堕とされるもの④
「ありがとうございました」
ケーキバイキングをたんと堪能してから散歩し、ひとけのない公園のベンチに腰を下ろしたところで、ハルがおもむろに切り出した。
「どういたしまして」
お礼を言われるようなことじゃないと、しらばっくれることもできるだろう。だが、それではきっと埒が明かない。素直に受け止めると、ハルは安堵したように肩の力を抜いた。
「……最悪でしたね」
「悲しい?」
「胸が痛いです」
胸元を押さえつける。伏せられた睫毛が長いことに、改めて気がついた。先ほどから、どうにもハルの解像度が上がっているように感じる。やけに色々な部分や姿が目に留まった。
「……彼氏を名乗って悪かった」
「いいえ」
一振り。緩く首を振ると、ハルはこちらを見上げてくる。その瞳は迷いなく真っ直ぐだ。
「私のために、そう振る舞ってくれてありがとうございました」
なるほど。先ほどのお礼はそこに繋がっていたのか、と遅ればせながら気がつく。お店へと連れ立ったことだと思っていた。そこだけに留まらぬとしても、振る舞いに対して感謝されているとは思っていない。
「気にしなくていい。したくてしたことだ」
見せつけてやろうという判断は、こちらの勝手なものだ。ハルが気に病む必要はまったくない。むしろ、身勝手な行動だと責められても仕方がないことだ。
「よかったのか? 彼氏がいることになってしまったが」
「構いませんよ。そっちのほうが湊人君も余計な気を遣わなくてよくなるはずです」
「気を遣う?」
表面上のやり取りならば、解決策を持ち得ている。しかし、現実的な男女の機微となると、その仔細を手に取ることは難しい。
今まで、こんなふうに不足を覚えたことはなかった。ハニトラとしては十分の力があったので、困ったことはなかったのだ。しかし、今は不足しか感じない。自分はこんなにも未熟であっただろうか。
「気にしてるんですよ、湊人君も。告白してきた友人と付き合っているのを」
「……そういうものか」
「爛れた恋ばかりのカインさんには関係ないのかもしれませんけど」
少しからかうような声音に片眉を上げる。ハルはクスクスと笑い声を上げた。
「好きにも段階があるでしょう?」
ハルは俺の反応もお構いなく、話を続ける。
ごく自然に告げられた言葉への理解が完璧でないことは分かっていた。言わんとすることは分からんでもない。だが、その芯を食ってはいないだろう。俺は自分が半人前であることを、今ばかりは重々承知していた。
こと、恋愛に関して、俺はハルには敵わない。
「大好きとか好きとか、友人とか、知り合いとか、他人とか……グラデーションがありますよね?」
「グラデーション?」
「えっと……段階以外はちょっと分からないですね。どう言えば……二つの色がだんだん段階を経て変わっていく様子って分かりますか?」
「ああ、それなら……」
そうした色合いについては、詳しくなかった。あちらでは、色味のある格好などできないし、そういうものも少ない。貴族衣装に袖を通すこともあるが、場にそぐうものを用意するほうが優先される。色味に主眼を置くことはない。
だが、チキュウではカラフルなものを度々目にするため、想像することはできた。頷いた俺に、ハルは微笑みを浮かべる。つつがなく伝えることができて、ほっとしたようだった。
「気持ちも同じでしょう? 湊人君も私を嫌っているわけではないので、蔑ろにしたいわけではないと思います。そのうえ、私の友人と付き合うことになったので、居心地が悪い思いもしていると思います」
「それは湊人が受け入れるべきものだろ」
正式に感情を追えているとは思っていない。それでも、その居心地の悪さをハルに任せるのは間違っている。それくらの情緒はあるつもりだ。
「そうですけど。でも、私がもう他の人を想っているって分かると、ちょっとだけ気が楽になると思いますよ」
「そういうものか」
馬鹿みたいではあるが、肯定の相槌を打つことしかできない。やはり、自分には恋愛事は手に余る。
ハルも、じわじわとそれを理解しているらしく、苦笑いを浮かべた。今日一日で、相談役から立ち位置が変わってしまった気がしてならないが、こればかりは仕方がないだろう。
ただアドバイスするだけならば、問題はない。技術としては。だが、そうでなければ力不足であるのだから、ハルの認識が変わるのもやむを得ないものだ。不甲斐ないことこの上ないが、苦笑に反駁する力を持たない。
