路草 - 抄 -

@kumabetti

日記(編)

 一九六■年四月八日:念願の大学に入ることが出来る。心底からの喜びを感じざるを得ない。家や家人の思惑に縛られて生きることの、なんと退屈なことか。


 四月二〇日:憤りで筆を持つ手が震えている。確かに、小生は文学を読んだ数とてさほど多くない。然りとて、それを以て人の無知を笑う奴があるか。あの講師、名はなんと云ったか、そうだ、柿沼だ。柿沼三郎太。いけ好かぬ。あのような軟弱な男は好かぬ。大事なことだから、何度でも書く。好かぬ!


 五月八日:あの柿沼三郎太なる三流講師が、小生の独逸語の発音がまずいと笑いおった。あのような失礼な講師に、学ぶことなどあるものか。学長室へ向かった。辞めさせてやる。ところが、あの柿沼彼奴は、あろうことか追いかけてきおった。「瑞樹くん。此花瑞樹くん」大いに笑いながら、謝ってくる。「いやあ、傷つけて済まない。君が緊張している姿が」言葉を一度切り、「面白かったものだから」と、またもや吹き出した。勘弁ならん。しかし、やんわりと笑顔で誤魔化され、まあまあと諭されてしまった。


 五月一五日:先般の恨みは晴らした。徹底的に予習して何度も練習することで、緊張しないように対策を講じたのだ。柿沼三郎太を驚かせたのは、最大の収穫であった。ところが此奴め、何を思ったか、ぬっとその腕を此方に伸ばし、小生の頭に手を置き、ぽんぽんと二回叩いたかと思ったら、手を軽く丸めて、髪の毛をくしゃっと握り、「よく頑張りました」と、のたまいおった。学級の連中から、大いに笑われた。小生はその辺の餓鬼ではない。


 六月一日:講義の終了後、帰る際に、雨がしとしとと降り出していた。傘の持ち合わせがない。そこに、誰あろう柿沼彼奴が、傘を差しだしてきた。受け取ろうとすると、引っ込められた。「違う違う。二人で一緒に使うんだ」と。言下に断った。ところが此奴、強引に傘に招き入れてきた。柄を持つ手が触れた。路行きが違う。大学から家とは真逆の方向に進み、日野墓地を回った。「たまには路草を食もうではないか」そのまま日野寺へ。路端に生えている草など食べぬと答えると、またもや笑われた。その辺りに生えている草など食うわけがないとむきになり、白い花を咲かせた草を指さすと、「それは、そばの花だよ」と云われた。


 六月二八日:梅雨の長雨に、心がざわつく。柿沼とは、日野寺に行って以来、しばらく会うていなかった。講義が休みになっていた。気にするのもおかしいと思いながら、何故か気になっていた。そして、本日。彼奴は久方ぶりに大学に姿を現した。「しばらく病で伏せっていてね」聞いてもいないのに、勝手に言い訳をしてくる。雨が降り続いていて、ジメジメしている。熱はないのか。柿沼の額に触れてみた。梅雨の湿気にさらされているのにも関わらず、さらさらなその前髪をかき分けた。白い。透き通るような肌に触れた。熱があった。誰の。顔が紅潮する。何も言わずに、日野寺を後にした。何をしているのだ、自分は。


 七月一日:雨が久々に止んだ。途端に暑くなった。放課後、図に乗って路草を食んだ。すると、怪しげな雲が広がり、あれよという間に、夏の大雨が降り出した。慌てて、境内を横切り、お堂の軒下へ雨宿りした。既に夕刻を過ぎて、人気はない。僕たち二人以外は。二人とも、びしょ濡れだった。柿沼が、僕を見つめる。「僕に会えなかった間、どうしていた?」何故そんなことを聞く。「僕は、君のことを考えていたよ?」何故そんなことを云う。「僕は、貴男が嫌いだ」そう云い張ってやると、柿沼は笑った。笑いながら、僕の手を取った。「僕たちは、互いに好いてはいない。路を外れているからね」何を言っているのだ?「文学だよ」雷が鳴った。


 七月五日:どれだけ考えても、答えが出ない。頭がぼうっとしている。僕は貴男に会いに来た。文学について語り合うために。「違う。君は、僕のことだけを考えているんだ」此奴は何を云っている。何かを云っている。それは、言葉だ。言葉とは何だ。こうして言葉を考える私とは何だ。言葉とは、私とは、僕とは、小生とは、誰だ。


 七月一六日:「時よ止まれ、お前は美しいから」ギョエテは、その大作『フアウスト』で、悪魔メフィストフェレスとの賭けに敗れた博士にそう言わせた。時を止める。なぜならば美しいからだ。


