第五章
堕とされるもの①
チキュウはとてつもなく暑い夏を終えたらしい。それでも、まだまだ暑くて辟易するほどだ。残暑と呼ぶらしい。
俺はこちらで人気の珈琲店のアイスカフェラテを片手に街を歩いていた。
アスファルトという素材でできている道路は、アグニスの地面よりも熱がこもるものらしい。ただでさえ暑い環境は、ますます熱帯となっていると聞く。その熱を吐き出しながら、どこかに入るべきかと周囲を見回していた。
チキュウの店は本当に多岐に亘る。どこも魅力的で迷いばかりが先に立った。ふわふわのかき氷も気になるし、たっぷりと段を重ねたアイスクリームも気になる。しかし、先にこのカフェラテを飲んでしまわねばどこにも入れないことに気がついた。
襲い来る暑さに眉を顰めながら、俺はぷらぷらと歩く。元々一人歩きだった。その調子が戻ってきて、和やかな休日だ。
夏休みも終わったようで、街中に制服姿の学生の姿が増えていた。夕方ともなれば、余計にだ。街歩きをしている学生は、いつだって複数人でいる。きゃらきゃらとした雰囲気は、ひどく華やかだ。
こうして見ると、改めて思う。やはり、ハルは随分大人しいほうだったのだろうと。清楚系と呼ばれる人種だと、こうして見る周囲との差で思い知らされた。
そんなことを考えていたのが、よくなかったのだろうか。交わることのない子であったのだと割り切っていたものをすっ飛ばして、声がした。
「カインさん!」
人混みの中。聞こえてきた声に目を向ける。俺のことを本名で呼びつける人間など、異世界でもそういない。視線の先にいたのは、ハルだ。
瞠目してしまった。
「待ってください。カインさん! 今、そっち行きますから」
反対側の歩道から、顔を赤くした叫んだハルは、周囲の目に晒されてぺこぺこ頭を下げている。そうして身を縮めながら、小走りでこちらへと向かってきた。
こちらからも横断歩道に近寄って距離を詰める。行動には起こせていたが、脳内は混乱していた。
どうして、ここにいるのだろうか。
ここは、あの駅からそう遠くない街中だ。まだこの辺りにいるとは思わなかったし、いたとしても俺に声をかけてくるとは思わなかった。
任務中に知り合った人間に声をかけるのは、慎重を期すことだ。仮に声をかけるとしても、こんなふうに大声で呼び止めるような真似はしない。
そうこうしているうちに、ハルは俺の目の前にやってくる。胸を押さえて息を整えると、真っ直ぐにこちらを見上げてきた。
「やっと会えました」
ほろっと零された言葉に面食らう。まさかそんな歓待を受けるとは思っていなかった。
「そうか……」
「連絡、取れなくなってしまってすみません。インクを零してしまって」
ハルはわたわたと手で宙を掻く。なるほど、とハルの様子が読めた。何とも律儀だ。
……スパイとしては、あまり好ましくない律儀さに見えてしまうけれど。今、それを言うのは無粋だということくらいは、俺にも分かった。
「いや、構わない。こちらも会えないままにしてしまったからな」
「もう、こちらに来られていないのかと思ってました」
「どうして?」
会えないことが、来ていないことに直結する理由が分からずに首を傾ぐ。ハルはもうあの場に通っていないのだから、俺の行動を察する場面はなかっただろうに。
「駅に来られないので」
「そっちもじゃないか」
つるっと零れた。恨みがましいかもしれないと思ったのは、自分がそれを気にしているからなのだろう。
「私ですか? 夏休みでしたから……でも、金曜日は顔を出すようにしていたんですけど」
「……は?」
いなくなってしまったものだと思っていた。任務は終わったものだと。
「どうしましたか? 他に連絡手段がなかったので、どうしようもなくて……ご迷惑をおかけしましたか?」
「いや、そうじゃないが」
「よかったです」
ほっと寛ぐハルは、およそ一ヶ月前と大きな差が見受けられない。ごく自然に俺に接して、俺のことを受け入れている。
長期の休み。
友人の言葉を思い出す。どうやら、その夏休みを普通に休んでいただけらしい。その割には、あまりにも会えなかった。どうにもすれ違いの日々を送っていたようだ。
まだ学園に通っていて、学生生活を送っているのならば、任務は続行中ということだろうか。
「……どこかに入るか?」
「そうですね……でも、カインさん、それ」
「ああ、もうすぐ飲み終わるから。どこがいい?」
ハルは当たり前のように俺についてくる。躊躇いなどなく懐いてくれるのは、嬉しいものだ。
関わらずに済むほうがよかったかもしれない。
そんなふうに思っていたくせに、こうして会えばすぐに元通りになってしまう。不思議なものだ。自分がこんなにも意志薄弱な行動を取るとは思ってもみなかった。
