堕とされるもの③

 先導していたはずの立場をすぐに入れ替えて、ハルに誘導されたケーキバイキングの店舗は可愛らしい外装をしていた。

 ピンクと赤で飾られたそこに、男一人で入るのには勇気がいる。異世界人として感覚が違うであろう俺でも思った。カップルが多いというのも納得だ。


「並んでますね。他にいきますか?」


 ハルは結構さくっと諦める。

 湊人も同じように諦めたのだろうか。かすかにそれがよぎったが、すぐに思い直した。

 どんな形であれ、俺はハルが必死だったのを知っている。それを侮るつもりはない。思い出すだに涙を流すほどに傷ついているのだから、これ以上傷を抉るつもりもなかった。


「いいよ。来たかったんだろ?」

「いいんですか?」

「何か問題があるのか?」


 見下ろしてやると、ハルはほろりと笑う。それは嬉しそうに見えて、何やらこちらまで心が満たされた。


「カインさん、クズじゃないですね」

「ハル相手にクズな態度を取ってもしょうがないだろ?」

「優しいですね」

「普通だ」


 これくらいの態度が優しいとは大袈裟に過ぎる。ハニトラをしかけるのなら、もっと甘ったるい態度を取ることもあるのだ。ハル相手にそんな態度は取らない。その状態で優しいとは、ハルの優しい判断はあまりにも低過ぎやしないか。


「カインさんの普通は、優しいですよ。ただ付き合ってくれるだけでいいのに、こんなことしてくれるんですもん」


 手は未だに繋がれたままだ。ハルはそれを揺らして示した。

 確かに、ここまでやる必要はないのかもしれない。だが、前も後ろもカップルで同じようにしている。離すタイミングも失った。今更だろう。

 ……離しがたいという感情は、そっと胸の奥に仕舞い込んだ。

 だが、まぁ、好きな人間がいた身からすると、どう感じるものか。俺は繋がっているハルの温もりを見下ろした。


「嫌だったか?」

「いえ? だったら、離してますよ」

「非力そうだが?」

「嫌がるのを無視して手を繋ぎっぱなしにする人じゃないでしょ? カインさんは」

「どうだか」


 嫌がらせをするつもりはないが、かといって大人しいつもりもない。肩を竦めると、ハルは愉快そうに笑った。何がそんなにおかしいのか。片眉を上げた。


「だって、カインさんに利点はないじゃないですか」

「損得勘定なのか」


 突っ込む言葉は出たが、実際問題、損得勘定は分かりやすい基準だ。しかし、ハルがそれを基準にするとは思わなかった。


「カインさんはそういうところありますから」


 バレていたか。そこまで見透かされているとは思わなかった。無言の肯定としておく。

 内心を悟られるとはスパイとして手落ちであるが、不快感はない。ハルに知られているのは、悪くない気持ちだった。ハルはそれ以上、俺の性質に食い下がってはこない。それもまた、不快にならない要因だろう。引き際がよく分かっている。

 こうして、湊人相手にも潔さを見せたのだろう。それを意気地なしなどというつもりはない。もう、疑ったりはしなかった。

 そのまま、俺たちは静かに順番待ちをする。時折、茫洋とした世間話をしてみたりはするが、それほど積極的に会話をしようとは思わなかった。ハルとの間に、そこまでの意気込みはいらない。

 穏和でいられる。肩肘張らなくていい相手だ。いつもはアドバイスで、多くの会話を交わしていた。いつの間に、これほど緩やかな関係を結んでいたのか。不思議な気持ちがした。

 もしかするとこれは、会っていない間に俺がハルを友人と認めたことと関係があるのかもしれない。何にせよ、居心地のよい待ち時間だった。

 そうして、俺たちの順番がやってくる。店内に入って、ぐるりと中を見渡したのは、半ば無意識だった。

 現状を確認することに特化したスパイの習い癖なのか。チキュウを観光する好奇心の塊だったのか。それとも、誰もがやってしまいがちな挙動だったのか。それは判然としない。何にしても、やってしまったものはやってしまったものだ。

 そして、どうやら、ハルも同じようにしていたらしい。握られていた手のひらに力がこもった。

 そちらを見下ろして、ハルが見つめている視線の先へ意識を向ける。そこにいる存在に、こちらの握力も強まった。

 湊人としおだ。

 どちらとも交流があったなんてとても呼べない。それでも、その姿は知っている。俺は一度見たものをそう忘れることはない。

 当人たちにそんな気がなくとも、ハルを傷つけるカップルだ。

 撤退するべきか。一瞬よぎった考えは、ハルによって拭われた。


「カップル割りでお願いします」


 ぱきっとした音に、背を叩かれる。その横顔は強張っていたが、逃げるつもりはないことは分かった。ならば、俺は付き合うだけだ。

 身勝手にスパイと断じた負債を払うのは、今しかない。握っている指を動かして、隙間なく巻き付けた。恋人繋ぎにした俺をハルが見上げてくる。驚いている顔に笑いかけて、その前髪に触れて整えた。