 七月二一日:たった二人の文学講義は、日野寺の境内で何度も行われた。思えば、初めて日野寺に訪れた時、何故、この男は、私を傘に入れたのか。学究の徒とも言いがたい、ただの学生である私に、何を思ったのだ。「たまには路を外れて食う草も、いいものだろう」悪魔に魅入られたが如く云うことを聞かぬ私の身体が、ヴィヴィッドに反応する。「路草だよ」メフィストフェレスの声が耳の奥まで響く。ぼんやりとする視界の端っこに、そばの花が白い。


 八月三日:裏切り者め。何が、体調を崩していただ。ひととき、講義に来ていなかったのは、実家に呼び出されていたからではないか。聞いてないぞ。大学を辞めて、家を継ぐなどと。既に、結納も済ませ、結婚の日取りも決まっているという。そんなに家が大事か。この嘘吐きめ。お前をつなぎ止める鎖は、どんな女性だ。反吐が出る。この、嘘吐きの悪魔め。


 八月四日:もう何もかもやる気が起きぬ。


 八月一〇日:手続きのために大学に来た貴男を、捕まえた。とっぷりと陽が落ちている。暗闇の日野寺で、詰問した。何度も何度も、此処で逢った。あの雨の日から、何度も。独逸文学を教えてくれたのは貴男だ。貴男から以外誰から学べと云うのだ。嗚呼、ここで貴男は僕にすがるべきだったのだ。何故、何故、共に生きようと云わない。云うてくれない。云ってくれさえすれば! しかし濡れた貴男の口からは謝罪しか出てこない。僕の口からは乾いた罵りの言葉しか出てこない。嗚呼、なんてことだ。反吐も出ぬ。


 八月一五日:盆の時期だ。親戚が家の中をバタバタとしている。喧噪は嫌いだ。一人で過ごした。


 八月三一日:夏の盛り。空が青い。雲がもくもくと立ち上り、空に向かって屹立している。西の空に、怪しげな雲が広がっていた。そのうち黒々とした世界が広がり、かと思うと、一気に水滴が地表を打ち付けるように激しく降り注ぎ、世界は濡れそぼった。日野寺に来る時は、いつも雨だった。僕たちは、いつもぐっしょりと濡れていた。今日のこの日も、ずっと雨だった。ただただ、僕は一人で濡れていた。忘れはしない。


 時よ、止まれ。


【柿沼三郎太から、此花瑞樹への文】「愛しい君よ。君の姿を、初めて教室で見かけたとき、文学の世界から飛び出してきたナイーヴな少年、僕のウエルテルがいると思い、ドキリとした。文学を理解したのは、真にこの時であったに違いない。路ならぬ想いだというのは承知している。でも、これは誠の心だ。路ならぬ路だからこそ、その路を選びたいのだ。時として、路端に生える草を食むのだ。そう君に何度も言った。君は路傍の草などではない。だが、そうでも言わねば、気が狂ってしまう。君をつなぎ止めるには、言い訳が必要だった。Ich liebe dich.この想いは、終生変わらない。『時よ止まれ、お前は美しいから』今なら、分かる。フアウスト博士がメフィストフェレスと賭けをした意味が。嗚呼、私の人生は、此処で止まるのだ。愛してくれ。愛すから」


 九月九日:大学を辞めた。家の都合だった。盆の時期に妙に親戚連中が家に来ると思ったら、我が家なんぞでは、まったく釣り合わない名家の旦那とやらが、なぜだか私を見初め、ぜひ娘を嫁がせて欲しいと云ってきていたらしい。そのことを、当の本人である私に相談もなく、勝手に親戚一同で決めていたと云うから呆れる。三流の家柄でしかない我が此花家としては、長男の見た目などという何の価値もない要素のおかげで、労せずして名家と縁戚を結ぶことができるのだ。二つ返事で了承したらしい。こんなことで、学問を辞めたくはない。しかし、家の安定と繁栄を願うのは長男の責任だと、一族郎党から責められた。条件を付けた。婚姻は結んでやる。しかし、大事なのは家同士が縁戚を結ぶことと、跡取りが欲しいだけのはずだ。だから、跡取りを授かったら、大学に戻ることを承諾させた。


 一〇年後:三人の娘と、二人の息子。いずれも、読み書きが出来る年齢までは面倒を見た。後は、愚妻と家の者に任せることができると判断した。学問に復帰することにした。遅れを取り戻さなくてはならぬ。講義の後、路草を食んだ。日野寺。あの時から、私の独逸文学は止まったままだった。安堵した。今日の傘を持つ手は、私一人の手だった。その手に触れるものは、ない。

 ただ雨のみ。

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