「だから、きっとこれでよかったんです。カインさんこそ、よかったんですか?」
「何がだ?」
今回のことにおいて、俺は自分が役立たずだと分かっている。素直に首を傾げると、ハルはぱちくりと目を瞬いた。
「恋人はいないんですか?」
「ああ……その心配ならいらない」
「恋多き先輩だと思ってたんですけど」
「それとこれとは別だ」
実際にまったくの別物だ。
ハルはそれを、単純に今はいないものだと納得をしたらしい。ハニトラなどの着想がそばになければ、そうなることは必然であろう。俺が普通の恋愛などが思い浮かんだりしなかったのと同じように。
「それじゃあ、心配はいらないんですね?」
「必要ない。ハルがよければそれでいい」
ある意味では、考えなしの発言と言える。相手がよければ、というのは投げやりにも取られかねない。
しかし、ハルは驚いただけのようだ。基本的に、善人である。そうであるから、失敗しそうだと懸念していたのだ。それは要らぬ……というよりも、失礼な杞憂であったわけだが。
ハルが振られたのは技術的な問題ではない。
「カインさんはやっぱり優しいですね」
「気のせいだろ」
「そんなことありません」
ふふんと満足げな笑みを浮かべられる。
それほど満足な結果が得られたとは思えない。何ひとつ正当ではなく、行き当たりばったりで、彼氏だと偽っただけだ。そもそも、湊人たちと行き当たるとは思わなかったので、万全を期せなかったことは仕方がない。それにしても、行き当たりばったりであっただろう。
アグニスであれば、こんな不測の事態が起きることは避ける。そもそも予定外の行動を取ることは稀だ。チキュウではそんなことはしょっちゅうだが、その中でも今日は図抜けて突発的だった。
それにしたって、頼りにならなかったのは恋愛事であったからだろう。手に余って、居心地が悪い。
「頼りになりました。カインさんに会えてよかったです」
「会えてよかったことは否定しないけど、一方的にそんなに感謝されるようなことはないぞ」
やはり、居心地は悪い。悪い、といよりも、感じたことのない感情に触れ合っているようで落ち着かない。
出会えて良かった、などと長閑に思える出会いなど、あちらではなかった。概ね、出会わずに済むのであれば、そのまま知らぬほうが幸せであったことのほうが多いはずだ。
反乱分子のライルとて、あの後どうなったのか分かったものではない。そこに俺の有無は無関係かもしれないが、それでも俺が関わらなければ助かった何かがあったのも事実だろう。
具体的に、暗殺対象者だとか。
「会えて良かったなら、それでいいですね」
爽やかに笑うハルは、どうやらもう涙に濡れていたときとは違うらしい。どこか吹っ切れたようだ。
正直に言えば、その機微は理解できないままだ。俺には荷が重いのだろう。スパイとして生きていくならば、知らずにいたほうが身のためだろうとさえ思う。
だから、ハルが晴れやかな気持ちでいられるのであれば、それで構わなかった。
「もう元気になったか?」
「ケーキ美味しかったですからね。もうたっぷり補給をしました」
ぐっと拳を握り締めているハルの姿は、何度も見かけた気合いのものだ。
ふっと肩の力が抜ける。これで万全だと思うほど、俺は脳天気なつもりはない。しかし、当人がそう動こうというのを否定して落ち込ませるほど、不調法者になるつもりもなかった。
「じゃあ」
つるっと零れた言葉に我ながら驚きながら、身体は思考を実行するように動く。ずっと肌身離さず持ち続けていたネックレスを取り出した。あちらでは包装などという概念はないため、剥き身だ。
それをおもむろに取り出すものだから、ハルにしてみればまるで意味が分からないだろう。俺に恋愛事を伝えてくる大人びた雰囲気は、雲散霧消している。
だが、年相応に驚いているほうがハルらしかった。……自分に理解できない部分がハルにあるのが、不服であるのかもしれない。
「これをやる」
「これ?」
差し出すと、ハルは黒いオパールのついたネックレスを見下ろして石化した。脈絡がないのは、自分だって分かっている。無愛想なのも。だから、驚愕されるのも分かるが、それにしたってハルの反応は想像以上だった。
「……なんで?」
敬語で礼儀正しいハルが、そこから外れる。以前にも一度だけ外れたことがあった。桁外れの動揺に違いない。
「なんで?」
