堕とされるもの②
辿り着いたカラオケ店は、いつか二人で入った店のチェーン店らしい。前回と同じように手続きを終えて、個室へ入る。ハルは荷物を置くと、すとんと燃料が切れたように腰を落とした。
動き出せそうにもない消耗っぷりに戦きながら、ドリンクバーに行ってくると一度立ち去る。ハルはドリンクバーではまず、メロンソーダを注ぐ。こちらも定番通りにコーラを注いで、二つを手に部屋へと戻った。
ハルは俺の姿にはっとして、
「ありがとうございます」
と掠れた声を出す。
「気にするな。大丈夫か?」
「……大丈夫、です。多分」
自分でも自信はないのだろう。呟きには、多分なんて、あからさまな不安要素がくっついていた。
「何があったんだ?」
多少は、逡巡もあった。だが、聞く以外にどうしようもない。
ハルは困ったように眉を下げながら、指を合わせてくるくると回す。混迷を体現するならば、こんな形だろうか。
「……フラれました」
「……告白したのか?」
スパイの任務で馬鹿正直に? と零しそうになったのを飲み込む。やり方は個人によるもので、口出しするものではない。
ハルは寂しそうに口元を歪める。
「……元々、私と仲良くしようとしていたわけではなかったみたいです」
最初から、すれ違っていた。それは虚しいことだろう。ハルの寂寥感に、俺は言葉をなくした。
「一緒に遊んでいた友達の中にしおって子がいます」
「……明るい黄土色のふわふわした髪の子か?」
「知ってるんですか?」
「一度、声をかけられた。ハルと会っている人だろう、と」
「そうですか」
言葉は納得を見せているが、表情はまるで違った。悄然としたそれは、好ましくはない。そう言うかのようだった。
「……いい子でしたよね」
「……あぁ」
仮にもハルの友人だ。含みがあるような言い方をされたとしても、否定することもままならない。
半端ながら肯定の相槌になった俺に、ハルは何とも複雑な顔をした。どこかで、ほっとしている。反面、その瞳の色はゆらゆらと揺らめいていた。
「その子のね、ことが、好きなんですって」
「……あぁ」
俺は壊れた機械のように、同じ相槌しか打てない。
標的に、別の想い人がいることはあることだ。下調べが甘いと言えばそれまでだが、調べたところで心の中までは徹底的に見透かせるものではない。予期せぬ事態とは起こりえるものだ。
「その子と、仲良くなりたかったみたい、です」
「……そうか」
「私は、あくまで、仲介です」
一度落ち着きをみせていたハルの瞳から、また水滴が落ちる。
「ハル」
どうも、俺は涙に弱いらしい。まさか、この歳になって新たな弱点が見つかるとは思わなかった。暗殺すらこなせるというのに。涙に弱いなどと、なんと平和的であるのだろう。
俺はL字の長いほうに腰を下ろしているハルの隣へと移動した。そっと、背骨に手を添わせる。必要以上に接触するのははばかられたが、かといって放置することもできなかった。
馴れ馴れし過ぎない友人ほどの立ち位置では、できることが限られる。俺は触れた背を緩く叩いた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。悔しいのはハルだろ?」
「悔しい……悔しいんでしょうか?」
自分の気持ちに悩むような言いざまに困惑する。それはハルにしか分からないことだ。だが、これは、感情が分からないほどに懊悩しているということなのかもしれない。
「……失敗すれば、悔しいものじゃないか?」
少なくとも、俺の中ではそうだ。涙はさておき、その感情であれば納得ができる。俺にだって、悔しさに唇を噛んだ夜があった。
「……悲しいですよ」
「悲しい?」
「だって、好きですから」
俺はその感情に、がちりと身を固めてしまった。身を縮めて目元を潤ませるハルを、じっと見下ろす。
湊人を堕としたい。
ハルはそう言った。俺の周りでそんな言い回しをするのは、任務的な要素でしかない。だから、少しも別のことを想像することもしなかった。そう、しなかったのだ。個人的に堕としてやりたい、なんてことを。
つまり、恋愛というものを。
一片たりとも疑いはしなかった。
「だから、やっぱり悲しいし、寂しいです」
「……そうだな」
他に打てる相槌もない。
俺は勝手に決めつけて、スパイとしてのアドバイスしかしてこなかった。義務的とまでも言わないが、あれは気持ちを一から魅了するというものではない……だろう。一時的な勘違いをさせることはできる。むしろ、そのための技術と呼んでもいい。
