを見つめている。

 この異常事態にあっても、百戦錬磨の傭兵部隊は冷静だった。即座に隊列を組み、連係を取りながら黒毛の魔法生物に迫る。


 そんな中。

 ランバーンだけが、雨に打たれながら立ち尽くしていた。


「……なんだ、これは」


 それはランバーンの無能さの証明ではない。むしろ彼の聡明さを証明していたと言える。


 彼は正しく認識していたのだ。元々気温の低い上空に雲を発生させることと、カフェの天井に雲を発生させることの難易度の違いを。


「異常な魔力量だ。ただの魔法生物にこんな魔力が操れるはずがない。これじゃまるで……」

「各班、所定の位置に配置完了しました」

「よし。攻撃開――」

『けぇえええええええん!!!!!』


 突如としてカフェを爆炎が襲った。

 それはこの世界においてかつて存在したどんな炎よりも圧倒的で、暴力的な炎。

 存在感を持った爆炎は、正確に傭兵部隊とランバーンだけを呑み込む。


「ぐあああああっ!!??」

「あっ……あちい! あちいよぉお!!」

「……これじゃまるで、この魔法生物たちに『賢者の石』のエネルギーが宿っているみたいじゃないか」


 尾の先の炎を太陽のように燃え上がらせる狐を猛火のすきまから視認して、ランバーンはそうつぶやいた。

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