繰り返してこちらを見上げてくる瞳には、猜疑心と不安のようなものが渦巻いている。ハルの感情が分からなくなってしまったのは、自分の感情すら分からないからだろう。
俺がこういうものを取り出すのは、ハニトラのときだけだった。そうした態度で渡すことは、いくらだってできる。だが、ハル相手にそんな態度を適用するつもりはない。
だから、だろう。自分の感情の手綱を取ることもできないのは。
「見かけて、ハルを思い出したから」
「……カインさんは、やっぱり恋愛マスターなんでしょ?」
「なんだ、それは」
そんなつもりはない。
技術としての能力を持っていることは認めている。だが、それは恋としてのものではなく、スパイとしてのものだ。今は応用しているつもりはない。それだと言うのにそれを言われると、困惑しかなかった。
「だって! スマートですよ。知り合いの女の子にプレゼントとか! しかも、こっちがへこんでいるの分かっているところに差し出してくるなんてズルいです」
「時期は狙ったわけじゃない。会えなかったから仕方がないだろ。そんなつもりはない」
「分かってます! なのに、そういうことやれちゃうのがタラシってことです。分かりました! カインさんは、そうやって人をタラシて爛れた恋に励んでいるんですね?!」
「俺をなんだと思っているんだ」
意図して、人の心を弄んだことはない。任務の際は、その限りではないと割り切っているので、誑かしているという認識は薄かった。人をタラシて関係を築いたことは一度としてない。
眉を顰めると、ハルはむうと頬を膨らました。
「タラシですよ」
「そんなことをした覚えはない」
「こんなものを渡してくるのに、それ言っちゃうんですか」
「これはそういうんじゃないって言ってるだろ? ハルだって、分かっていると言ったじゃないか」
良かれと思ったものがタラシの象徴にされるのは不服だ。子どもっぽく言い募ってしまう。やはり、感情の手綱は上手く制御できていなかった。
「分かってますけど……本当にいただいていいんですか? これ、立派なものですよね?」
「審美眼が備わっているんだな」
「こんなにはっきりしてれば分かりますよ!」
「法外なものじゃない」
「宝石の法外は、最低でも四桁万からじゃないですか。極端な例を挙げないでくださいよ」
「四桁万?」
「こっちで、数千万円ってことですよ。それと比べて安価なんて言われても素直に受け取れません」
「……いらないのか?」
拒否されるとは思わず、心がざわつく。友人のように……少なくとも彼氏役を任せてもらえるほどの関係を築いていたはずだ。それを拒否されて、いじましく思う自分に動じる。
「そんな顔しないでくださいよ」
自分がどんな顔をしているのか分からない。こんなことは初めてにも等しかった。
まだ表情管理が上手くできなかった幼少期ならまだしも、スパイとしての修行を始めてから、こんな手落ちをしでかしたことはない。
その思案を察したのだろうか。ハルは困ったように笑って、ネックレスを手にした。
「受け取らせていただきます。ありがとうございます」
気を遣われたな、と言うことに気がつける冷静さがあるのが煩わしい。失敗した、と臍を噛む。
ハルは受け取ったネックレスを天に翳していた。黒い宝石が光を吸収して、鈍いきらめきを湛えている。
「綺麗……」
万感籠もった感想に、気持ちが掬われた。それは気遣いで繕われた感想には聞こえない。ハルの響きを疑う気はなかった。この子は、そこまで器用ではないのだ。それはよく知っている。
「つけてやる」
「へ?」
きょとんとしているハルをよそに、ネックレスを再び手にした。背中をこちらに向けるように導いて、ネックレスを首へと回す。留め具の音を立てて、ネックレスをつけ終えた。
ハルがくるりとこちらを向いて、胸元のオパールの装飾部分に触れる。それから、こちらを見上げてきた。
「似合いますか?」
「ああ、綺麗だよ」
決して、技術に塗れた反射などではない。本心から出た言葉は、本心として届いたようだ。
ハルは照れくさそうに頬を染め、ほろりと蕩けるように笑った。ちかちかと光が明滅する。
好きですから、といったハルの言葉が蘇った。
その瞬間、落ち着きなくあちこちに飛び跳ねていた心が、すとんとどこかに堕ちたのだ。
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