ハルが自然でいるからこその状態であるのかもしれない。
「カインさんは、どういうのが好みですか? 甘いところに入りましょうか?」
「ハルは? どこでもいいのか?」
「私はいつでも行けますから。カインさんは、また帰るんですよね?」
「それじゃあ、ハルのオススメを頼む」
「はい。任されました」
ぱっと笑う顔つきは、一ヶ月前と何も変わらなかった。時間の経過も、こちらの心情も無関係であるようだ。
こちらでは、連絡を取るなど赤子の手を捻るようなものである。それだというのに、これほどの期間が空いた。こちらとしては、さほど長い時間ではないが、ハルにとってはそうではないはずだ。
時間経過は気にならないものなのだろうか。それとも、原因が分かっているから落ち着いているのか。ハルは静かに俺の隣を歩く。一ヶ月前の光景と何も変わりはしない。気負いも見当たらなかった。
俺は残りのカフェラテを飲み干す。沈黙が気にならない程度には、慣れ親しんでいたはずだ。けれど、今ばかりは気になってしまう。友人などという不慣れな存在を認めたことは、俺には不釣り合いだったのかもしれない。
ちろりと見下ろすハルが実にいつも通りで、自分のありように苦笑してしまった。
「……どうなった?」
手ぬるく呟くようになってしまったのは、会えなかった空白によるものだろう。決して、進捗を聞くことに尻込みしたわけではない。
こちらを見上げたハルは、悲しげに眉を下げた。それから、言葉なく首を左右に振る。失敗。分かりやすい態度に、眉を顰めた。
ハルの不手際を責めようとしたわけではない。不審が募ったのだ。あれほど順調であったというのに、何をどうして失敗してしまったというのか。まるで見当がつかない。
確かに、ハルはスパイに向いているとは思えなかった。相手を堕とすという、ある意味嘘を吐く行為は、ハルには向いているとは未だに思えないのは事実だ。それを思えば、失敗も正当なのかもしれない。
だが、どうしても不思議さは拭えなかった。ここまでの手際を思えば、不向きであっても成功できそうだったのに。俺が楽観的になり過ぎていたのだろうか。
ついつい思考に耽ってしまった俺に、ハルはぐしゃっと表情を歪めた。
「ごめんなさい」
「なんで?」
謝られる理由が分からない。目を瞬いてしまった。
「だって、カインさんが、いっぱいアドバイスしてくださったのに、」
今にも泣き出しそうな顔から零れる声は震えている。
「そんなことは気にしなくていい」
「初めから、私じゃなかったんですよ」
泣き声になっているハルに、気持ちが暴れた。
ここまでしょげかえる理由が分からない。湊人がハルに振り向かなかったとしても、それは失態でしかないだろう。それにへこむのは分かるが、泣き出してしまいそうなほどか。
悔しさに歯を食いしばったことはあるが、悲しさに泣きたくなったことはない。無念さはあるが、情はないものだ。任務であるのだから。
ハルが表情豊かだったのは知っていたが、感情がここまで豊かだったとは知らなかった。スパイに向いていないのは知っていたけれど。
「泣くなよ、ハル」
「……泣いてませんよ」
言いながら、瞬きが速くなっている。視線が下がって、歩調が遅くなった。
「ハル」
「だって、しお……しおと、」
ぽろぽろと雫が落ちていくのが見えて、どっと冷や汗が出る。
裏側の世界に生きていた。個人的に対面して、人に泣かれるなんてことは滅多にない。恐怖に慄いて壊れる涙腺は知っているが、こんなふうにしとしととした落涙は知らなかった。気持ちが上滑りする。
「待て、ハル。分かったから。ゆっくり聞くから、泣かないでくれ」
街中で泣かれてしまっては、どう励ましていいのかも分からない。ハルは涙を拭ってこくこくと頷いた。
「オススメはいいから、どこかに入ってしまおう。カフェでいいか? それとも、もっと密室……カラオケとかにするか?」
「……カラオケに、します」
人目を気にする内容があるということだろう。
まぁ、それもそうか。任務に関わることを不特定多数に聞かせるのはまずい。今まではまだ恋愛話だったが、今日は突っ込んだ内情を話すつもりがあるのかもしれない。俺ならいいのか、と言う疑問はあるが、これは今更なのだろう。
ハルは小さな歩幅で、勢いはまるでないが、引率してくれるようだ。俺は黙ってその後ろについていった。本当なら、へこんでいる人間を先導してやるべきなのだろう。だが、どれだけ言ったところで、店の場所が分からない俺にできることはなかった。
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