 ぱちぱちとハルが瞬きを繰り返す。拭いきれない驚きは苦笑ものだが、俺はそれをすべて飲み込んでやった。取り繕うのは、俺の特殊技能だ。


「大丈夫か?」

「……はい」


 見せられるだけ、恋人らしく見せつけてやる。偽るのは俺の仕事だ。

 その意欲まで届いたかどうかは分からない。とりあえず、今だけ励ましていると取られたかもしれない。それでも、ハルが頷いてくれるのならば、それでよかった。

 俺たちは、そのまま恋人繋ぎで席へと進む。案内された席が、通路越しではあるが湊人たちの隣なのは最悪の巡り合わせだろう。

 ちらりと見下ろしたハルの口元が引き攣っていた。視線が湊人たちのほうへと彷徨うのが気に食わずに、


「ハル」


 とその意識をこちらに引きつける。


「好きなの取ってこいよ。荷物見てるから」


 言いながら、ハルの荷物を奪った。促すように背を叩くと、俺の気遣いを受け取ってくれたのだろう。微苦笑が浮かんだ。


「はい」


 湊人としおの視線がこちらに気付いたことは知らんふりで送り出す。ハルも意地のように、二人に気付かぬふりでサーブに進んで行った。


「ハルの……」


 口にしたのは、しおだ。俺は若いカップルに目をやって、にこりと微笑む。


「どうも」

「え、えっと」

「デート?」

「あ、え、はい」


 あちらに会話の主導権を握らせるつもりはない。笑顔の圧力で握り潰す。


「かっこいい彼氏だね」


 湊人は俺のことを一切知らないはずだ。水を向けられても、困惑しかあるまい。湊人は困り顔で、俺としおを見比べていた。そこに戻ってきたハルに、湊人の視線はますます泳いだ。

 多少なりとも、ハルへの申し訳なさなどがあるらしい。だったら付き合ってやればよかった、などというつもりはなかった。そんな適当さでハルに答えることのほうがよほど問題で、度しがたい所業だ。

 なので、湊人が本心に従って行動したことを責める気はない。ただ、今ばかりはハルの感情が優先で、湊人たちへのフォローをしてやろうという気はなかった。そもそも、友人とその他で扱いは違うものだろう。


「ハル、その人と付き合うようになったの?」


 カップル席だ。しおの想定は、突拍子もないものではない。

 ハルは含みを持った顔で笑いながら、そっと俺に視線を向けた。どうやら、判断を俺に任せるようだ。

 だったら、俺は自分が決めた通りにことを進める。身勝手ではあるかもしれないが、任されているのだから、構わないだろう。


「少し前からな」

「少し前……」


 復唱したのは湊人だ。少し前、に思うところがあるのだろう。自分が告白されてからのこと、と想像を巡らせたのかもしれない。それを逐一突くつもりはなかった。


「おめでとう、ハル」


 一方で、すぐに笑顔を浮かべるしおには屈託がない。


「ありがとう、しお」


 答えるハルの表情は笑顔で凍っている。貼り付けているのは明らかだったが、どうやら二人にはバレていないようだった。

 これは、俺が観察眼に優れているからなのか。あちらが鈍感なのか。

 自分がそうしたところに技能を振り分けているのは自負しているつもりだ。それが湊人たちと比べてどうなのかは判別がつかない。

 今分かることは、ハルは俺とカップルを偽ることに否はないということだけだ。


「随分、年上なんだね」


 どういう意図があるのか。探ろうと思えばいくらでも探れてしまいそうな言い方をしたのは湊人だ。


「優しい大人の人だよ」

「……いい大人、ね」


 その含意に、ハルの眉間に皺が寄る。それを見るだに、あまりよい感想ではないのだろう。あちらでは、これくらいの年の差もさほど珍しくはない。政略結婚が当たり前の世界だ。それくらい存分にある。

 だが、どうやら湊人の言葉とハルの対応で、歓迎できるものではないと察した。


「そんなに気になるものか?」

「こっちだと気にしますよ」


 世界の違いを伝えてきたのはしおで、湊人が驚きの眼差しで俺を見る。


「異世界人なんですか?」

「そうだが?」

「……良いの?」


 湊人の目が、心配そうにハルを捉えた。それは真に案じているようである。振ったからと言って、仲良くなったのは間違いないようだった。


「湊人君に心配されるようなことは何もないよ」


 にっこりと微笑んだハルの本心は読めない。俺ですら読めなかったのだから、湊人ごときに見通せるわけもなかった。

 笑顔をそのまま受け取った湊人は、僅かに怯んだようだ。


「仲良くやってますもんね、カインさん」

「ああ」


 こちらを向くハルに、微笑んで答える。少しでも、慈しんでいるように。そう思いこそすれ、微笑んだのはほとんど反射だった。意識せずとも、ハルへの感情にはそうしたものが乗っている。妙な心地だった。