もちろん、悪い印象を与えるものではないので、魅了のきっかけくらいにはなるだろう。なるだろうが、あくまで本気の恋をしている人間に与えるアドバイスとして不足でしかないはずだ。
というよりも、単純な罪悪感がある。
ハルはただ恋をしている学生だっただけだ。
成功しなかったのも、俺のせいだったりするのだろうか。本人に聞けば、違うと否定されるだろう。否定が分かっているから、口を開くことはしなかった。
この動揺を悟られるわけにはいかない。知らせないほうがいいことは、この世にいくらでもあるのだ。
それにしても、なんてことだろうか。
なんてことを。
「ごめんな、ハル」
「どうしてカインさんが謝るんですか」
「不足だっただろう」
「そんなことありませんよ」
ハルはぶんぶんと強く首を左右に振る。
「仲良くなれたのはカインさんのおかげですから」
「……ハルとじゃなかったんじゃなかったのか?」
「それでも、仲良くはなったんですよ」
ぷんと頬を膨らませて呟く。どうにも傷を突いてしまったようだ。
「楽しかったか?」
「はい。楽しかったですよ。いい思い出です」
「そうか。よかったな」
「同じくらい、しおとも仲良くなっちゃったんですけどね」
「その、しおというのに、湊人は堕ちたのか」
「そうですね。付き合い始めたみたいです」
「……しおとは、仲良くやっているのか?」
「しおは私の気持ちを知らないままですから」
「告白したんだよな?」
二人の交際を前にしっぽを巻いて逃げてきたわけではないよな?
フラれたとしか言わなかった内実の追及を、ハルは明確に受け取ったようだ。情けない顔のまま、こくんと小さく顎を引いた。
「はっきりフラれました」
そばにいる。その状態で、どうにか聞き取れるほどの声量だった。そして、何度も聞いた言葉だ。
「悪い。何度も言わせた」
「いいんです。何度も言うことで開き直れます」
「やけくそじゃねぇか……」
無力感を覚える。天を仰ぐと、ハルが空笑いを浮かべた。そうして繕っているのが分かるから、余計に虚しくなる。
「先日って、言ってたか?」
「はい」
「もういいのか?」
「いいんです。しおと仲良くやってくれればいいと思ってます」
そんなものか、と漠然と思う。
そこに実感が伴わないのは、自分が愛だの恋だのを解していないからだろうか。そこまで枯れているつもりはなかった。なかったが、自分の中にそんな形は見当たらない。そんなことに、今更気がついた。
ハルは俺より歳下だ。学生というのは未成年で、こちらでは子どもに分類される。その子が理解している愛を、俺が知らないというのは、あまりにも不甲斐ない。けれども、理解できない感情であることは間違いなかった。
親からの愛情を受けてこなかったとは言わない。しかし、恋愛感情としての愛は、幼いころから俺の世界にはないものだ。理解できるはずもなかった。
「……ハルはすごいな」
感心しかない。想像のできない気持ちを飼い慣らしている。そんなことを平然とやってのけるハルは、単純にすごい。子どもみたいな感想だ。だが、紛れもない本心だった。
「そうでしょうか……?」
半信半疑の頭を撫でたのは無意識だ。するりと梳くように指を動かすと、ハルは目を丸くした。
「ああ。相手の幸せを願えるのはすごいことだ、と思う。俺はそんなことを考えたことがない」
ハルはスパイではないのだろう。それが判明した以上、自分の立場を安易に伝えるつもりは毛頭ない。元よりなかったが、輪をかけて伝えるつもりはなくなった。
それでも、胸の内は職業とは関係がない。個人の感情を伝えるのに躊躇はなくなっていた。……この内心が、職業の影響を受けていないとは言えないが。
それでも、それを誤魔化すつもりはない。
俺の本心に、ハルは驚いたようだ。
「たくさん経験があるのにですか?」
ハルの中で、俺は恋愛の経験が豊富とされているらしい。
確かに、その勘違いを引き起こすような態度を取ってきた。スパイとしての経験であるが、経験値を教えていたことは間違いないのだ。それらしき肯定すらしている。
苦笑を零すことしかできなかった。
「あまりいいものじゃない」
スパイとしてであるから、褒められた恋愛ではない。恋愛とも呼ばないハニトラだ。スパイとしての身を明かしはしないが、ろくな恋愛をしていないという表面を口にした。
言う必要もないかもしれない。だが、ハルと話すのは心地良かったし、勘違いでアドバイスをしていた。その償いに、恋愛話と呼ぶようなものに付き合うくらいはするべきだろう。
今までそうしてきたように。
「そうだったんですか?」
「ハルみたいに純粋なものはない」