「……そっか」


 それ以上、言うべき言葉が見つからなかったのだろう。

 湊人はもちろん、しおもそこを引き際とした。実際、ケーキバイキングとして時間制限のある中のことだ。向こうはちょうど時間であったようで、食い下がる時間もなかったようだった。


「それじゃ、私たちそろそろ行くね」

「うん。デート、楽しんでね」

「ありがとう。ハルもカインさんと仲良くね。カインさん、ハルのことよろしくお願いしますね」

「ああ。きっと大切にするよ」


 誰に恥じることもない。堂々と宣言した言葉に、しおは面食らったようだ。そして、聞いたほうが恥ずかしいとばかりの照れを残して、席を立つ。湊人はお辞儀だけを残して、二人はそのまま立ち去っていった。

 二人の姿が消えると、ハルは肺の中の酸素をすべて吐き出すかのようなため息を零す。それから上げられた顔は、ふんすと鼻息の荒い顔をしていた。


「食べますよ、カインさん」


 色んな想いが渦巻いているのは容易に察せられる。しかし、それを指摘するのが野暮であることも分かった。

 余計なことを言わずに頷く。


「そうだな。俺も取ってくる」


 そうして席を立ち、美味しそうなケーキをサーブしてテーブルに戻ると、ハルはもぐもぐとないはずの頬袋にケーキを詰め込んでいた。

 それは味わっているというよりは、飛び出そうになる何かを身体の内側に押し込もうとしているかのようだ。そうでもしなければ、我慢ができないとばかりに。

 周りからすれば、ケーキが大好きな食いしん坊に見えていることだろう。それは、ある意味で幸せそうな姿だ。俺には、つらくて虚しい虚勢にしか見えないけれど。

 眼前に腰を下ろすと、ハルの顔がこちらを向いた。目いっぱいケーキが含まれた口から、言葉が出てくることはない。目が赤くなっているのは、頬張り過ぎていっぱいいっぱいになっているから、ということにしたいのだろう。

 俺は何も言わずにフォークを手にして、ハルを真似るようにケーキを頬張った。味なんてものは、二の次三の次だ。

 ただ、ハルが少しでも独りでないことに気がつけるように。同じようにケーキを食べている人間が目の前にいることを理解するように。もぐもぐと咀嚼する。

 ハルはそれをじっと眺めていた。口の中のものがなくなってから、ようやく泣き笑いのような顔になる。それまで顔が強張っていたことに、ハルは気付いていたのだろうか。


「……美味しいですね」

「どれが美味しかった?」


 あえて、真には迫らない。今を楽しむと決めたことに懸命な振りをして、ハルを見つめた。彼女はやはり、賢い。へにょんと安堵するかのように笑み崩れた。

 そんな顔をさせてあげることができたことに、胸を撫で下ろす。


「チーズスフレ、濃厚で美味しかったですよ」

「ガトーショコラも甘みが抑えられててよかったぞ」

「バウムクーヘンもしっとりです」

「シュークリームは? ダブルクリームでとろけるぞ」

「まだです!」

「ほら」


 半分を残していたから、そのまま差し出した。


「取ってきますよ?」

「彼氏のは食えないのか?」


 薄らと意味深に笑ってやると、頬に朱色が刷けた。思えば、大枠の恋愛事ではなく、俺個人に向けて羞恥から赤面されたのは初めてだ。

 その口元へシュークリームを寄せると、観念したかのように唇が開かれた。歯の間から覗く赤い舌に、ぞくりと背骨が疼く。今までの食べっぷりが嘘のような小さな一口を持っていった口元から視線を逸らした。


「……美味しい、です」


 ぽつねんと零して、照れくさそうに身を縮める。行儀よく膝の上に手を乗せて小さくなると、腕によって寄せられた胸が主張された。

 今まで意識していなかったものが、急に鮮明に飛び込んでくる。


「それはよかった」


 見える景色の違いには口を噤んで、相槌を打った。

 先ほどまでの大食いファイターの二人組らしい雰囲気は、一瞬でカップルのそれになる。甘いケーキバイキングの空間に合致していることだろう。周りにありふれたカップルに溶け込むものとしても、合致していた。


「と、取ってきますねっ」


 気恥ずかしさから逃げ出したくなったのだろう。ハルはいても立ってもいられない様子で席を立った。最初はきょろきょろとケーキを見渡す視線が大仰だったが、そのうち真剣になっている。食に釣られているのが丸わかりで笑ってしまった。

 やけくそなのは如何ともし難く、湊人に会ってしまったのは最悪だったけれど、ハルにとってはいい息抜きになっているのだろう。

 俺はふっと息を吐き出して、余計なことを脳内から追い出す。ハルにならって、自分の休日としてのこの時間を満喫することにした。

 甘いものは、大好きだ。

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