蠢く陰謀が取り巻いている。純粋どころか裏しかないやり取りだ。真実を知っていれば、純粋であるほうがよっぽど問題なくらいだろう。
相手の感情が不純であるのかは、定かではないが。
「爛れた恋ですか?」
ハルが多少の興味を込めた目で見る。自分がそんなことはできないだろうに、人のことに食いつく好奇心はあるらしい。
「言えるようなものはないぞ」
「それは教えてくれないんですか」
「不倫や浮気は教えるもんじゃないだろ?」
「それはクズですね」
けろっと言われて失笑する。
まったくもってその通りだろう。情報収集かつ暗殺のために、そういった手段も厭わない。そうしたものが、手に染み付いている。クズと評するより他にない精神性であると、自らでも思っていた。
ハルとは交わらないものだろう。
「だろう? だから、感謝はいらない。俺のアドバイスはろくでもないってことだ」
「それとこれとは別ではありませんか?」
きょとんと首を傾ぐ。ハルの中で、その境界は決定的に引かれているらしい。
俺の行動は一貫している。そこに区切りをつけられたところで、別だと自覚することは難しかった。何を持って割り切っているのか分からず、こちらこそ首を傾げてしまいそうになる。
「カインさんの恋愛事が褒められたものじゃないのは否定しませんけど、それと私にアドバイスしてくれたのは別物っていうか……役に立ちましたから、そこには感謝しています」
「いいのか、それは」
「いいんですよ」
へらりと笑う顔は、呑気だった。フラれたと傷心しているわりに、のんびりとした顔もできるらしい。相変わらず表情豊かでくるくる変わる。
こんなにも見ていて飽きないのに、興味の湧かない湊人は変わっている。しおという友人のほうが、何か勝っているものがあったのだろうか。あんな一瞬の邂逅ではちっとも分からない。
そもそも、俺は湊人のことを知らないのだ。湊人の好みがハルでなかったというだけの話かもしれないのだから、下手なことは言えなかった。
「……さぁ、カインさん、こうなったら食べましょう!」
何をどう展開したのか。こちらが思考している間に、ハルは切り替えたように拳を作って声を上げた。ぎゅっと握りこまれた拳は、いつかしていたかのように気合いに満ち溢れている。
「何を考えてる?」
「やけ食いですよ」
唇を尖らせながら、表現通りのやけ気味に言いきった。
そんなことに気合いを入れるのはやめて欲しい。俺には失恋の傷の癒やし方など分からないが、後ろ向きな気合いの入れ方には苦々しくなった。
「他にやりたいことはないのか」
そんなことを言い出すとは思わなかったのか。ハルは不思議そうな顔で俺を見る。力の抜けた顔は心地良い。泣いているよりも、よっぽどほっとできるものだ。
「せっかくだ。付き合ってやるよ」
にやりと笑っていると、ハルはそろそろと笑みを浮かべた。やはり、こっちのほうがいい。そして、ハルはにっこりと笑って提案を口にした。
「それじゃあ、ケーキバイキングに行きましょう!」
ぱああと花が咲くように笑われて、笑いが零れる。内容があまり変わっていない。
「結局、やけ食いじゃないのか? それは」
「カップル割りがあるデートスポットなんですよ」
「付き合えって?」
俺でいいのか?
含んだ意は届いたらしい。俺の意図を汲むことにおいて、ハルは有能だ。心根の優しさが、人の内側を察させるのかもしれない。
「嫌ですか?」
「いや? 光栄だよ」
笑いかければ、ハルは身体を弛緩させた。
「カインさん甘いもの好きですもんね」
からかうように微笑まれて、自然に息が零れる。
「ハルだって、嫌いじゃないだろ」
「じゃなきゃ誘いません」
ニコニコ笑うハルに、憂いは感じ取れない。
俺は立ち上がると、すっと手を差し出した。
ぱちくりと瞬く顔は幼い。
たとえ、俺よりも恋を知っていて、その点でずっと尊敬できる存在だとしても、年下の女の子だ。
もっと、守られていい。もっと、甘えてくればいい。
今までのようにスパイとして手助けしてやりたいのとは少し違う。そんな思いに揺さぶられながら、その手を自ら取った。握手とは違う。初めて握った指先は、細くて折れそうなほどに華奢で柔らかい。
「行くんだろ? カップル割り」
返事も言わずに手を引いて、カラオケ店を後にする。
返事はなかった。けれど、最初は戸惑うように着いてきた足取りが時期に軽やかになったのだから、これでよかったのだろう。
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